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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

目指すもの
2013-11-01

目指すもの

代表取締役社長 大井建史

この所、秋の日本酒を楽しむ会などが続き、六週間ぶりとなる休日に家内と二人、パーコレーターとガスコンロ・椅子を車に積んで法体の滝まで読書に行くと、何とも清々しく気持ちの良い秋を体感できました。

鳥海山には初冠雪が見られ山々も色づき始め、新米の入荷が始まります。いよいよ酒造りの季節がやって来ました。天寿酒造創業以来百四十回目の酒造り、私は社長になって十五年目、そして秋田県最年少一関杜氏の二造り目が始まります。

杜氏を中心とした蔵人と酒造り前の「頭固め」として、酒造計画の説明と宴会も済ませました。計画については杜氏とじっくり時間をかけて練って参りました。酒米研究会のメンバーである蔵人に今年の酒米の出来について聞きましたが、夏の研究会で心配されたバラつきはあるものの平均的な質には成っているようです。しかし、世間の飯米の値下がりとは関係なく、契約栽培の原料米については昨年よりかなりの高値で、酒造好適米については相当の不足となります。

酒造協同組合の原料米対策委員長を務めて六年。兵庫県の山田穂の誕生の地である多可町に山田錦の秋田村を作り、初の酒造組合との村米制度(強固な契約栽培)をはじめて三年。一般かけ米(地域流通米)も県内農協と契約栽培とし、弊社だけでなく秋田県の造り酒屋全てが契約栽培米を使用する事で、これまでよりも農家との結び付きが強くなりました。

天寿では、この四年で社員五名が定年等で退職し、十月から採用の営業部長を含め社員三名・パート三名・再雇用一名。来春には一名定年退職となり、製造の正社員の一名採用が決定しています。蔵人も三人が若者に変わりました。

長年にわたり、酒質の向上・社員の多能工化・天寿酒米研究会の充実、何より誰もがチーム天寿の一員として、自分で考え提案して行動できる集団になり「一丸体制」を実現する事を目指してきましたが、海辺に子供が作った砂山のように、出来ては崩れまた積み上げて行くという繰り返しです。しかし、平均年齢が若返る事により、それは空しい事では無く、会社のアンチエイジング・若返りだなと思えて来ました。

今年「新しい杜氏で心配したが、良い酒ができて良かった」と多くの方にお声をかけていただきました。勿論、杜氏も精一杯頑張りましたが、それを支えてくれた蔵人をはじめとする社員全員の成果だと思います。今年も純米大吟醸鳥海山のISC金賞をはじめ、多くの賞を頂くことができました。本当に有難く思います。

百四十回目の酒造り、業界は大きな潮目に来ている感がありますが、ここで新しいメンバーと共に懸命に努力し、私どもが目指す「地元で出来る最高の日本酒」の実現に邁進して参ります。

天寿の歴史

補 遺-24

補遺―24

丹波杜氏鷲尾久八ー三

六代目 大井永吉

鷲尾は先述したように、明治二十三年に矢島酒造組合に勤務した後、二十五年から四十年にいたる間県内各地酒造場で杜氏として灘の技術を導入し、また後継者の教育育成に努めたが、特に矢島の酒造家のように改良組合を設けて指導を受けたところは無かったようだ。矢島では個別にも須貝太郎藏、武田源吉、大井源一郎酒造場に選任或いは兼任杜氏として勤務している。(秋田県酒造史)

明治三十年に大井源一郎酒造場が勤務を依頼したことに対し報酬や条件などを述べてきた手紙が保存されているので、なるべく原文に忠実に内容を記述してみる。

本日二十日御差出の貴墨正に到着、拝見仕り候。貴翰の如く暑気未だ去り難く候所、御満堂様益々健勝の由、上賀奉り候。

陳者、今般酒造御改良に付いては御懇切に御申し下され、有難く、実は小生も多忙に候得共、去 他に相当の者も之無く、付いては御懇切に御申し下され候義に候間、繰言、小生罷り出候亊を承諾仕り候に付き、何分宜敷く御依頼申し上げ候。付いては左の通り御承引置き下され度。

一、給料、旅費ともにて、先三ヶ月と見做し、百六、七拾圓申受け度く候間、御承引下され候哉。御回答下され度、尤も其の内前金に七拾円計り申し受け度く候。

一、出張の季節は新暦十一月中旬の出立と致し候はば適当と相考へ申し候。

一、右御承諾下され候はば、直ちに御回答を相受け次第、今般御申越しの器械等の義は申し上べく候。

右之通りに付き、三か月と見做にも何かれ往返の日数も相掛り候義に付、其余数日は相掛り候義と御承引下され、何分の義、御回答待ち奉り候義也。

明治三十年 八月廿九日

摂津國有馬郡小野村之内丹子村

鷲尾久八

大井源一郎様

指導依頼に対し、多忙だが他に適当な人もいないので自分が行くが、三ヶ月で百六拾~七拾円頂きたいし、前金に七拾円申し受けたい。承諾してもらえれば、お尋ねの器械等のことは教えましょうとの回答である。

冷や水
2013-09-01

冷や水

代表取締役社長 大井建史

暑さと大雨で忙しい夏でしたが、皆様お元気でお過ごしでしょうか?お陰様でお盆の商戦も終わり、雨が多く湿気はあるものの、朝晩の涼しさや虫の音にほっと一息と言う所です。

最初はあまりの日照り続きで農作物の被害を嘆きながら、空梅雨の心配をしていましたら、今度は断続的なゲリラ豪雨の被害に怯える日々が続きました。昨年の米の高温障害が頭をよぎり、8月に入ってからの猛暑日を数える日々でしたが、幸い酒蔵周辺には今の所、大きな心配はしなくても良さそうな状態です。ただし、異常な気象により稲の茎が倒れやすく、あと2週間大風が来ない事を願うばかりです。

お盆に高校の剣道部の恩師を囲む会があり、その酒間に地元の先輩から土用稽古の誘いを受けました。実は四半世紀も防具を付けていないので稽古など無理なのですが、「竹刀がないので」と恰好をつけましたら、何と会社に「社長に渡せばわかるから」と新しい竹刀と土用稽古の案内が届いておりました。「先輩にえらい事を言ってしまった」訳ですが、小学生の打ち込み台位には成るだろうと、見栄の続きで出かけました。

久しぶりの道場の雰囲気。少年・少女剣士のなんとかわいい事。私はと言えば、稽古着を付けただけで一練習終わった程の汗をかきました。防具は地元に帰り中学校等に練習をつけに行っていた頃(暫くは気にしていなかったのですが)あまりのボロさに思い切って買ったものです。その後三度しか使っていない新品?のため、全てが固く筋力の衰えた私は往生しました。まして、下半身はこんにゃくの如くです。一週間経っても筋肉では無く、踵や手首の筋が痛んで失笑しながら、鍛え続けた先輩たちの体が、十歳以上私より若々しい事を羨んでいるこの頃です。

先日、県の酒米生産流通の会議がありました。5月にお伝えした厳しい状態から大きな変化は出ておりませんが、各地の酒蔵からの訴えに酒米生産に対する国の事情聴取は始まった様です。これから増産される好適米は減反の対象外にする等の話が出ている様ですが、これから調べても来年のものになるのは難しそうですね。何しろ種もみが取れる稲刈り前に決まらないと、来年は何も出来ないのですから…。

酒造好適米は食味が劣る為、典型的な加工用のお米です。現在の一般飯米の中から加工米(転作作物扱い)として低価格で買い取った物とは根本的に異なります。酒造好適米は、国内の生産量からいけば非常に少なく%に乗らないのですから、全量減反対象外として頂きたいものです。ただし、使用量には限りがありますから、事前に酒の業界(酒蔵)との契約栽培として過剰作付を制御できれば、何の問題も無くなると考えるのですが…。

弊社は明治七年九月に清酒製造免許を頂き、一関杜氏と百四十回目の酒造り計画を勧めています。頑張ります。

天寿の歴史

補 遺-24

遺―24

丹波杜氏鷲尾久八ー三

六代目 大井永吉

鷲尾は先述したように、明治二十三年に矢島酒造組合に勤務した後、二十五年から四十年にいたる間県内各地酒造場で杜氏として灘の技術を導入し、また後継者の教育育成に努めたが、特に矢島の酒造家のように改良組合を設けて指導を受けたところは無かったようだ。矢島では個別にも須貝太郎、武田源吉、大井源一郎酒造場に選任或いは兼任杜氏として勤務している。(秋田県酒造史)

明治三十年に大井源一郎酒造場が勤務を依頼したことに対し報酬や条件などを述べてきた手紙が保存されているので、なるべく原文に忠実に内容を記述してみる。

『本日二十日御差出の貴墨正に到着、拝見仕り候。貴翰の如く暑気未だ去り難く候所、御満堂様益々健勝の由、上賀奉り候。

陳者、今般酒造御改良に付いては御懇切に御申し下され、有難く、実は小生も多忙に候得共、去○他に相当の者も之無く、付いては御懇切に御申し下され候義に候間、繰言、小生罷り出候亊を承諾仕り候に付き、何分宜敷く御依頼申し上げ候。付いては左の通り御承引置き下され度。

一、給料、旅費ともにて、先三か月と見做し、百六、七拾圓申受け度く候間、御承引下され候哉。御回答下され度、尤も其の内前金に七拾円計り申し受け度く候。

一、出張の季節は新暦十一月中旬の出立と致し候はば適当と相考へ申し候。

一、右御承諾下され候はば、直ちに御回答を相受け次第、今般御申越しの器械等の義は申し上べく候。

右之通りに付き、三か月と見做にも何かれ往返の日数も相掛り候義に付、其余数日は相掛り候義と御承引下され、何分の義、御回答待ち奉り候義也。

明治三十年 八月廿九日

摂津國有馬郡小野村之内丹子村

鷲尾久八 大井源一郎様』

指導依頼に対し他に適当な人もいないから、多忙だが自分が行くが、三ヶ月で壱百六拾~七拾円頂きたいし、前金に七拾円申し受けたい。承諾してもらえれば、お尋ねの機械等のことは教えましょうとの回答である。

これに対し、再度の交渉の結果が次の返信である。

『貴墨拝見仕り候。時下秋冷相厳し候所、御満堂様御健勝上賀奉り候。陳者貴殿御懇切にお申し越し下され、有難く、実は九州地方より雇い入れの義、申し込まれ候得共、相成るべく御地方の方へ罷り越し度候義に付、尤も殊に御懇意をも蒙り居り候を以て、貴殿御申越し成られ候通り、三ヶ月を百五拾円にて、路費等小生引き受けにて御雇入下され候事を承諾仕り候間、御雇入下され度、出発は本年十一月下旬と相見込み居候。依って左之通、申上候。

右給料之内。六拾円丈、前金として十一月上旬迄に丹波国篠山郵便局へ為替にて御振込成られ度、御依頼申上候。

右之通りに付、須貝様へも宜敷御申伝へ下され度、何れ参舘之節は、尓直宜敷御依頼申上候。

明治三拾年九月十二日

摂津国有馬郡小野村ノ内丹後村

鷲尾久八 大井様』

交渉の結果、須貝酒造場と兼務の指導で月五十円で契約成立したようである。住い食事は雇い主もちだから、当時としてはかなりの高給だったと思われる。器械(設備、道具)についても回答(別紙同封)があった。

○『御新調下され候器械之義は、エダ桶(枝桶)御都合拾三、四本、尤荒木之寸法は四尺幷にフタは枡に応じ御調下さるべく候。

○親桶は在来之分にて宜敷と相考候。

○掛ケ船は拾弐石掛ケ位、尤ツギ輪ともの亊に候。横幅内ノリ弐尺三寸、長さ大阪袋(モロミ)入レ八枚、ならびに成されたき所は、大工職の者承引致し居り候。

○袋数は凡四百枚入用に付、尤二タかわりと相成候。

猶なお、真に申上兼ね候得共、醸造好結果を得たる節は、氏神へ共にも神酒を御交付成され候亊を御承諾下さる可様、兼而願い上げ奉り候。

プライド
2013-07-01

プライド

代表取締役社長 大井建史

先日、暫く中断し昨年から復活した天寿酒造・大井製材所のОB会が行われました。懐かしい顔が沢山ありましたが、ほとんどは私が地元に帰った時に現役だった人たちです。一様に懐かしそうな顔をして、私の子守がスタートだったお手伝いさんも、近くに来ては53歳の私の世話を焼き始めるのです。強者達も酒を減らすスピードは落としながらも元気な姿が有難く、何とも幸せな気持ちになるものですね。

私が帰った頃のОB会は子供の頃にいた人達、又はそれより前の人たちが多く参加しており、驚きの話や不思議な話を色々聞かせてもらった事を思い出しました。百歳を超え、いまだ健在の元蔵人の佐吉さん。この人からの最初の話は「酒の一滴は血の一滴」。これは矢島の八朔祭りの仮装踊りをさせられた最初の年(28年前)。町内中で朝から酒を振る舞われ、夜の七時も超えたクライマックス近くによろよろとした私が佐吉さんの家の前で「あんさん!!家の酒も一杯飲んでくれ」と特大のコップに並々と注がれ「ウワッ」と思いながらも頑張って殆ど飲み、底の一センチ位をサッと払ったのが夜なのに見えたらしく「あんさん!!先代のおやがっつぁん (お館さん)は酒の一滴は血の一滴と言われてetc.etc.」「わかりました。私が悪かった。」と再び特大コップで頂き記憶が飛びましたが、家には無事たどり着いておりました。

次も佐吉さんの猫鍋話。「おれ、おやがっつぁんさ猫かしぇで(食わせて)しまたぁ。」と告白。戦後直ぐでタンパク質不足で大変だった頃、蔵の賄に肉鍋を作った。「あれは灰汁ばかり多くて調理は大変」と経験者の言。そこに五代目のからんころんと下駄の音。「まずいおやがっつぁんだ!!」と思ったがガラリと蔵のエンバ(休憩所)に入って来て「何だ肉鍋か?豪勢だな」と一言。蔵人はシーンとなったが猫だとは言えなかったから、佐吉さんが「おやがっつぁんもどうぞ」(汗)と皆で「旨い、旨い」と食べたそうな。

こちらはめらし(お手伝いさん)で来た人の話。戦前と思われるが、昔は今の商工会館(会社から50m)のところに銀行があって、見た事がないような年末の売り上げの札束を風呂敷にくるんで何人かで分けて届けさせられた(大恐慌の頃かな?)。それが銀行に着くまで怖くて怖くて腰が抜けそうだった話。6代目が豪腕で高校生の頃、片手で一俵ずつさしあげた話(親父曰く、そりゃウソだ)。天寿が一番にならないと利き酒を終わらせてくれない5代目の話(この話は多い。天寿を確実に当てそれを一番と言わなければならないプレッシャー談)等々色々出てきます。

先日のОB会で「俺はよ。天寿で使ってもらってホントに良かった」と何度も何度も言ってくれる人がいました。

人の一生の中で、会社に勤める時間は実に大きな比率になります。個人としてそれは誇るべき時間とするべきだし、そうでなければ自分の人生がつまらないものになります。

天寿の社員だったと言う事が誇りになる会社であり続けなければならないなと、改めて感じ身を引き締めるひと時でした。

天寿の歴史

補 遺-22

補遺―22

丹波杜氏鷲尾久八ー三

六代目 大井永吉

明治二十年秋田県が兵庫県に杜氏推薦の申し出をするにあたりその選を受け、平鹿郡酒造組合に雇われ同郡酒造場の技術指導にあたったのが本県の酒造業にたずさわった初めである。

明治二十三年よりは由利郡矢島町酒造組合に雇われて組合員酒造場に勤務し、…同二十六年以降四十年に至る間は、亀田町…「清正」醸造元、矢島町…須貝太郎・大井源一郎・武田源吉酒造場、本荘町石脇…斎藤弥太郎・斎藤重衛門酒造場等の専任または兼務杜氏として酒造にあたり、灘の技術を導入しまた後継者の教育育成に努めた。その結果各醸造元の酒質の向上は目醒ましく、特に永年酒造にあたった矢島町では、酒造家による改良組合を設けて旧来の醸造法を捨てて同氏の醸造法を取り入れた。その結果矢島酒の名声は著しく高揚し…矢島酒の確固たる基礎が築かれた……。

初めて科学的製造技術が進められた明治末期以前において、灘の技法を県内の多くの酒造場に導入実施して本県の酒質の向上をみるに至った氏の功績は誠に大きい(秋田県酒造史本編)。

三代目与四郎は選任の指導は受けなかったようだが、長男の亀太郎を師事させている。

「夫レ酒造ノ技タル米素水質ハ論ヲ俟タス天ノ時地ノ利人ノ和等皆宜キヲ得テ至極至妙ノ間ニ自然機能ヲ媒シ以テ発酵熟成セシムルモノニシテ口以テ言フヘカラス指以テ示スへカラス所謂以心伝心ナルモノ先進後進相接シテ歳月ト経験ト相俟チ知ラス識ラサル、間纔ニ会得スルノミ簡単ナル学理ノ能ク標準ヲ律シ得ヘキモノニ非サルカ如シ余多年司醸中傍ニ在リテ業ヲ受ケ斯道ノ順序ヲ解セシモノヲ挙クレハ左ノ如シ」

これは鷲尾久八の書いたもので、その中に亀太郎の名前がみえる。

矢島町 明治二十四年卒業

土田安吉

同   明治二十四年卒業 

大井亀太郎

そして三年たって、八坂三吉、須貝伝平、真坂荘三郎、土井久治、といった人々の名前が連なっている。

次の記録がある。

兵庫県摂津の国 有馬郡母子村

鷲尾久八

本郡矢島地方酒造業者ノ嘱託ニ応シ酒類醸造方法改良ニ従事スル数閲月ナリト雖モ能ク風土事物ヲ審按シ大ニ其効ヲ奏セシハ営業者ノ歓喜何ヲ以テ之ニ喩エンヤ仰本地タルヤ水質他ニ優レル以テ其醸造他方ニ譲ラスト雖モ輓近各地ノ進歩ニ随ヒ自ラ名声ヲ失フノ傾ナシトモセス今ヤ結果ノ美良ナル本県管内此右ニ出ルモノナキヲ信スルニ至レルハ要スルニ多年実験ノ技倆ヲ振ヒ懇切周到宜ク教師ノ任ヲ盡スニ非レバ焉ソ如此神速ノ功ヲ頼ムヘケンヤ是特リ営業者ノ鴻利ニ止マラス即チ本郡ノ幸福ナリトス依テ聊カ所思ヲ述ヘ其功労ヲ表ス

明治二十四年四月五日

秋田県由利郡長 正八位

小助川光敦

郡長の感謝状である。この小助川郡長は天保元年五月十四日、矢島城下に生まれた藩士の子、幼名太右衛門といった。明治十二年十月矢島藩権少参事に任ぜられ、五年十一月秋田県小属となっている。

そして十年九月大四大区区長を拝命、十一年十二月南秋田郡の郡長に抜擢され、明治十六年二月四代目の由利郡長になった人で矢島地方酒造業者への肩入れが感じられる。

原料米事情
2013-05-01

原料米事情

代表取締役社長 大井建史

今年は四月十五日に皆造となり、十九日には蔵人が家路につきました。

昨年より9本増の酒造りでしたが、前にお話ししました様に高温障害のため溶けない米に悩まされる非常に難しい酒造りの年でした。それでも蔵人が一丸となって一関新杜氏を盛り立て、杜氏もその責任を全うしようと立派な酒造りをしてくれました。

今期の新酒生酒商品も、お陰様で全て前年を超える出荷量で一安心ではありますが、純米大吟醸鳥海山をはじめ、清澄辛口本醸造鳥海山・純米酒・本醸造・精撰等早くも新酒へ切り替えた商品が出てしまい、昨年・今年の原料米不足も深刻になって参りました。

昨年までは、放射能問題や天候不順によるものと考えておりましたが、政府や酒造組合中央会で手配する加工用の米の集荷が非常に悪く、当てにならなくなったと思います。県によっては予定の20%しか集荷できないなど、唖然とする数字が出てきます。一昨年は政府の備蓄米を充てましたが、今度は放出した備蓄米の補充をしようと高値を付け国内の米の値段が上がると言う悪循環になってきました。

現在秋田県酒造組合の原料米対策委員長として原料米確保や品質向上に係わっていますので、値段もさることながら量が足りない事は大問題です。天寿では、JA新あきたと契約している地域流通米、JAこまち(湯沢酒米研究会)の美山錦・酒こまち、兵庫県みのり農協と契約しているあきた村の山田錦、そして、天寿酒米研究会の酒造好適米を使用しておりますが、現在増産の話はかなり厳しくなっております。これには長年にわたる減反政策による農業従事者の意欲の減退・高齢化・後継者不足等が一挙に表面化して来た様な怖さを感じます。

それなのに減反政策はそのまま継続、現況が見えていないのか米が足りない今も備蓄米買い上げへの執着を改めない政府は無策と言わざるを得ないのでは無いでしょうか?

これまで東京は地方が育てた優秀な人材を吸い込む事で発展して来ましたが、地方の営みを知らない役人や国会議員が多くなりすぎるのも地方衰退の原因になるでしょうし、地方の衰退した東京もまた活力が急激に落ちるのではないでしょうか?

日本酒の業界は長年値上げをしておりません。これは長期にわたる売り上げ不振の弱気と米価の下落による原価低減のお蔭でした。しかし、加工用の玄米でさえ過去二年で一俵(60㎏)3,000円上がり来年は少なくとも2,000円は上がる事が確定しています。三年で一俵5,000円の値上げ・電気・重油の値上げに加え、アベノミクスのインフレ狙いに日本酒業界は耐えられないのではないかと考えます。

定価販売をやらない大手・低価格蔵以外では、値上げの話が出てきており佐賀県では既に値上げを実施いたしました。値上げが有るとすればこれまでの大手主導型から地方酒蔵主導型になるのではと考えます。

弊社もコストアップと高温障害原料米の酒化率の悪化に溜息をついているところです。

天寿の歴史

補遺―21

補遺―21

明治十四年・十六年

六代目 大井永吉

明治十四年九月三十日、醸造見込み届と同時に「引き継ぎ営業願」(営業税三拾円)を大井与四郎名で出している。此の年から醸造と経営は長男与四郎の手に移り、二代目永吉は隠居している。与四郎は二十六才、既に二男一女の父親であった。

当時、厳しいことに、酒造のための他所からの住込み雇人は警察に届が必要だったことが分かる。

明治十六年には「酒造関係建物書き上げ」という極簡単な図面と「酒造諸器械調」を提出している。

酒 造 見 込 石 御 届

一 玄米百二十石

白米百八石 但、玄米一石

ニ付一割減

此清酒百弐拾石

内  新酒弐拾石

夏酒百石

右者、明治十四年十月ヨリ来ル明治十五年マテ一期醸造見込石相違無之、依而此段御届申上候也、

由利郡城内村 大井与四郎㊞

明治十四年九月三十日

由利郡長  蒔田広隆殿

前書之通相違無之、依而奥印仕候

戸長代理

筆者 佐藤昇三郎㊞

(朱書)

「書面届出之趣聞置候事」

明治十四年九月三十日

秋田県由利郡長 蒔田広隆㊞

清 酒 醸 造 引 継 営 業 願

清酒醸造引継仕度奉存候間御許可相成度、依之営業税金三拾円並ニ見込石書・醸造方法書相添、此段奉願候也、

由利郡城内村 大井与四郎㊞

明治十四年九月三十日

由利郡長 蒔田広隆殿

前書之通相違無之、依而奥印仕候

戸長代理

筆者 佐藤昇三郎㊞

(朱書)

「書面願之趣聞届候事」

明治十四年九月三十日

秋田県由利郡長 蒔田広隆㊞

臨 時 止 宿 御 届

秋田県羽後国平鹿郡沼館村

塩田利吉

当三十三年

妻 オリエ

当弐十六年

右者、本日五日私方ニ於テ酒造為致度、臨時止宿為致候間、此段御届申上候、以上

由利郡城内村

明治十四年十二月六日

大井与四郎㊞

矢島警察分署 御中

酒 造 関 係 建 物 書 上

天寿の歴史(五)ー4前出に付き省略

酒 造 諸 器 械 調

一酒槽   壱個

一枠    ナシ

一男柱   壱本

一締メ木  壱本

一掛ケ袋  百五拾箇

一タリ桶  弐箇

一蒸酒器  壱組

一磑    ナシ

一甑    弐箇

一層枠   五箇

一蒸釜   弐箇

一半切   四拾弐箇

一試シ桶  四箇

一桃桶   八箇

一担桶   八箇

一柄杓   ナシ

一麹板   百五拾枚

一碓    ナシ

右ハ、酒造ニ属スル諸器械即今処持之分書面ニ相違無之候、尤、以後増減在之節者其段々御届可仕候也、

明治十六年十月

由利郡城内村酒造営業人

大井与四郎

右戸長 竹村秀高

秋田県由利郡  酒造検査官

純米大吟醸「鳥海山」
2013-03-01

純米大吟醸「鳥海山」

代表取締役社長 大井建史

品切れ中の純米大吟醸「鳥海山」ですが、昨年は私共の予想を遥かに超えるご購入を賜り、誠にありがとうございました。6月から出荷調整に入り、新規取引の抑制や蔵元直売を停止等、皆様には大変ご迷惑をお掛けしながらも、ご理解をお願いして参りました。

今期は原料米の不作・不足・高値、重油の高騰、大雪等不安要素はありながらも酒造りは順調に推移し、活気に充ちた蔵内では次々と新酒が生まれて来ております。

純米大吟醸「鳥海山」の最初の仕込みも12月に上槽・瓶詰・瓶火入れをし、暫くの鎮静・熟成期間を置かせて頂きましたが、いよいよ3月4日(月)より新酒を出荷させて頂きます。

1月出荷の見通しが大幅に遅くなり品切れ期間が長くなってしまいました。品質確保の為の選択ですので、ご容赦くださいます様お願い申し上げ、重ねて新酒の出来栄えにご期待下さいます様お願い申し上げます。

蔵開放御礼

蔵開放イベントには、今年も1500人を越える多くの方々にご来場頂き、誠にありがとうございました。ボランティアスタッフには36名ものご参加を頂き、内13名は初めての方と言う事で、会場にも新たな雰囲気が生まれ、打ち上げも盛り上がって楽しく過ごす事が出来ました。ご協力頂いた皆様に改めて篤く御礼申し上げます。

天寿の酒蔵に親しみを持って頂こうと2000年から開始したイベントも皆様のご参加により14回を数えるまでになりました。青団連や商工会・観光協会からの共催の申し入れにより矢島雪祭りに成長した事は、私共としても些かばかり地域おこしにも貢献出来たと喜んでいる次第です。

喉もと過ぎれば

それにしても、良く雪が降ります。そこに数年ぶりの大寒波。秋田県は秋田市以北の積雪量が観測史上最高と言っております。

こんな時に灯油・ガソリン・重油が値上がりし、電気も値上げが決まり、雪国には重い話です。

私は東日本大震災後の3月15日の暗くて薄寒く食料品がほとんど無い羽田空港を覚えていますが、現在は旅客が暑くてコートを手に持っていても汗をかき、店舗の店員は半袖ミニスカート。節電が重要な我国の現状の中、地方からの送電で成り立っている東京の公共機関である空港が、真冬なのにそんな店員の服装に合わせた温度に暖房しているのはいかがなものか、と考えるのは私だけなのでしょうか?

天寿の歴史

補遺―20

補遺―20

明治十二年~十三年

六代目 大井永吉

明治十二年六月に地方税の内営業願というものを出しているが、酒類以外の麹などを小売するのに郡長の免許が必要だったようだ。翌十三年には清酒仕込用麹に残余が出たから売りたいと検査願をだしている。味噌も小売りしていた事が記されている。明治十二年の醸造見込み届は百三十石に増やされている。

地 方 税 之 内 営 業 願

今般甲第八十五号御達ニ基キ、別紙種目之通営業仕度候間、御届被成下度奉願候也、

明治十二年六月

由利郡城内村百七番

大井永吉㊞

由利郡長  御代信也殿

(朱書)

明治十二年六月十一日免許㊞

売 捌 高 書 上

一金百四拾壱円也

金九拾円也    麹小売高

金弐拾壱円也   醔麹小売高

金参拾円也    味噌小売高

右者、明治十一年壱ヶ年間売捌ニ而、書面之通相違無之候也、

明治十二年六月

由利郡城内村百七番地

大井永吉㊞

由利郡長  御代信也殿

清 酒 醸 造 見 込 石 御 届

玄米  百参拾石

此製酒百弐拾石

玄米  三拾石

此新酒三拾石

玄米  百石

此夏酒九拾石

右者、本年十月ヨリ十三年九月迄醸造見込石相違無之、依而此段御届致候也、

明治十二年十月

由利郡城内村

大井永吉㊞

由利郡長  御代信也殿

前書之通相違無之、依而此段御届致候也

戸長 石川勝良㊞

(朱書)

「書面届出之趣聞置候事、」

明治十二年十月十八日

秋田県由利郡長

御代信也代理

秋田県由利郡書記 坂本忠助㊞

売 却 用 秋 麹 検 査 願

一醔麹三斗壱升五合

右者、清酒醸造仕込用之内残余相成候間、売元ヘ相回度、依而御検査被下度候也、

明治十三年三月 日

由利郡城内村

大井永吉㊞

秋田県御傭  西宮恒雄殿

搾 器 封 印 請 書

(朱書)

「十三年三月三一日 開封㊞」

一搾器械御封印   四ケ処㊞

右之通本日御封印相請候ニ相違無之候也、

明治十三年二月十九日

由利郡城内村百七番地

大井永吉㊞

秋田県御傭  西宮恒雄殿

御 請 書

搾器械

御封印      四ケ処㊞

右之通本日御封印相請候ニ相違無之候也、

明治十三年五月十弐日

由利郡城内村

大井永吉㊞

秋田県租税課御傭

西宮恒雄殿

創業百四十周年を迎えます
2013-01-01

創業百四十周年を迎えます

代表取締役社長 大井建史

明けましておめでとうございます。

旧年中は格別のお引き立てを賜り心から御礼申し上げます。

矢島の里は雪の降り始めの量にも驚きましたが、正月休み中の天気も寒波が来て毎日家内と雪寄せしながらのお正月でした。皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか?

昨年の十月から事務所の改築工事に入りました。今年九月に創業百四十周年を迎えるにあたり、事務所の外壁の補修を兼ねて外観を変え、天寿のお酒により楽しんでふれて頂けるよう新たな空間を目指して、常設試飲場を併設いたしました。天井には創業期に建てた二号三号蔵の太い棟を六代目が製材所に持ち込み、棟書き部分のみ板に挽いて残してあったものを展示いたしました。

酒造りの方は一関陽介杜氏のもと、高温障害の困難な原料米にもかかわらず、一昨年の同様の経験が物を言い、また、酒米研究会内で暑かった出穂後に水を当てる事が出来た田圃を調査し、生産者毎に細やかに対応が出来ました。さらに昨年の二名に加え若手の蔵人が一名加わり、蔵の中が一挙に若返った感があり、元気に明るく頑張っております。

緊張しながらの酒造りの毎日ですが、新酒の評価を頂くにつれ、若干の安堵と品質への確信を深めてきたところです。

昨年も純米大吟醸鳥海山が「ワイングラスでおいしい日本酒アワード・最高金賞」「全米日本酒歓評会・金賞」、燗上がり純米酒が「燗酒コンクールぬる燗部門・最高金賞」受賞等大きな評価を頂きました。

伝統を守りつつ更なる向上を目指し邁進して参ります。

本年も変わらぬご愛顧の程お願い申し上げます。

天寿の歴史

補遺―19

補遺―19

明治十二年―其の二

六代目 大井永吉

搾器械に関する届が多く出されている。搾器械とは木製の箱状で酒袋に醪を注いだものを積み重ね上から圧をかけて搾る酒槽(さかふね)のことで、以前は天秤式で大きな石を錘にして圧搾していた。時代と共に仕込の大きさに従い槽の大きさも変わり、圧搾も油圧式となり、現在は自動圧搾機に進化している。当時、酒造期以外は封印され、造りが始まると使用に先立ち開封許可が必要だったようだ。寸法、容量も検定を受けなければ使用できなかった。課税が造石税だったので製造石数には厳しかったと思われる。

清酒掛槽明細御届

清酒掛槽壱個

巾  二尺九寸

長サ 四尺九寸五分

深サ 二尺七寸五分

此入石六石八升九合

此掛石五石五斗

此滴石四石壱斗八升五合

右之通相違無御座候、  以上

秋田県由利郡城内村百七番地

明治十二年三月    大井永吉㊞

秋田県令  石田英吉殿

搾器械枠新調御届

長サ 四尺八寸八分

一枠 巾  二尺八寸八分 壱個

深サ 八寸七分

右新調仕候間此の段御届申し上げ候、            以上

明治十二年三月 由利郡城内村

大井永吉㊞

由利郡出張官

秋田県等外三等出仕 井上金吾殿

御 請 書

搾器械御封印    三ケ処㊞

(別筆)

「明治十二年十一月廿九日 開封㊞

秋田県九等属 熊谷 直諒㊞」

右之通本日御封印相請候、相違無御座候、依而此段御請仕候也

明治十二年四月廿九日

羽後国由利郡城内村百七番地

大井永吉㊞

秋田県出張官 林 金吾殿

搾器械封緘破裂ニ付御検査願

本年五月中由利郡出張官林金吾殿夏酒御検査之末搾器械御封印相成候処、本日十五日醸造場取片付之際誤テ女種之封緘破裂仕、其疏漏之段恐入候、此旨村役場江モ御届致置候、依之、奉願候モ恐縮之至ニ候得共、何卒特別之御詮議ヲ以速ニ御検査被成下度此段奉願候、 以上

明治十二年十月 由利郡城内村

大井永吉㊞

秋田県令 石田英吉代理

秋田県小書記官 小野修一郎殿

書面之通相違之無、依而奥印仕候、

戸長 石川勝良㊞

(朱書)

「書面願之趣聞届、不日官員出張令検査候事、」

明治十二年十月廿七日

秋田県令 石田英吉代理

秋田県小書記官  小野修一郎㊞

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