137回目の酒造り
代表取締役社長 大井建史
ついこの前まで真夏日が続き、夏を過ごすには全く不適当な体型になった私は扇子を手放せなかったのですが、10月の最終週になった途端冬の気温になってしまい、26日には鳥海山に初雪が降りました。
9月・10月は清酒業界のイベント等も多く、私や杜氏はバタバタとしておりましたが、18日には蔵人が入蔵し、27日にこの時期異例の蔵内7℃と言う寒さの中、初蒸しが順調に行われ、137回目の酒造りが始まりました。今年の一番の心配は米質です。東北で唯一不作とされた秋田県は、1等米比率75・8%と低く、これは6月から7月初めの平年に比べ半分と言う極端な日照不足が回復できず、さらにカメムシ被害や高温障害も出た為です。
状況に合わせて圃場の水管理をシッカリした所とそうでない所の個人差が大きく出た様ですが、お蔭様で天寿酒米研究会の一等米比率はほぼ100%と言う事で、多少の安心はしております。しかし、例年の米と比べると慎重を要するように見受けられ、我々の緊張も高まっております。日本酒はワインと違い、原料の出来だけでは酒質が決まらない事を証明して見せたいものです。
弊社は60%精米以上の吟醸は、全て瓶火入れ冷蔵管理をしておりますが、この春はその量の増加の為、覚悟の上で酒母室を夏まで一時的に冷蔵貯蔵庫として使用いたしました。夏場の冷蔵庫としての使用は想定外なので、温度は保ちましたが残念ながら予想通り天井裏に大量に結露した為そのままの継続使用は断念、酒母室の断熱力を大幅に向上させた改装を実施しました。また、吟醸蔵のタンク入れ替え工事、冷却配管工事、あげ桶蔵外壁交換工事では桁や柱にシロアリが出て予期せぬ予算4倍の大工事になってしまいました。
船舶用コンテナ冷蔵庫の一部改修も残っておりますが、予算的にも厳しく身の引き締まる思いです。事務所の見学者用店舗への改装を夢見て、設計図を春に引き始めていたのですが、楽しみは後でとお預け状態です。
創業137年目の酒造り。伝統を継ぐ者として、現在の天寿酒造を担っている社長・杜氏・営業・詰口・製造の者として、「今我々は何をやらなければいけないか」を毎年問い直しながら、変えるものは変え、残すものは残し、手からこぼれ消えてしまった古いものへの郷愁はありながらも、前へ進み続けます。進み続けなければなりません。
世間では、年の瀬へ向けてまっしぐらですが、ふと立ち止まり羅針盤を慎重に確認しながら走ります。
皆様のご健勝を祈念しつつ、年末もご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。
天寿の歴史
補遺―6
補遺―6
初代永吉―大井屋
六代目 大井永吉
初代については、戸籍制度以前の人であり、何故か家の過去帳にも載っておらず、「天寿の歴史」を書き出した頃の資料として、本家五代目大井光睹氏から頂戴した一幅の掛軸の裏書に大井栄吉の名(後に永吉としたと思われる)を見るのみであった。【(五)―4に前出】
その後、本家現在の当主大井益二氏から「栄吉婚礼祝儀帳」のコピーを頂いた。年号は文政五年(一八二一年)三月六日、内容は結婚式案内者と手伝人の名、頂戴したご祝儀の控えだけで係累との関係は明らかにならなかった。
初代が分家した年は天保元年
(一八三〇年)だから、妻帯してからも九年の間本家に奉公(当時本家が営んでいた酒造りの仕事と思われる)の後分家となり、身につけた技術で糀と濁酒の商売を始めたと想像される。
最近お寺の過去帳を調べてもらったら、嘉永四年(一八五一年)四月七日深信院常正日園居士―大井屋栄吉こと―とあり、大井屋の屋号であった事が判明した。二代目(正助)が婿入りしたのが嘉永二年(一八四九年)なので、後継者の婿を迎えてその二年後には他界したことになる。戒名から推して信心深い真面目な人柄であったと偲ばれる。
前述の掛軸について説明を加えたい。江戸時代後期の儒者中井乾斎の書になる漢詩だが、我が家にとっては、その裏書により文化的にも歴史的にも貴重な資料となった。
裏書には、漢文で「余は常々、須貝太郎左衛門(盛佶)、武田喜惣右衛門(成斎)、和田常吉(松敦)、大井金治(享斎)、小沼弥八郎の輩と、出街の小流に架かる橋の南にある耕文堂(主人は美髯三浦和助)に小集し、共に詩を賦し百余首に及んだ。それを一小冊にするべく東都の乾斎先生に選をお願いしたが、先生の傑作者の選に拙作も亦入った」とあり、入選した「初冬夜坐」の漢詩が書かれてあり、その自作の詩を先生に揮毫してもらったのがこの一幅であることが判った。
更には「文政第十三年改元天保元庚寅秋八月十有六日分家して新街(現新町)におる栄吉に、天保第四年癸巳春三月三日需に應じて床前掛一幅」とあり即吟で享斎と圭斎(本人)の詩が添えられてある。
即日 圭斎大井光睹愿卿
授与 大井栄吉
上已 即日即吟
三日天気好 群賢喫飲醺
桃花流岸艶 蘭竹席頭熏
金樽倍雅興 玉戔促詩文
莫道永和後 風流少右軍 享斎
仝
佳節共催詩酒莚 李桃含笑媚春天
誰思此日永和會 擬得揮毫譜代賢
圭斎
光睹氏は若い頃江戸へ医者の修業に赴いたが、父の死により志半ばで帰郷したという後に矢島藩の御用商人を勤めた傑物で、文学的素養も備わった人物であった。またその人物と共に詩を賦し語り合う多くの仲間がいたことに、当時の矢島知識人の文化度の高さを思うのである。