船頭多くして船山に登る
代表取締役社長 大井建史
震災から三ヶ月が経ち、未だに癒えぬ傷跡や全く見通しのつかない原発の被害を受けている皆様には慰めの言葉もありません。どんな安全基準で原子力発電を実施したのでしょう。事故があると制御不可能で、後遺症が土地にも人間にも残り治癒出来ない。被爆国でありながら、よくパンドラの箱と言われる原子力を安全と言い切ったものだと思います。
6月24日に今度は矢島町の降雨量が観測史上最大を記録し全国ニュースに成りました。夜中も寝れない程の雨音で「これは尋常ではない」と感じましたが、案の定一本しか通っていない国道の南は土砂崩れ、北は冠水で鳥海山麓線・JRとも止まり一時陸の孤島となりました。現在これも矢島町観測史上最深だった雪による被害をあちらこちらと修繕中で、予想外の雨漏り等が発生し、てんやわんやの状態でした。
この所各地の同業者から「東北だから売り上げ良いでしょ」とよく言われます。全国の皆様のご支援により直接被害を受けた県のお酒は随分と販売出来た蔵もあるようですが、二次被害は別にして、揺れによる直接被害が少ない秋田や山形は太平洋側とはハッキリと区別されてしまった様です。震災後、地元消費が異様に厳しい東北の蔵としてはうらやましくもありますが、東北だからと日本海側まで羨ましがられるのは困ったものです。
しかし、嬉しい話もあります。この所弊社は受賞ラッシュ??の感があります。今年初めて行われた「ワイングラスで美味しい日本酒アワード」で天寿米から育てた純米酒が720ml1300円以下の部で最高金賞・それ以上の部で純米吟醸鳥海山が金賞を受賞。次にインターナショナル・ワイン・チャレンジ2011(於ロンドン)純米吟醸鳥海山金賞受賞・大吟醸「鳥海」銀賞・天寿米から育てた純米酒銀賞・天寿古酒大吟醸銅賞と出品酒全品入賞。全国新酒鑑評会金賞受賞、インターナショナル・ワイン&スピリッツ・コンペティション(於ロサンゼルス)純米吟醸鳥海山金賞受賞など目白押しです。
外国でのコンテスト受賞が多い中、原発事故により海外での和食・日本酒の販売が厳しい時期なのが大変残念です。世界中何処の国でも世界中の料理が食べられるのに、風評被害とは言え今和食を食べに行こうという人は激減しています。その様な中、レディー・ガガのファッション等は私には難解ですが、長期滞在してその安全性をアピールしてくれる日本への愛情には心から感謝を覚えました。震災以来私の涙腺は壊れておりますが、まだまだ治りそうもありません。
と同時に日本という国は情けない限りです。山に登ってしまった日本丸は危機的状況です。我々が選んでしまった政治家は、国とは何か・リーダーシップとは何かを何処に忘れて来たのでしょう。今のままでは首相が変わったところで期待も出来ません。批判・評論で済む話ではありませんが・・・。
天寿の歴史
補遺―10
補遺―10
創業時の提出書類(二)
六代目 大井永吉
明治七年分酒造税納付
記
一清酒元石二十七石
此生酒二十六石六斗六合
但壱石ニ付七斗五升三合六タリ
此代金弐百四十九円五厘六毛
但一石ニ付九円三十五銭九厘
此五分税十弐円四十五銭三毛
内金五円五十銭
四月廿四日 上納
さし引越
金六円九五銭三毛
八月廿五日 上納
右之通相違無之候也
明治八年乙亥八月廿日
補遺―8で記した最初の造りの酒造税納付である。前に述べているように、当時の酒税は造石税で、造られた生酒の量に課税される制度で、味も良くアルコール濃度も高い、良く割水の効く酒を造れば量を増やせるので儲かる仕組みになっていた。
但し売れなくても造った分の税金は納めなくてはならないので辛い面はあったが、届けにあるように四月と八月に分納が可能だったようだ。
示達で示される生酒一石の代金に対して税率は五分税(5%)である。代金とは基準価格なのか又、その額が年前の示達と変わっているが理由は不明である。
現行の税制では一石に付二万一千円となる。ただし移出課税制度なので、出荷した(売れた)量に課税される。(酒税・清酒―アルコール22度未満で1klあたり12万円。以前はアルコール分1度ごとに酒税率が上下していたが2006年より酒税率の均一化が施行された。)
納税はその月の出荷量に応じた税額を申告し、翌々月末までに納付する制度になっている。
清酒醸造元石御届書
明治九年分
一元石百石
右之通、醸造仕度此段御届申上候、 以上
秋田県第四大区三小区羽後国由利郡城内村二百五番屋敷居住
稼人 大井永吉㊞
明治八年十月二十八日
秋田県権令 石田英吉殿
前書之通相違無之、依而奥印仕候
副戸長 土屋貞蔵㊞
翌年の製造計画の申告である。売れ行きがよかったのか一挙に三倍の増量になっている。醸造高申告には酒税徴収のためか戸長の証明が必要だったようだ。
【戸長】こ-ちょう
明治前期、地方行政区画の区や町村の行政事務をつかさどった役人。明治5年(1872)の大区・小区制下では小区の長として置かれ、従来の庄屋・名手などから選ばれた。同22年町村制施行により廃止。今の町・村長にあたる。