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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

137回目の酒造り
2010-11-01

137回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

ついこの前まで真夏日が続き、夏を過ごすには全く不適当な体型になった私は扇子を手放せなかったのですが、10月の最終週になった途端冬の気温になってしまい、26日には鳥海山に初雪が降りました。

9月・10月は清酒業界のイベント等も多く、私や杜氏はバタバタとしておりましたが、18日には蔵人が入蔵し、27日にこの時期異例の蔵内7℃と言う寒さの中、初蒸しが順調に行われ、137回目の酒造りが始まりました。今年の一番の心配は米質です。東北で唯一不作とされた秋田県は、1等米比率75・8%と低く、これは6月から7月初めの平年に比べ半分と言う極端な日照不足が回復できず、さらにカメムシ被害や高温障害も出た為です。

状況に合わせて圃場の水管理をシッカリした所とそうでない所の個人差が大きく出た様ですが、お蔭様で天寿酒米研究会の一等米比率はほぼ100%と言う事で、多少の安心はしております。しかし、例年の米と比べると慎重を要するように見受けられ、我々の緊張も高まっております。日本酒はワインと違い、原料の出来だけでは酒質が決まらない事を証明して見せたいものです。

弊社は60%精米以上の吟醸は、全て瓶火入れ冷蔵管理をしておりますが、この春はその量の増加の為、覚悟の上で酒母室を夏まで一時的に冷蔵貯蔵庫として使用いたしました。夏場の冷蔵庫としての使用は想定外なので、温度は保ちましたが残念ながら予想通り天井裏に大量に結露した為そのままの継続使用は断念、酒母室の断熱力を大幅に向上させた改装を実施しました。また、吟醸蔵のタンク入れ替え工事、冷却配管工事、あげ桶蔵外壁交換工事では桁や柱にシロアリが出て予期せぬ予算4倍の大工事になってしまいました。

船舶用コンテナ冷蔵庫の一部改修も残っておりますが、予算的にも厳しく身の引き締まる思いです。事務所の見学者用店舗への改装を夢見て、設計図を春に引き始めていたのですが、楽しみは後でとお預け状態です。

創業137年目の酒造り。伝統を継ぐ者として、現在の天寿酒造を担っている社長・杜氏・営業・詰口・製造の者として、「今我々は何をやらなければいけないか」を毎年問い直しながら、変えるものは変え、残すものは残し、手からこぼれ消えてしまった古いものへの郷愁はありながらも、前へ進み続けます。進み続けなければなりません。

世間では、年の瀬へ向けてまっしぐらですが、ふと立ち止まり羅針盤を慎重に確認しながら走ります。

皆様のご健勝を祈念しつつ、年末もご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。

天寿の歴史

補遺―6

補遺―6

初代永吉―大井屋

六代目 大井永吉

初代については、戸籍制度以前の人であり、何故か家の過去帳にも載っておらず、「天寿の歴史」を書き出した頃の資料として、本家五代目大井光睹氏から頂戴した一幅の掛軸の裏書に大井栄吉の名(後に永吉としたと思われる)を見るのみであった。【(五)―4に前出】

その後、本家現在の当主大井益二氏から「栄吉婚礼祝儀帳」のコピーを頂いた。年号は文政五年(一八二一年)三月六日、内容は結婚式案内者と手伝人の名、頂戴したご祝儀の控えだけで係累との関係は明らかにならなかった。

初代が分家した年は天保元年

(一八三〇年)だから、妻帯してからも九年の間本家に奉公(当時本家が営んでいた酒造りの仕事と思われる)の後分家となり、身につけた技術で糀と濁酒の商売を始めたと想像される。

最近お寺の過去帳を調べてもらったら、嘉永四年(一八五一年)四月七日深信院常正日園居士―大井屋栄吉こと―とあり、大井屋の屋号であった事が判明した。二代目(正助)が婿入りしたのが嘉永二年(一八四九年)なので、後継者の婿を迎えてその二年後には他界したことになる。戒名から推して信心深い真面目な人柄であったと偲ばれる。

前述の掛軸について説明を加えたい。江戸時代後期の儒者中井乾斎の書になる漢詩だが、我が家にとっては、その裏書により文化的にも歴史的にも貴重な資料となった。

裏書には、漢文で「余は常々、須貝太郎左衛門(盛佶)、武田喜惣右衛門(成斎)、和田常吉(松敦)、大井金治(享斎)、小沼弥八郎の輩と、出街の小流に架かる橋の南にある耕文堂(主人は美髯三浦和助)に小集し、共に詩を賦し百余首に及んだ。それを一小冊にするべく東都の乾斎先生に選をお願いしたが、先生の傑作者の選に拙作も亦入った」とあり、入選した「初冬夜坐」の漢詩が書かれてあり、その自作の詩を先生に揮毫してもらったのがこの一幅であることが判った。

更には「文政第十三年改元天保元庚寅秋八月十有六日分家して新街(現新町)におる栄吉に、天保第四年癸巳春三月三日需に應じて床前掛一幅」とあり即吟で享斎と圭斎(本人)の詩が添えられてある。

即日 圭斎大井光睹愿卿

授与 大井栄吉

上已  即日即吟

三日天気好 群賢喫飲醺

桃花流岸艶 蘭竹席頭熏

金樽倍雅興 玉戔促詩文

莫道永和後 風流少右軍 享斎

佳節共催詩酒莚 李桃含笑媚春天

誰思此日永和會 擬得揮毫譜代賢

圭斎

光睹氏は若い頃江戸へ医者の修業に赴いたが、父の死により志半ばで帰郷したという後に矢島藩の御用商人を勤めた傑物で、文学的素養も備わった人物であった。またその人物と共に詩を賦し語り合う多くの仲間がいたことに、当時の矢島知識人の文化度の高さを思うのである。

伝統
2010-09-01

伝統

代表取締役社長 大井建史

「伝統の~」とよく使われるが、最近は特に急速に消えていっていないだろうか?消えてしまえばそれらは二度と戻らないものが多い。私の母校には全校応援歌練習があり、新入生はその迫力に震えながら、応援歌や各部歌を必死に覚え、伝統と言う言葉の最初の洗礼を受けたものだ。我が剣道部には「朝夕振う興安の 剣はついに肉きざみ 血を盛るかめは枯れ果てて 虚栄ふはくの水注ぎ~」と古色蒼然とした部歌を試合前最終練習後に道場で円陣を組み、斉唱してから出陣?していたのだが、今はかろうじて応援歌練習は残っているものの、各部歌の練習は無くなり、剣道部員さえ部歌を知らないと言う嘆かわしい現状である。誇るべき全国最多優勝校として開催していた「全校ボート大会」も今は行われていないとの事。「なんと嘆かわしい事か」等と突然言い始めると、あいつも年をとったなと言われそうであるが、運動会も学年が始まった途端、最短時間で行われ、あれもこれもが「時間が無い!!」と言う理由でカットされている様だが、はたして「本当か?」と言いたい。受験の為と言えばそれが全て錦の御旗と振り回してしまうのは如何なものか。夏休みまで補習で休み無しなのに、何処の学校に入っても一緒の様な高校生活を強要するだけで良いものだろうか?野球が勝った時だけ何が何でも全校応援と言うのも却って不思議である。

もちろん古い行事を昔のまま全てやればよいと言っているのではない。時代に合わせて変える所は変えると言うのも重要なこと。しかし、守るべきもの・変えるべきものを明確に選定し、一生の誇り・糧となるべき事(精神)を伝統の名の下にきっちり守ってもらいたい。「時間が足りない!!」だけで無残なものにして貰いたくは無いものだ。

旧矢島藩のおがはん言葉(奥様言葉)は私の幼い頃の記憶に残っている。「さようでござりゃんすか」と非常に上品で独特のイントネーションのひたすら優しい言葉として残っているが、五代目妹の大叔母達を最後に聞くことが出来なくなってしまった。

「国酒」を醸す造り酒屋もそういう意味では、日本という国に、又、その地域に残さなければならないものであると信じている。それらは、もちろん博物館に飾られるものとしてではなく、その地域の文化と共に実生活に密着しながら、米農家と共栄していかなければならないものと考えている。

九月には137年目に入る天寿酒造である。「積善の家に必ず余慶あり」「運・鈍・根」等々伝統とすべき言葉もある。また、長年自分を育ててくれた、家風・社風・親の教え・先輩の教えもある。今を担う我々が我が社(家)の伝統を目標として進み、体現すべく努力を怠らず、次の世代の伝統として残して行きたいものだと思う。

天寿の歴史

補遺―5

補遺―5

二代目永吉についての逸話

六代目 大井永吉

二代目永吉は糀と濁酒の生業から清酒製造の事業へと転進発展させた人だから、進取の気性を持ち、戊辰戦争の動乱期をじっと耐え、新政府による諸制度の生まれ変わりを素早く捉えて免許を得るなど時代を読む力や、家老格の佐藤三平に出入りを許され、八森城のお堀から製造場への入れ水を許可されるなど、社交性と政治力も併せもった人物だった。更には信仰心の篤い人だったと思われる逸話がある。

我が家の菩提寺は矢島町の正明山寿慶寺(法華宗)である。開創は寛永四年(一六二七)生駒氏の前の領主打越左近将監盛昌が、法華堂を建立したことに遡る。寛文十二年(一六七二)に矢島藩主二代・生駒左近尉高清の家老市橋定右衛門尉は、内室(三代目藩主生駒親興の従姉)の菩提を弔うため法華堂を再興。内室の法名「高松院寿慶日喜大姉」をもって、寺号を「寿慶寺」とした。元禄十五年(一七〇二)には大本山本能寺(京都市)、大本山本興寺(尼崎市)より正式に寿慶寺開創の許しを得、本能寺役者の好善院日行上人が開祖となった。この時、矢島藩主三代・生駒親興より寺領と扶持を寄進された。(寿慶寺開創縁起)

慶応四年(一八六八)に起こった戊辰戦争では、寿慶寺は矢島藩の陣所となる。市中と街道を一望できる高台である境内地が、陣所として格好の場所であったのだ。激しい戦火によって本堂は全焼したが、三十番神堂は辛くも類焼を免れた。

この合戦の最中に、時の住職・十三世妙寿院日侃上人は、戦火を潜り抜けて、三宝尊、日蓮聖人像等をはじめ、過去帳、古文書類を運びだしたと伝えられている。その諸尊像は今も大切に須弥壇に祀られている。(第二十世佐々木正純現住職)

『戊辰戦争の際に持ち去られたと考えられていた什宝・妙法蓮華経八巻が昭和六十一年(一九八六)に、百十八年ぶりに寿慶寺のもとに還るという出来ごとがあった。昭和十年(一九三五)に、山形県遊佐町の本願寺(浄土宗)に、この妙法蓮華経が寄贈されたのだという。本願寺に寄贈されるまでの経緯は不明であったが、本願寺側が寿慶寺に返却を希望していることから、地元の郷土史家が尽力し、百十八年ぶりの帰山が叶ったのであった。この妙法蓮華経八巻は、第三世詮明院日恵上人が享保二十年(一七三五)に求めた。その後第十二世大円院日萬上人が経巻を入れる箱を求め、文久二年(一八六二)には、檀家の大井永吉氏が錦の表具を寄付したと第一巻に記述されている。』

この逸話は以前秋田魁新報にも「還ってきた法華経」の見出しで掲載されている。

矢島町の歴史の移り変わりに関わりをもつ寿慶寺。そこに代々檀家総代として我が家も歴史の歩みに係わってきたのである。

モラル低下が規制の原因?
2010-07-01

モラル低下が規制の原因?

代表取締役社長 大井建史

世界保健機関(WHO)は総会で酒類の販売や広告を規制する新指針を採択した。指針では「飲酒は世界で年間250万人の死因に関係している」と警告を発し、大量飲酒による健康被害などを防止する上から、販売時間の制限や課税によって価格を引き上げるなどの対応を例示し、各国政府や業界に対応を促している。条約と違って強制力は持たないものの、各国の酒類メーカーは自主規制の強化に乗り出す方針である。採択された新指針の例示として、販売面では、飲食店での飲み放題の制限や小売時間の制限、安売り防止なども掲げられ、居酒屋業界など日本での関係業界への影響も少なくないとみられる。

以上が新聞情報である。10年以上前にタバコの規制強化が始まり「次はお酒にも来る。その防波堤だ」等と嘯いて吸っていたタバコも、喫煙環境のあまりの劣悪さと、何より家族の嫌煙圧力に、二年前の8月6日に禁煙以来10㎏の脂肪が腹に増えてしまった。

私の幸せな時間は、結構女房・子供を眺めながらする晩酌だったりする。最近の業界の悩みは、車の業界と同じで若者の飲酒離れ。日本酒を云々の前にお酒全てを飲まない事だ。

ネットで検索してみると色々な情報があったが、今回の規制の原因は、健康にとって有害という意見もあるが、それ以上に問題になっているのが、飲酒による犯罪の増加による経済損失が無視できない状況になってきているということのようだ。

特にイギリスなどでは、伝統のパブでビールを痛飲した若者が大騒ぎを起こすことが社会問題になっており、ヨーロッパ全体では、飲酒による犯罪、暴動の損失が、年間推計で約1兆2千億~1兆9千億円にも上るという調査もあるとの事。これに端を発し、イギリスでは、政府が「飲み放題」の宣伝や「早飲み競争」の禁止法を検討したり、フランスでは、保険省がワインの健康への有害性を警告し、禁酒キャンペーンを始めたり、イタリアでも、街頭でのアルコール販売を禁止したり、14歳~24歳までの少年や若者を対象に禁酒キャンペーンを展開し、アルコールを辞めれば、賞金や旅行券などを与える報奨制度を設ける計画だという。事の始まりというか、規制に向けて加速し出したのは、1月にWHO(世界保健機関)の執行理事会が「アルコールの有害な使用を減らす世界戦略」を承認したことがアルコール規制への流れになったとの事。(詳しい人がいるものですね。草食系の日本とは随分違います。)だからと言ってこんな理由で規制することになれば、それこそアメリカの禁酒法時代に逆戻り。日本では、若者がお酒をキチンと飲めなくなった本を糺せば、家族で食事をしその場で親が正しい飲み方を見せる事が出来なくなったからだと私は思う。

「やはり、若いうちから周囲の人たちがみんなで協力してマナーの重要性を説いていかない限り、こういう問題は消えないどころか手に負えなくなるんだね。世界を滅ぼすのは、核兵器でも細菌兵器でもなくモラルなのかもしれないな。そして世界中が『夜警国家』に逆戻りするかもね。」とネット上に有ったが、賛成に一票である。

天寿の歴史

補遺―4

補遺―4

藩政末期から

明治の矢島の酒造業(I)

六代目 大井永吉

藩主生駒家の居城矢島は、隣接の六郷家の城下町本荘に反して、郡内では最も積雪、寒冷地帯で鳥海山麓の地勢と気候により良質米を多く産し、また町のいたるところに清澄良質な水が湧出して酒造条件に恵まれ湯沢、六郷、新屋とともに名醸地の一つと称された。

生駒家は讃岐国高松の十七万石から寛永十七年(一六四〇)一万石の堪忍料で矢島に左遷され、従って領域もせまいため酒の需給も必然的に制約をうけていた。

大井傳之丞(屋号大井屋、酒銘「大井川」)・武田佐治右衛門(俗称大武田と称され、酒銘不明)・須貝吉左衛門酒銘「梅之江」)の三軒が藩の御用商人を兼ね、藩政運営の扶けともなっていた。大井屋は我が家の本家で初代永吉が分家した時の当主五代目の幸左衛門の日記(天保年間)が遺存しており、矢島藩財政窮乏の際仕送り金主酒田の巨商本間正五郎に藩の御用金調達の折衝に難儀したあとが窺える。

十代目の大井直之助(矢島町長、秋田県会議員、衆議院議員歴任)が次の如く語っている。

「{酒のさかな}と言われるように魚は酒につきもので、矢島の酒は仁賀保海岸に獲れた魚と共荷して駄馬に積まれ院内銀山に運ばれ販売された。即ち院内銀山の発展とともにその人口は著しく増加し、仁賀保方面の由利海岸で獲れた魚介類は鳥海山麓、由利原高原を経て矢島の魚商に渡され、同町生産の酒とともに馬に荷積みして、笹子(じねご・旧鳥海町)の松の木峠を越えて院内銀山に運び販売された。現今のように自由に生産地以外の他藩に移出が容易に出来なかった時代において、地酒を小藩の矢島領内で売り捌くことは極めて困難であったと思われる。したがってその後院内銀山の衰微とともにやしま酒の販路は狭くなり、同鉱山に近い湯沢の酒造業の中にも廃業したものもあり、私の家でも父の死去と共に明治四十年廃業した。

秋田県は明治四年秋田、本荘、亀田、矢島、岩城の羽後国五県と陸中国江刺県(現鹿角市、郡)の六県を併せて「秋田県」とし、初代権令が任ぜられて県治条例により新しい機構が整えられ、酒造行政事務は、他の国税賦課、収納事務とともに県庁が所管処理した。即ち酒造関係の醸造免許をはじめ監督、検査、取締、賦税、収納の事務一切を大蔵省の指示命達のもとに秋田県庁が所管した。

明治四年七月、太政官布達を以って清酒、濁酒、醤油醸造鑑札収税収与並に「収税方法規則」を制定して従来の株鑑札を廃止し、併せて造石高の制限を解除し、新たに免許料、免許税及び醸造税を併用した。

この税制によって、明暦三年公定されて以来、永年にわたり開業及び造石高を制限してきた制度は廃止されて、開業及び造石高の自由を享受した。これは酒造業界にとっては将に画期的なものであったが、政府としても新たな国是を酒造業者に適用してその発展による財源の涵養を図った歴史的意義をもつものである。(秋田県酒造史本編・矢島町史上巻)

二代目永吉はこうした時代の流れを捉え三年後の明治七年、温めていた濁酒返上、清酒製造の夢を長男与四郎とともに実現したものと思われる。

愚 公 移 山
2010-05-01

愚 公 移 山

代表取締役社長 大井建史

四月に雪が降って、地元の人間も驚かされましたが、いよいよしっかり春になりました。この所、温暖なのに時々大雪と言う不思議な冬の気候で積雪の予測がつかず相対では雪が少ないのに雪害が増える状況が続いております。

そんな中、天寿の酒蔵では、革新の繰り返しの結果、この十数年来私と杜氏が目指して来た「原料処理」が一つ上のステージに到達した感があり、喜ばしく思っております。

精米所からの白米計量が自動化され、60%精米以上を全てザルにとり手洗いが可能となり、バッチ式に洗米の上、限定吸水出来るようになりました。その結果、仕込み毎の総米の吸水歩合が全量計量で目標との誤差0.1%以内を実現し蒸米中の吸水量が確定した事から計画通りの蒸米が出来、その手触りは蔵人にとって快感になりました。

元々酸は出にくい蔵でしたが、初期の頃は工夫する度に益々少なくなり危機感を持ちました。しかし、ここに来てどの酵母・酒米・精米歩合でも香りや酸を含め味の幅がグンと膨らんで来た気がします。

花酵母の研究で汲み水を自在に使用出来る様になり、温度管理にも新機軸を導入した事により「純米吟醸鳥海山」がトリプル受賞したり、名門酒会では「米から育てた純米酒」のひやおろしが人気投票で三年連続東の横綱に選ばれ、飯田社長が「天寿はどうしたんだ?」と急に酒造りを見に来て下さるなど、手ごたえを感じる色々な反応が出て来た気がします。

農大花酵母を導入以来、大正末期の全国的な腐造事故により激減した清酒酵母の多品種化復活を目指して、様々な新酵母を使用し日本酒の香味の広がりを目指して参りました。これにより理屈ではなく体で清酒酵母が味と香りのタイプを決定している事を思い知りました。米種・精米歩合・酒母の種類・もろみ経過等も大きく酒質に影響しますが、酸の種類・香りのタイプを決めるのは酵母なのです安定した醸造の中でそれぞれの酵母が個性を発揮していく。実にうれしい光景です。これまで本当に沢山の試みや設備投資を重ねた事そして、何よりも杜氏を中心とした蔵人たちの飽くなき努力の賜物と思っております。

 話は変わりますが、先日秋田初のタカラジェンヌ「天寿光希」さんが久々の帰郷と言う事で、ご両親と一緒に弊社を訪ねて下さいました。初めてお会いしたのは五年前。卒業前でデビューを目前に『天寿』を芸名に使いたいと挨拶に来られたのです。私としては大変嬉しく、光栄に思いました。所属する星組がミュージカル「リラの壁の囚人たち」を5月24日~30日東京で公演するそうです。すっかり大人っぽく美しくなられた天寿光希さん。益々のご活躍をお祈りしつつ、皆様の応援もよろしくお願いいたします。

天寿の歴史

補遺―3

補遺―3 酒造免許、鑑札

六代目 大井永吉

鑑札を下げ渡すから免許料金拾円也を上納せよとのお達しである。当時の拾円は今の価値に直すと幾らになるだろうか。計算根拠が違うと値も違ってくるので非常に難しい問題だが、よく例にとられる米を基準にすると約七万円になるようである。(矢島教育委員会)

生駒藩の御用達蔵武田家(三代目の妻とみえの実家で”玉泉“の蔵元)の藩政時代の鑑札が手元にある。

これは矢島町出身で江田島の海軍兵学校教官や神戸育英高校長をされた立派な教育者で「鳥海山」「由利郡中世史考」などの著書を残された郷土史研究家・姉崎岩蔵氏が、晩年御自分で集められた多くの資料を町に寄贈された際、「酒屋に関するものだからこれは君が持っていたほうがいいだろう。」と、わざわざ私に手渡しして下さった貴重な歴史資料である。

木製で小型(縦16㎝、幅12㎝、厚1.5㎝)のもの、表に御勘定所とあり検證の焼き印が押してある。裏は

生駒主慶知行

出羽国由理郡矢嶋七日町

酒造米高七十五石 武屋吉衛門

但元米掛米糀共

天保十三寅年

とあり、年毎か石高が変わった時の鑑札と見られる。新しく当社に下げ渡された鑑札はどんな物であったか、新制度による県令の鑑札なので木製であったか紙製の印刷ものであったか興味のあるところだが、残念ながら保存されていないので不明である。何れにしろ酒税を徴するための免許であり鑑札である。

酒に対する税金は、いつ頃からあったのだろうか。

文献によれば、神国であったわが国では、古代、神事の主役である酒は朝廷の管轄である神社でつくられていた。大和朝廷では、酒造司が担当し、また大きな寺院でも酒がつくられていた。時代が降ると、民間でも酒がつくられるようになり、平安朝から鎌倉時代にかけて酒屋が発生。酒は格好な課税対象となり酒屋の保護や酒造許可の代償として”酒屋公事“”酒屋役“

”酒麹役“などの名のもとに、酒の現物、税金、労役を課すことになった。これが酒税の始まりである。

暖冬?の秋田から
2010-03-01

暖冬?の秋田から

代表取締役社長 大井建史

暖冬かと思うと、めったに無いような大寒波が襲ってきて、三十年以上一度も無かった消火栓のポンプが凍り破裂すると言う大変な事件も起きました。(消化ポンプの交換で大変な金額が飛んでいきます・・・)屋根の上も融けたり凍ったりと忙しく、シガもり(融けた雪が凍る事で屋根材の隙間から漏って来る事)の心配や上槽後の生原酒の温度管理、雪室の雪など心配事がドンドン増えてしまいます。

ニ月十三日に今年も酒造開放を実施し、沢山のボランティアの皆さんにご協力を頂き、お陰様で盛会裏に終了する事ができました。当日は1500人を超えるお客様をお迎えする事ができ、心から感謝申し上げます。

伝統産業の後継者として、宝酒造様で営業経験を三年ほど積ませて頂いてから家業に入って二十五年。「いかに良い酒を造るか」という姿勢も、自然にまた色濃く継いでいたようです。社長になる数年前から現在の杜氏である佐藤と原料処理をどうするかを研究し、古から「良い」とされる事を検証し、何を以って「良い」とするかを検討し、改善計画を練り、目標に向かって杜氏氏が改造・実験を繰り返し、その改善への投資・支援を続けて参りました。その結果として原料処理方法や醸造過程も様変わりし、醸造環境・設備もそれに伴って社長継続時とは大きく様変わりしております。

勿論、酒質も変わります。その変化を皆様にお伝えしたくて、蔵元通信を書き始めました。また、蔵開放を拡大イベント化し、駅の市・酒蔵の市・雪室開封イベント、水源探索、天寿を楽しむ会、落語と天寿を楽しむ会、旬どきうまいもの自慢会等々、少しでも多くの方々と触れ合う機会をもうけて参りました。

それでもまだまだ上手くお伝え出来ているとは思っておりませんし、「良いものさえ造っていれば、判って貰える筈」と何処かで考えている自分がいます。造る事には熱心であっても、造った物をさらに多くの人にお伝えし、飲んで頂くところまでのプロデュースにもっと力を注ぐべきなのは頭では判っているつもりなのですが。

ドラマを見て読み返した司馬遼太郎の坂の上の雲ニ巻で、秋山真之の「たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、艦底にかきがらがいっぱいくっいて船足がうんとおちる。人間も同じで、経験は必要じゃが、経験によって増える知恵と同じ分量だけのかきがらが頭につく。知恵だけ採ってかきがらだけ捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれが出来ぬ。」と言う台詞がありました。ガツンと言う音と警戒警報が頭のなかで鳴りました。人間の思考は何時どの様に変わるかなど判りませんが、この頃はテレビを見ていても涙腺がやたらと緩く具合が悪いのです。ふと思うと、自分が親の目線で我が子に置き換え、スポーツやドラマを見るから応援して?健気で?なだはなたらして(秋田弁で涙・鼻水をながしながら)見ている自分を発見してしまうのです。

何時から自分を主人公に見立てなくなったのでしょう?勿論年相応に考える部分や二十年前との身体能力の違いの大きさに意気消沈してしまう部分もありますが・・・。

思考は迷走しますが「まだまだ若いもんには負けません。」(遂にこの台詞を!!)

今年も佳い酒がどんどん搾られています。ご期待ください。

天寿の歴史

補遺―2

補遺―2 清酒醸造免許取得

補遺―2 取締役

六代目 大井 永吉

明治七年八月十三日日付の申請書に八月十五日の戸長(今の町・村長)の奥印(証印)を貰い届出、九月十日には聞き届けられている。

書面清酒稼営業願之趣聞届、鑑札下ヶ渡候条請取方追而可申出、其節免許料金拾円上納可致事

明治七年九月十日

秋田県権令 国司仙吉代理

秋田県参事 加藤祖一 ㊞

願いを聞き届け鑑札を下げ渡すから上納金十円を納めよとのお達しである。醸造願を提出してから約一ヶ月で許可が下りているが、恐らく事前にいろいろ準備があってのことであろう。現在では殆ど自由化されている小売免許でも審査期間にニヶ月もかかると言われている。製造免許となれば製造場を始め、麹室、仕込み桶などそれなりの製造設備が整っていなければならないので、相当の準備期間が必要な筈である。その点当時ニ代目は麹と濁酒を営んでいたので、麹室などの設備は清酒に転用できたのであろう。土蔵造りの観音開きと漆喰の引き戸、その内戸の格子戸のみが残る今も[一号機]と名付けている蔵は、棟木に明治七年甲戌とあったので、清酒醸造のために建てた土蔵だったことが判る。下に三代目と横書きし大井永吉、同与四郎と並べて縦書き下には造之とあり、三代目と記したのは、明治十四年には清酒醸造引継営業願を出している一人前となった後継者の与四郎を立てての事だったと思われ、温かい親心が偲ばれる。

また前準備の一つとして濁酒醸造廃業願がある。

濁酒醸造廃業罷在候処、今般廃業支度,依之御鑑札返上仕候間、此段奉願候、以上

秋田県管下商

第四大区三小区

羽後国由利郡城内村弐百

壱十弐番屋敷居住

大井永吉㊞

明治七年九月7日

秋田県権令 国司仙吉殿

右之通相違無之、依而奥仕候

戸長 菅原景就㊞

九月十二日には聞届候事の認可が下りている。単に濁酒を止めて清酒一本に絞りたかったのか、止めることが免許要件だったのか不明だが、同時認可になっている。

家業として初代永吉が麹と濁酒を商っていたが、何時から始めたのか不明である。分家してから清酒醸造を始める明治七年までは四十四年、二代目が婿入りしてからも二十五年なので少なくとも三十年にはなるかも知れない。しかし当社は確実に清酒醸造の免許を得た明治七年九月十日の通達の日を以って創業の日と定めているのである。

教学相長ず
2010-01-01

教学相長ず

代表取締役社長 大井建史

新年おめでとうございます。

十二月中に出張から帰ったら、空港で私の車が見つからないビックリする様な大雪もありましたが、秋田は気候的には比較的おだやかな正月を迎えました。

厳しい贈答市場に喘いだ師走でしたが、08に世界的な三つのコンテストで受賞した純米吟醸「鳥海山」や名門酒会の生酒部門は一般の部M V P。ひやおろし部門は三年連続東の横綱になった「米から育てた純米酒」等が全体を引っ張ってくれ、又、ヤクルト球団若松元監督の野球殿堂入りのパーティーで天寿純米酒をお使い頂いたり、婦人画報新年号で取材記事を載せて頂いたりと、大変有り難い事も続きました。お世話になりました皆様、心から感謝を申し上げます。

人生五十年が過ぎ、天寿酒造に入社して四半世紀・社長として10年が過ぎました。新創業を標榜し、改革・革新に努めてまいりましたが、歴史的に築かれて来た財産の有難さと儚さにも気付きました。当たり前と言う事など無いのですね。『当たり前』を覚える人・教える人・知らない振りをする人・忘れる人。この「人」を「自分」と置き換えても又真なりとも思いますが、天命を知るには程遠い状態であります。

先代五代目が70代後半の頃、小学生の私に「建史、人は運・鈍・根だ。鈍い位に実直に、性根を据えて物事に当たれば運は自ずと付いてくる。」と何度も説かれた記憶があります。目を閉じ耳を塞ぐ事ではありません。基本に忠実であれと言う事だと思います。統制の為販売価格・使用できる米の量が決まっていた売る努力など必要ない時代に、闇米を買ってまで精米歩合を少しでも上げる品質向上に努力した人の言葉です。

昨年11月の株主総会では昭和六年生まれの父・六代目永吉が代表取締役会長を退任し取締役相談役に就任致しました。これまでのご厚情に感謝いたしますと共に、後を継ぎます私共に代わらぬご厚誼を賜ります様お願い申し上げます。

天寿の歴史

補遺

補遺‐1

取締役相談役

六代目 大井 永吉

「百三十周年を迎える天寿の歴史」として天寿蔵元通信に拙文を連載して早や六年を経た。隔月発行毎号一頁の紙面でもあったが、創業の歴史も既に百三十五年目に入っている。

私にしか書けない記事をとの思いで父から聞いた話や、写真、資料を調べながら物語風に書き進めてきたが、ほぼ記憶に残る事柄や材料も尽きてきた感がある。

蔵元通信の編集からは連載を続けて欲しいとの要請もあり、郷土史研究、矢島酒造史研究的になって天寿愛飲家の皆さんには興味が薄くなるかもしれないが、先祖が残した古文書を読み解きながら創業の頃に戻して続けてみたい。また、書き残した事柄が出た時は挿入することにしたい。

清 酒 醸 造 願

清酒醸造営業仕度奉存候間、御鑑札御下ヶ渡被下度奉候、尤、免許料並ニ免許税共、御規則之通上納可仕候、 以上

明治七年八月十三日

秋田県管下商

第四大区三小区

羽後国由利郡

城内村弐百拾弐番屋敷居住

大井永吉㊞

秋田県権令 国司仙吉殿

右之通相違無之、依テ奥印仕候

明治七年八月十五日

戸長 菅原景就㊞

申請は二代目永吉である。初代永吉は文政十三年(1830年)本家五代目大井直之助光曙時代現在地に分家、麴や濁酒を商っていたが、二代目永吉﹇幼名正助﹈嘉永二年(1849年)二十二才で雄勝郡西馬音村佐藤平治家より婿入り、家業を手伝っていたが、明治維新を経て新政府により諸制度が新しく生まれ変わったのを機に清酒製造に踏み切ったとみられる。

清酒醸造の許可は、藩政時代は生駒藩であったが、時の権令(※1)宛てに、戸長(※2)の奥印付きで申請している。

※1 権令﹇県令に次ぐ県の地方長官。明治4年(1871)、権知事を改称して置かれ、同十一年に廃止された﹈

※2 戸長﹇明治前期、地方行政区画の区や町村の行政事務をつかさどった役人。明治5年(1872)の大区・小区制下では小区の長として置かれ、従来の庄屋・名主などから選ばれた。同二十二年町村制施行により廃止。今の町・村長にあたる﹈

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