プライド
代表取締役社長 大井建史
先日、暫く中断し昨年から復活した天寿酒造・大井製材所のОB会が行われました。懐かしい顔が沢山ありましたが、ほとんどは私が地元に帰った時に現役だった人たちです。一様に懐かしそうな顔をして、私の子守がスタートだったお手伝いさんも、近くに来ては53歳の私の世話を焼き始めるのです。強者達も酒を減らすスピードは落としながらも元気な姿が有難く、何とも幸せな気持ちになるものですね。
私が帰った頃のОB会は子供の頃にいた人達、又はそれより前の人たちが多く参加しており、驚きの話や不思議な話を色々聞かせてもらった事を思い出しました。百歳を超え、いまだ健在の元蔵人の佐吉さん。この人からの最初の話は「酒の一滴は血の一滴」。これは矢島の八朔祭りの仮装踊りをさせられた最初の年(28年前)。町内中で朝から酒を振る舞われ、夜の七時も超えたクライマックス近くによろよろとした私が佐吉さんの家の前で「あんさん!!家の酒も一杯飲んでくれ」と特大のコップに並々と注がれ「ウワッ」と思いながらも頑張って殆ど飲み、底の一センチ位をサッと払ったのが夜なのに見えたらしく「あんさん!!先代のおやがっつぁん (お館さん)は酒の一滴は血の一滴と言われてetc.etc.」「わかりました。私が悪かった。」と再び特大コップで頂き記憶が飛びましたが、家には無事たどり着いておりました。
次も佐吉さんの猫鍋話。「おれ、おやがっつぁんさ猫かしぇで(食わせて)しまたぁ。」と告白。戦後直ぐでタンパク質不足で大変だった頃、蔵の賄に肉鍋を作った。「あれは灰汁ばかり多くて調理は大変」と経験者の言。そこに五代目のからんころんと下駄の音。「まずいおやがっつぁんだ!!」と思ったがガラリと蔵のエンバ(休憩所)に入って来て「何だ肉鍋か?豪勢だな」と一言。蔵人はシーンとなったが猫だとは言えなかったから、佐吉さんが「おやがっつぁんもどうぞ」(汗)と皆で「旨い、旨い」と食べたそうな。
こちらはめらし(お手伝いさん)で来た人の話。戦前と思われるが、昔は今の商工会館(会社から50m)のところに銀行があって、見た事がないような年末の売り上げの札束を風呂敷にくるんで何人かで分けて届けさせられた(大恐慌の頃かな?)。それが銀行に着くまで怖くて怖くて腰が抜けそうだった話。6代目が豪腕で高校生の頃、片手で一俵ずつさしあげた話(親父曰く、そりゃウソだ)。天寿が一番にならないと利き酒を終わらせてくれない5代目の話(この話は多い。天寿を確実に当てそれを一番と言わなければならないプレッシャー談)等々色々出てきます。
先日のОB会で「俺はよ。天寿で使ってもらってホントに良かった」と何度も何度も言ってくれる人がいました。
人の一生の中で、会社に勤める時間は実に大きな比率になります。個人としてそれは誇るべき時間とするべきだし、そうでなければ自分の人生がつまらないものになります。
天寿の社員だったと言う事が誇りになる会社であり続けなければならないなと、改めて感じ身を引き締めるひと時でした。
天寿の歴史
補 遺-22
補遺―22
丹波杜氏鷲尾久八ー三
六代目 大井永吉
明治二十年秋田県が兵庫県に杜氏推薦の申し出をするにあたりその選を受け、平鹿郡酒造組合に雇われ同郡酒造場の技術指導にあたったのが本県の酒造業にたずさわった初めである。
明治二十三年よりは由利郡矢島町酒造組合に雇われて組合員酒造場に勤務し、…同二十六年以降四十年に至る間は、亀田町…「清正」醸造元、矢島町…須貝太郎・大井源一郎・武田源吉酒造場、本荘町石脇…斎藤弥太郎・斎藤重衛門酒造場等の専任または兼務杜氏として酒造にあたり、灘の技術を導入しまた後継者の教育育成に努めた。その結果各醸造元の酒質の向上は目醒ましく、特に永年酒造にあたった矢島町では、酒造家による改良組合を設けて旧来の醸造法を捨てて同氏の醸造法を取り入れた。その結果矢島酒の名声は著しく高揚し…矢島酒の確固たる基礎が築かれた……。
初めて科学的製造技術が進められた明治末期以前において、灘の技法を県内の多くの酒造場に導入実施して本県の酒質の向上をみるに至った氏の功績は誠に大きい(秋田県酒造史本編)。
三代目与四郎は選任の指導は受けなかったようだが、長男の亀太郎を師事させている。
「夫レ酒造ノ技タル米素水質ハ論ヲ俟タス天ノ時地ノ利人ノ和等皆宜キヲ得テ至極至妙ノ間ニ自然機能ヲ媒シ以テ発酵熟成セシムルモノニシテ口以テ言フヘカラス指以テ示スへカラス所謂以心伝心ナルモノ先進後進相接シテ歳月ト経験ト相俟チ知ラス識ラサル、間纔ニ会得スルノミ簡単ナル学理ノ能ク標準ヲ律シ得ヘキモノニ非サルカ如シ余多年司醸中傍ニ在リテ業ヲ受ケ斯道ノ順序ヲ解セシモノヲ挙クレハ左ノ如シ」
これは鷲尾久八の書いたもので、その中に亀太郎の名前がみえる。
矢島町 明治二十四年卒業
土田安吉
同 明治二十四年卒業
大井亀太郎
そして三年たって、八坂三吉、須貝伝平、真坂荘三郎、土井久治、といった人々の名前が連なっている。
次の記録がある。
兵庫県摂津の国 有馬郡母子村
鷲尾久八
本郡矢島地方酒造業者ノ嘱託ニ応シ酒類醸造方法改良ニ従事スル数閲月ナリト雖モ能ク風土事物ヲ審按シ大ニ其効ヲ奏セシハ営業者ノ歓喜何ヲ以テ之ニ喩エンヤ仰本地タルヤ水質他ニ優レル以テ其醸造他方ニ譲ラスト雖モ輓近各地ノ進歩ニ随ヒ自ラ名声ヲ失フノ傾ナシトモセス今ヤ結果ノ美良ナル本県管内此右ニ出ルモノナキヲ信スルニ至レルハ要スルニ多年実験ノ技倆ヲ振ヒ懇切周到宜ク教師ノ任ヲ盡スニ非レバ焉ソ如此神速ノ功ヲ頼ムヘケンヤ是特リ営業者ノ鴻利ニ止マラス即チ本郡ノ幸福ナリトス依テ聊カ所思ヲ述ヘ其功労ヲ表ス
明治二十四年四月五日
秋田県由利郡長 正八位
小助川光敦
郡長の感謝状である。この小助川郡長は天保元年五月十四日、矢島城下に生まれた藩士の子、幼名太右衛門といった。明治十二年十月矢島藩権少参事に任ぜられ、五年十一月秋田県小属となっている。
そして十年九月大四大区区長を拝命、十一年十二月南秋田郡の郡長に抜擢され、明治十六年二月四代目の由利郡長になった人で矢島地方酒造業者への肩入れが感じられる。