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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

伝統
2010-09-01

伝統

代表取締役社長 大井建史

「伝統の~」とよく使われるが、最近は特に急速に消えていっていないだろうか?消えてしまえばそれらは二度と戻らないものが多い。私の母校には全校応援歌練習があり、新入生はその迫力に震えながら、応援歌や各部歌を必死に覚え、伝統と言う言葉の最初の洗礼を受けたものだ。我が剣道部には「朝夕振う興安の 剣はついに肉きざみ 血を盛るかめは枯れ果てて 虚栄ふはくの水注ぎ~」と古色蒼然とした部歌を試合前最終練習後に道場で円陣を組み、斉唱してから出陣?していたのだが、今はかろうじて応援歌練習は残っているものの、各部歌の練習は無くなり、剣道部員さえ部歌を知らないと言う嘆かわしい現状である。誇るべき全国最多優勝校として開催していた「全校ボート大会」も今は行われていないとの事。「なんと嘆かわしい事か」等と突然言い始めると、あいつも年をとったなと言われそうであるが、運動会も学年が始まった途端、最短時間で行われ、あれもこれもが「時間が無い!!」と言う理由でカットされている様だが、はたして「本当か?」と言いたい。受験の為と言えばそれが全て錦の御旗と振り回してしまうのは如何なものか。夏休みまで補習で休み無しなのに、何処の学校に入っても一緒の様な高校生活を強要するだけで良いものだろうか?野球が勝った時だけ何が何でも全校応援と言うのも却って不思議である。

もちろん古い行事を昔のまま全てやればよいと言っているのではない。時代に合わせて変える所は変えると言うのも重要なこと。しかし、守るべきもの・変えるべきものを明確に選定し、一生の誇り・糧となるべき事(精神)を伝統の名の下にきっちり守ってもらいたい。「時間が足りない!!」だけで無残なものにして貰いたくは無いものだ。

旧矢島藩のおがはん言葉(奥様言葉)は私の幼い頃の記憶に残っている。「さようでござりゃんすか」と非常に上品で独特のイントネーションのひたすら優しい言葉として残っているが、五代目妹の大叔母達を最後に聞くことが出来なくなってしまった。

「国酒」を醸す造り酒屋もそういう意味では、日本という国に、又、その地域に残さなければならないものであると信じている。それらは、もちろん博物館に飾られるものとしてではなく、その地域の文化と共に実生活に密着しながら、米農家と共栄していかなければならないものと考えている。

九月には137年目に入る天寿酒造である。「積善の家に必ず余慶あり」「運・鈍・根」等々伝統とすべき言葉もある。また、長年自分を育ててくれた、家風・社風・親の教え・先輩の教えもある。今を担う我々が我が社(家)の伝統を目標として進み、体現すべく努力を怠らず、次の世代の伝統として残して行きたいものだと思う。

天寿の歴史

補遺―5

補遺―5

二代目永吉についての逸話

六代目 大井永吉

二代目永吉は糀と濁酒の生業から清酒製造の事業へと転進発展させた人だから、進取の気性を持ち、戊辰戦争の動乱期をじっと耐え、新政府による諸制度の生まれ変わりを素早く捉えて免許を得るなど時代を読む力や、家老格の佐藤三平に出入りを許され、八森城のお堀から製造場への入れ水を許可されるなど、社交性と政治力も併せもった人物だった。更には信仰心の篤い人だったと思われる逸話がある。

我が家の菩提寺は矢島町の正明山寿慶寺(法華宗)である。開創は寛永四年(一六二七)生駒氏の前の領主打越左近将監盛昌が、法華堂を建立したことに遡る。寛文十二年(一六七二)に矢島藩主二代・生駒左近尉高清の家老市橋定右衛門尉は、内室(三代目藩主生駒親興の従姉)の菩提を弔うため法華堂を再興。内室の法名「高松院寿慶日喜大姉」をもって、寺号を「寿慶寺」とした。元禄十五年(一七〇二)には大本山本能寺(京都市)、大本山本興寺(尼崎市)より正式に寿慶寺開創の許しを得、本能寺役者の好善院日行上人が開祖となった。この時、矢島藩主三代・生駒親興より寺領と扶持を寄進された。(寿慶寺開創縁起)

慶応四年(一八六八)に起こった戊辰戦争では、寿慶寺は矢島藩の陣所となる。市中と街道を一望できる高台である境内地が、陣所として格好の場所であったのだ。激しい戦火によって本堂は全焼したが、三十番神堂は辛くも類焼を免れた。

この合戦の最中に、時の住職・十三世妙寿院日侃上人は、戦火を潜り抜けて、三宝尊、日蓮聖人像等をはじめ、過去帳、古文書類を運びだしたと伝えられている。その諸尊像は今も大切に須弥壇に祀られている。(第二十世佐々木正純現住職)

『戊辰戦争の際に持ち去られたと考えられていた什宝・妙法蓮華経八巻が昭和六十一年(一九八六)に、百十八年ぶりに寿慶寺のもとに還るという出来ごとがあった。昭和十年(一九三五)に、山形県遊佐町の本願寺(浄土宗)に、この妙法蓮華経が寄贈されたのだという。本願寺に寄贈されるまでの経緯は不明であったが、本願寺側が寿慶寺に返却を希望していることから、地元の郷土史家が尽力し、百十八年ぶりの帰山が叶ったのであった。この妙法蓮華経八巻は、第三世詮明院日恵上人が享保二十年(一七三五)に求めた。その後第十二世大円院日萬上人が経巻を入れる箱を求め、文久二年(一八六二)には、檀家の大井永吉氏が錦の表具を寄付したと第一巻に記述されている。』

この逸話は以前秋田魁新報にも「還ってきた法華経」の見出しで掲載されている。

矢島町の歴史の移り変わりに関わりをもつ寿慶寺。そこに代々檀家総代として我が家も歴史の歩みに係わってきたのである。

モラル低下が規制の原因?
2010-07-01

モラル低下が規制の原因?

代表取締役社長 大井建史

世界保健機関(WHO)は総会で酒類の販売や広告を規制する新指針を採択した。指針では「飲酒は世界で年間250万人の死因に関係している」と警告を発し、大量飲酒による健康被害などを防止する上から、販売時間の制限や課税によって価格を引き上げるなどの対応を例示し、各国政府や業界に対応を促している。条約と違って強制力は持たないものの、各国の酒類メーカーは自主規制の強化に乗り出す方針である。採択された新指針の例示として、販売面では、飲食店での飲み放題の制限や小売時間の制限、安売り防止なども掲げられ、居酒屋業界など日本での関係業界への影響も少なくないとみられる。

以上が新聞情報である。10年以上前にタバコの規制強化が始まり「次はお酒にも来る。その防波堤だ」等と嘯いて吸っていたタバコも、喫煙環境のあまりの劣悪さと、何より家族の嫌煙圧力に、二年前の8月6日に禁煙以来10㎏の脂肪が腹に増えてしまった。

私の幸せな時間は、結構女房・子供を眺めながらする晩酌だったりする。最近の業界の悩みは、車の業界と同じで若者の飲酒離れ。日本酒を云々の前にお酒全てを飲まない事だ。

ネットで検索してみると色々な情報があったが、今回の規制の原因は、健康にとって有害という意見もあるが、それ以上に問題になっているのが、飲酒による犯罪の増加による経済損失が無視できない状況になってきているということのようだ。

特にイギリスなどでは、伝統のパブでビールを痛飲した若者が大騒ぎを起こすことが社会問題になっており、ヨーロッパ全体では、飲酒による犯罪、暴動の損失が、年間推計で約1兆2千億~1兆9千億円にも上るという調査もあるとの事。これに端を発し、イギリスでは、政府が「飲み放題」の宣伝や「早飲み競争」の禁止法を検討したり、フランスでは、保険省がワインの健康への有害性を警告し、禁酒キャンペーンを始めたり、イタリアでも、街頭でのアルコール販売を禁止したり、14歳~24歳までの少年や若者を対象に禁酒キャンペーンを展開し、アルコールを辞めれば、賞金や旅行券などを与える報奨制度を設ける計画だという。事の始まりというか、規制に向けて加速し出したのは、1月にWHO(世界保健機関)の執行理事会が「アルコールの有害な使用を減らす世界戦略」を承認したことがアルコール規制への流れになったとの事。(詳しい人がいるものですね。草食系の日本とは随分違います。)だからと言ってこんな理由で規制することになれば、それこそアメリカの禁酒法時代に逆戻り。日本では、若者がお酒をキチンと飲めなくなった本を糺せば、家族で食事をしその場で親が正しい飲み方を見せる事が出来なくなったからだと私は思う。

「やはり、若いうちから周囲の人たちがみんなで協力してマナーの重要性を説いていかない限り、こういう問題は消えないどころか手に負えなくなるんだね。世界を滅ぼすのは、核兵器でも細菌兵器でもなくモラルなのかもしれないな。そして世界中が『夜警国家』に逆戻りするかもね。」とネット上に有ったが、賛成に一票である。

天寿の歴史

補遺―4

補遺―4

藩政末期から

明治の矢島の酒造業(I)

六代目 大井永吉

藩主生駒家の居城矢島は、隣接の六郷家の城下町本荘に反して、郡内では最も積雪、寒冷地帯で鳥海山麓の地勢と気候により良質米を多く産し、また町のいたるところに清澄良質な水が湧出して酒造条件に恵まれ湯沢、六郷、新屋とともに名醸地の一つと称された。

生駒家は讃岐国高松の十七万石から寛永十七年(一六四〇)一万石の堪忍料で矢島に左遷され、従って領域もせまいため酒の需給も必然的に制約をうけていた。

大井傳之丞(屋号大井屋、酒銘「大井川」)・武田佐治右衛門(俗称大武田と称され、酒銘不明)・須貝吉左衛門酒銘「梅之江」)の三軒が藩の御用商人を兼ね、藩政運営の扶けともなっていた。大井屋は我が家の本家で初代永吉が分家した時の当主五代目の幸左衛門の日記(天保年間)が遺存しており、矢島藩財政窮乏の際仕送り金主酒田の巨商本間正五郎に藩の御用金調達の折衝に難儀したあとが窺える。

十代目の大井直之助(矢島町長、秋田県会議員、衆議院議員歴任)が次の如く語っている。

「{酒のさかな}と言われるように魚は酒につきもので、矢島の酒は仁賀保海岸に獲れた魚と共荷して駄馬に積まれ院内銀山に運ばれ販売された。即ち院内銀山の発展とともにその人口は著しく増加し、仁賀保方面の由利海岸で獲れた魚介類は鳥海山麓、由利原高原を経て矢島の魚商に渡され、同町生産の酒とともに馬に荷積みして、笹子(じねご・旧鳥海町)の松の木峠を越えて院内銀山に運び販売された。現今のように自由に生産地以外の他藩に移出が容易に出来なかった時代において、地酒を小藩の矢島領内で売り捌くことは極めて困難であったと思われる。したがってその後院内銀山の衰微とともにやしま酒の販路は狭くなり、同鉱山に近い湯沢の酒造業の中にも廃業したものもあり、私の家でも父の死去と共に明治四十年廃業した。

秋田県は明治四年秋田、本荘、亀田、矢島、岩城の羽後国五県と陸中国江刺県(現鹿角市、郡)の六県を併せて「秋田県」とし、初代権令が任ぜられて県治条例により新しい機構が整えられ、酒造行政事務は、他の国税賦課、収納事務とともに県庁が所管処理した。即ち酒造関係の醸造免許をはじめ監督、検査、取締、賦税、収納の事務一切を大蔵省の指示命達のもとに秋田県庁が所管した。

明治四年七月、太政官布達を以って清酒、濁酒、醤油醸造鑑札収税収与並に「収税方法規則」を制定して従来の株鑑札を廃止し、併せて造石高の制限を解除し、新たに免許料、免許税及び醸造税を併用した。

この税制によって、明暦三年公定されて以来、永年にわたり開業及び造石高を制限してきた制度は廃止されて、開業及び造石高の自由を享受した。これは酒造業界にとっては将に画期的なものであったが、政府としても新たな国是を酒造業者に適用してその発展による財源の涵養を図った歴史的意義をもつものである。(秋田県酒造史本編・矢島町史上巻)

二代目永吉はこうした時代の流れを捉え三年後の明治七年、温めていた濁酒返上、清酒製造の夢を長男与四郎とともに実現したものと思われる。

愚 公 移 山
2010-05-01

愚 公 移 山

代表取締役社長 大井建史

四月に雪が降って、地元の人間も驚かされましたが、いよいよしっかり春になりました。この所、温暖なのに時々大雪と言う不思議な冬の気候で積雪の予測がつかず相対では雪が少ないのに雪害が増える状況が続いております。

そんな中、天寿の酒蔵では、革新の繰り返しの結果、この十数年来私と杜氏が目指して来た「原料処理」が一つ上のステージに到達した感があり、喜ばしく思っております。

精米所からの白米計量が自動化され、60%精米以上を全てザルにとり手洗いが可能となり、バッチ式に洗米の上、限定吸水出来るようになりました。その結果、仕込み毎の総米の吸水歩合が全量計量で目標との誤差0.1%以内を実現し蒸米中の吸水量が確定した事から計画通りの蒸米が出来、その手触りは蔵人にとって快感になりました。

元々酸は出にくい蔵でしたが、初期の頃は工夫する度に益々少なくなり危機感を持ちました。しかし、ここに来てどの酵母・酒米・精米歩合でも香りや酸を含め味の幅がグンと膨らんで来た気がします。

花酵母の研究で汲み水を自在に使用出来る様になり、温度管理にも新機軸を導入した事により「純米吟醸鳥海山」がトリプル受賞したり、名門酒会では「米から育てた純米酒」のひやおろしが人気投票で三年連続東の横綱に選ばれ、飯田社長が「天寿はどうしたんだ?」と急に酒造りを見に来て下さるなど、手ごたえを感じる色々な反応が出て来た気がします。

農大花酵母を導入以来、大正末期の全国的な腐造事故により激減した清酒酵母の多品種化復活を目指して、様々な新酵母を使用し日本酒の香味の広がりを目指して参りました。これにより理屈ではなく体で清酒酵母が味と香りのタイプを決定している事を思い知りました。米種・精米歩合・酒母の種類・もろみ経過等も大きく酒質に影響しますが、酸の種類・香りのタイプを決めるのは酵母なのです安定した醸造の中でそれぞれの酵母が個性を発揮していく。実にうれしい光景です。これまで本当に沢山の試みや設備投資を重ねた事そして、何よりも杜氏を中心とした蔵人たちの飽くなき努力の賜物と思っております。

 話は変わりますが、先日秋田初のタカラジェンヌ「天寿光希」さんが久々の帰郷と言う事で、ご両親と一緒に弊社を訪ねて下さいました。初めてお会いしたのは五年前。卒業前でデビューを目前に『天寿』を芸名に使いたいと挨拶に来られたのです。私としては大変嬉しく、光栄に思いました。所属する星組がミュージカル「リラの壁の囚人たち」を5月24日~30日東京で公演するそうです。すっかり大人っぽく美しくなられた天寿光希さん。益々のご活躍をお祈りしつつ、皆様の応援もよろしくお願いいたします。

天寿の歴史

補遺―3

補遺―3 酒造免許、鑑札

六代目 大井永吉

鑑札を下げ渡すから免許料金拾円也を上納せよとのお達しである。当時の拾円は今の価値に直すと幾らになるだろうか。計算根拠が違うと値も違ってくるので非常に難しい問題だが、よく例にとられる米を基準にすると約七万円になるようである。(矢島教育委員会)

生駒藩の御用達蔵武田家(三代目の妻とみえの実家で”玉泉“の蔵元)の藩政時代の鑑札が手元にある。

これは矢島町出身で江田島の海軍兵学校教官や神戸育英高校長をされた立派な教育者で「鳥海山」「由利郡中世史考」などの著書を残された郷土史研究家・姉崎岩蔵氏が、晩年御自分で集められた多くの資料を町に寄贈された際、「酒屋に関するものだからこれは君が持っていたほうがいいだろう。」と、わざわざ私に手渡しして下さった貴重な歴史資料である。

木製で小型(縦16㎝、幅12㎝、厚1.5㎝)のもの、表に御勘定所とあり検證の焼き印が押してある。裏は

生駒主慶知行

出羽国由理郡矢嶋七日町

酒造米高七十五石 武屋吉衛門

但元米掛米糀共

天保十三寅年

とあり、年毎か石高が変わった時の鑑札と見られる。新しく当社に下げ渡された鑑札はどんな物であったか、新制度による県令の鑑札なので木製であったか紙製の印刷ものであったか興味のあるところだが、残念ながら保存されていないので不明である。何れにしろ酒税を徴するための免許であり鑑札である。

酒に対する税金は、いつ頃からあったのだろうか。

文献によれば、神国であったわが国では、古代、神事の主役である酒は朝廷の管轄である神社でつくられていた。大和朝廷では、酒造司が担当し、また大きな寺院でも酒がつくられていた。時代が降ると、民間でも酒がつくられるようになり、平安朝から鎌倉時代にかけて酒屋が発生。酒は格好な課税対象となり酒屋の保護や酒造許可の代償として”酒屋公事“”酒屋役“

”酒麹役“などの名のもとに、酒の現物、税金、労役を課すことになった。これが酒税の始まりである。

暖冬?の秋田から
2010-03-01

暖冬?の秋田から

代表取締役社長 大井建史

暖冬かと思うと、めったに無いような大寒波が襲ってきて、三十年以上一度も無かった消火栓のポンプが凍り破裂すると言う大変な事件も起きました。(消化ポンプの交換で大変な金額が飛んでいきます・・・)屋根の上も融けたり凍ったりと忙しく、シガもり(融けた雪が凍る事で屋根材の隙間から漏って来る事)の心配や上槽後の生原酒の温度管理、雪室の雪など心配事がドンドン増えてしまいます。

ニ月十三日に今年も酒造開放を実施し、沢山のボランティアの皆さんにご協力を頂き、お陰様で盛会裏に終了する事ができました。当日は1500人を超えるお客様をお迎えする事ができ、心から感謝申し上げます。

伝統産業の後継者として、宝酒造様で営業経験を三年ほど積ませて頂いてから家業に入って二十五年。「いかに良い酒を造るか」という姿勢も、自然にまた色濃く継いでいたようです。社長になる数年前から現在の杜氏である佐藤と原料処理をどうするかを研究し、古から「良い」とされる事を検証し、何を以って「良い」とするかを検討し、改善計画を練り、目標に向かって杜氏氏が改造・実験を繰り返し、その改善への投資・支援を続けて参りました。その結果として原料処理方法や醸造過程も様変わりし、醸造環境・設備もそれに伴って社長継続時とは大きく様変わりしております。

勿論、酒質も変わります。その変化を皆様にお伝えしたくて、蔵元通信を書き始めました。また、蔵開放を拡大イベント化し、駅の市・酒蔵の市・雪室開封イベント、水源探索、天寿を楽しむ会、落語と天寿を楽しむ会、旬どきうまいもの自慢会等々、少しでも多くの方々と触れ合う機会をもうけて参りました。

それでもまだまだ上手くお伝え出来ているとは思っておりませんし、「良いものさえ造っていれば、判って貰える筈」と何処かで考えている自分がいます。造る事には熱心であっても、造った物をさらに多くの人にお伝えし、飲んで頂くところまでのプロデュースにもっと力を注ぐべきなのは頭では判っているつもりなのですが。

ドラマを見て読み返した司馬遼太郎の坂の上の雲ニ巻で、秋山真之の「たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、艦底にかきがらがいっぱいくっいて船足がうんとおちる。人間も同じで、経験は必要じゃが、経験によって増える知恵と同じ分量だけのかきがらが頭につく。知恵だけ採ってかきがらだけ捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれが出来ぬ。」と言う台詞がありました。ガツンと言う音と警戒警報が頭のなかで鳴りました。人間の思考は何時どの様に変わるかなど判りませんが、この頃はテレビを見ていても涙腺がやたらと緩く具合が悪いのです。ふと思うと、自分が親の目線で我が子に置き換え、スポーツやドラマを見るから応援して?健気で?なだはなたらして(秋田弁で涙・鼻水をながしながら)見ている自分を発見してしまうのです。

何時から自分を主人公に見立てなくなったのでしょう?勿論年相応に考える部分や二十年前との身体能力の違いの大きさに意気消沈してしまう部分もありますが・・・。

思考は迷走しますが「まだまだ若いもんには負けません。」(遂にこの台詞を!!)

今年も佳い酒がどんどん搾られています。ご期待ください。

天寿の歴史

補遺―2

補遺―2 清酒醸造免許取得

補遺―2 取締役

六代目 大井 永吉

明治七年八月十三日日付の申請書に八月十五日の戸長(今の町・村長)の奥印(証印)を貰い届出、九月十日には聞き届けられている。

書面清酒稼営業願之趣聞届、鑑札下ヶ渡候条請取方追而可申出、其節免許料金拾円上納可致事

明治七年九月十日

秋田県権令 国司仙吉代理

秋田県参事 加藤祖一 ㊞

願いを聞き届け鑑札を下げ渡すから上納金十円を納めよとのお達しである。醸造願を提出してから約一ヶ月で許可が下りているが、恐らく事前にいろいろ準備があってのことであろう。現在では殆ど自由化されている小売免許でも審査期間にニヶ月もかかると言われている。製造免許となれば製造場を始め、麹室、仕込み桶などそれなりの製造設備が整っていなければならないので、相当の準備期間が必要な筈である。その点当時ニ代目は麹と濁酒を営んでいたので、麹室などの設備は清酒に転用できたのであろう。土蔵造りの観音開きと漆喰の引き戸、その内戸の格子戸のみが残る今も[一号機]と名付けている蔵は、棟木に明治七年甲戌とあったので、清酒醸造のために建てた土蔵だったことが判る。下に三代目と横書きし大井永吉、同与四郎と並べて縦書き下には造之とあり、三代目と記したのは、明治十四年には清酒醸造引継営業願を出している一人前となった後継者の与四郎を立てての事だったと思われ、温かい親心が偲ばれる。

また前準備の一つとして濁酒醸造廃業願がある。

濁酒醸造廃業罷在候処、今般廃業支度,依之御鑑札返上仕候間、此段奉願候、以上

秋田県管下商

第四大区三小区

羽後国由利郡城内村弐百

壱十弐番屋敷居住

大井永吉㊞

明治七年九月7日

秋田県権令 国司仙吉殿

右之通相違無之、依而奥仕候

戸長 菅原景就㊞

九月十二日には聞届候事の認可が下りている。単に濁酒を止めて清酒一本に絞りたかったのか、止めることが免許要件だったのか不明だが、同時認可になっている。

家業として初代永吉が麹と濁酒を商っていたが、何時から始めたのか不明である。分家してから清酒醸造を始める明治七年までは四十四年、二代目が婿入りしてからも二十五年なので少なくとも三十年にはなるかも知れない。しかし当社は確実に清酒醸造の免許を得た明治七年九月十日の通達の日を以って創業の日と定めているのである。

教学相長ず
2010-01-01

教学相長ず

代表取締役社長 大井建史

新年おめでとうございます。

十二月中に出張から帰ったら、空港で私の車が見つからないビックリする様な大雪もありましたが、秋田は気候的には比較的おだやかな正月を迎えました。

厳しい贈答市場に喘いだ師走でしたが、08に世界的な三つのコンテストで受賞した純米吟醸「鳥海山」や名門酒会の生酒部門は一般の部M V P。ひやおろし部門は三年連続東の横綱になった「米から育てた純米酒」等が全体を引っ張ってくれ、又、ヤクルト球団若松元監督の野球殿堂入りのパーティーで天寿純米酒をお使い頂いたり、婦人画報新年号で取材記事を載せて頂いたりと、大変有り難い事も続きました。お世話になりました皆様、心から感謝を申し上げます。

人生五十年が過ぎ、天寿酒造に入社して四半世紀・社長として10年が過ぎました。新創業を標榜し、改革・革新に努めてまいりましたが、歴史的に築かれて来た財産の有難さと儚さにも気付きました。当たり前と言う事など無いのですね。『当たり前』を覚える人・教える人・知らない振りをする人・忘れる人。この「人」を「自分」と置き換えても又真なりとも思いますが、天命を知るには程遠い状態であります。

先代五代目が70代後半の頃、小学生の私に「建史、人は運・鈍・根だ。鈍い位に実直に、性根を据えて物事に当たれば運は自ずと付いてくる。」と何度も説かれた記憶があります。目を閉じ耳を塞ぐ事ではありません。基本に忠実であれと言う事だと思います。統制の為販売価格・使用できる米の量が決まっていた売る努力など必要ない時代に、闇米を買ってまで精米歩合を少しでも上げる品質向上に努力した人の言葉です。

昨年11月の株主総会では昭和六年生まれの父・六代目永吉が代表取締役会長を退任し取締役相談役に就任致しました。これまでのご厚情に感謝いたしますと共に、後を継ぎます私共に代わらぬご厚誼を賜ります様お願い申し上げます。

天寿の歴史

補遺

補遺‐1

取締役相談役

六代目 大井 永吉

「百三十周年を迎える天寿の歴史」として天寿蔵元通信に拙文を連載して早や六年を経た。隔月発行毎号一頁の紙面でもあったが、創業の歴史も既に百三十五年目に入っている。

私にしか書けない記事をとの思いで父から聞いた話や、写真、資料を調べながら物語風に書き進めてきたが、ほぼ記憶に残る事柄や材料も尽きてきた感がある。

蔵元通信の編集からは連載を続けて欲しいとの要請もあり、郷土史研究、矢島酒造史研究的になって天寿愛飲家の皆さんには興味が薄くなるかもしれないが、先祖が残した古文書を読み解きながら創業の頃に戻して続けてみたい。また、書き残した事柄が出た時は挿入することにしたい。

清 酒 醸 造 願

清酒醸造営業仕度奉存候間、御鑑札御下ヶ渡被下度奉候、尤、免許料並ニ免許税共、御規則之通上納可仕候、 以上

明治七年八月十三日

秋田県管下商

第四大区三小区

羽後国由利郡

城内村弐百拾弐番屋敷居住

大井永吉㊞

秋田県権令 国司仙吉殿

右之通相違無之、依テ奥印仕候

明治七年八月十五日

戸長 菅原景就㊞

申請は二代目永吉である。初代永吉は文政十三年(1830年)本家五代目大井直之助光曙時代現在地に分家、麴や濁酒を商っていたが、二代目永吉﹇幼名正助﹈嘉永二年(1849年)二十二才で雄勝郡西馬音村佐藤平治家より婿入り、家業を手伝っていたが、明治維新を経て新政府により諸制度が新しく生まれ変わったのを機に清酒製造に踏み切ったとみられる。

清酒醸造の許可は、藩政時代は生駒藩であったが、時の権令(※1)宛てに、戸長(※2)の奥印付きで申請している。

※1 権令﹇県令に次ぐ県の地方長官。明治4年(1871)、権知事を改称して置かれ、同十一年に廃止された﹈

※2 戸長﹇明治前期、地方行政区画の区や町村の行政事務をつかさどった役人。明治5年(1872)の大区・小区制下では小区の長として置かれ、従来の庄屋・名主などから選ばれた。同二十二年町村制施行により廃止。今の町・村長にあたる﹈

136回目の酒造り
2009-11-01

136回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

稲刈りも十月の中旬過ぎには終わり、酒蔵には十九日から蔵人が入り始め二十六日に初米研ぎとなります。いよいよ今年も酒蔵に活気が戻ってきました。

長年頭と麹の長を務め、通算45年もの長きにわたって活躍頂いた高橋重美さんが、後継者の成長を確認の上引退を希望。さらにもう一名が市会議員選挙立候補のため急遽転進により、二名の新人が入蔵しました。佐藤次男さんと三浦弘章さんです。偶然ですが私と常務の同級生です。と言う事はあまり若くは無いと言う事ですが、牛乳のメーカーに長年勤め親の為にUターンしたり、弱電企業に長年勤めこの不況時のリストラにあったりの苦労人ですが、二人ともこの際農業を頑張ってみようと挑戦し始めました。この「物を育てよう」と言う気合が蔵人をお願いするのにぴったりだと考えました。

常勤社員の多能力化の試みも本格的に稼動し、いよいよ全員一丸体制の酒造りが本格化してきました。造り酒屋は歴史的に地方の安定企業だったせいか、常勤社員の方が「これまでは感覚」が強く、十年にわたる機構改革(弊社レベルでは気分改革と言った方が適切かも知れません)が難儀な人もいる様です。しかし、良き日本、地方文化・食文化の保存の為にも、是非成し遂げなければいけません。

一九九九年十一月に第一号ですので、この蔵元通信も丸十年を超えました。これは私の社長としての十年と等しく、人の力とは大したものだと言う事や、人生には仕事だけではない色々な事が起き、自分個人の力など知れている事を思い知った十年間でもありました。

昨年来の空前の不況で誰もが大変な世の中になってしまいましたが、清酒業界は空前の和食ブームのお陰で海外にも市場を求め、ワインと並ぶ高いステイタスを築かんと地方中小酒蔵が必死に頑張って来ましたが、昨年の酒造り期間は原油が高騰し、諸々の原価が高騰したにもかかわらず、日本酒の大手企業は益々大容量・低価格へと狂ったように驀進し、まるで日本酒のステイタスを一生懸命下げようとしているかの様に思えてなりません。

日本の良き伝統は、行き過ぎた構造改革・アメリカ型グローバル資本主義・中央の地方への無理解により消滅の危機に直面し、アメリカと同じようにゴーストタウンの誕生が間近になってきた感があります。

新政権は酒と煙草は体に悪いから税金を上げると、知らない内にマニフェストに入れた細かい具体的内容を盾に頑ななようですが、明日をも知れない不安定な情勢の中で、人間関係が希薄になった現在の社会にこそ、飲酒による癒しの効果や人間関係の潤滑油としての役割の大きさを理解してもらいたいものです。そんな事が理解できないから小正月等を無くしても連休にしてしまえば良いと言う事をやってしまうのです。日本的な穏やかな人間関係の中で、コミュニケーション・ツールとして、日本酒の持つ本来の役割を見直し、優しく・粋に世代を超えたつながりを作り上げたいものですね。

天寿の歴史

六)ー17

杜氏の系譜(13)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

中野恭一杜氏が退職するに当たって後任に決めたのは、季節雇用の山内杜氏を新しく頼む方法ではなく、年間雇用の社員の村上嘉夫だった。

村上は隣町の鳥海町出身、昭和三十八年矢島高校を卒業してすぐに製造課に入社しているが、その年の造りから中野杜氏になっているので、やはり何かの縁があったのだろう。

彼は高校時代相撲部の選手で、当時矢島高校相撲部は県下でも上位の実力を誇っていて、彼も活躍した一人だが、相撲で鍛えた無理のきく頑健な体格と温厚で粘り強く誠実な性格を見込んでの事であった。

最初の仕事は検査立会(製造関係の帳簿管理記帳、分析、税務検査立会)であったが、入社の年の造り期間、湯沢の爛漫さんにお願いして造り全般の基礎的なことから特に彼の担当の仕事について研修させて頂いた。このことは彼のその後に大変役に立った事であり、ご指導頂いた技師長谷金弥氏には、後になって彼が杜氏時代も技術指導者の立場からお教えを頂き大変お世話になっている。

彼の仕事は、杜氏の居ない間の夏季の貯蔵酒管理と、壜詰出荷のための原酒の調合と、巾広い分野に及んだが、無難にこなしていった。特に出荷のための調合は酒のきき酒能力が絶対必要だが、彼は天性の優れたものを持っていたと思う。きき酒能力は訓練によってもある程度向上するが、やはり生まれながらのものが大きいと私は思っている。彼は中野杜氏のもと三十年間右肩上がりに増え続ける生産量と、出荷量を事故なく管理し、ブレンドし製品化して天寿の銘柄を維持発展させてきたのである。縁の下の力持的存在であったがその功績は実に大きいものがあった。

さて平成三年六月一日付けで杜氏に就任、造りのほうも一通りの現場は経験しているとはいえ専門の役はこなしていないので、いろいろ心配と苦労はあったと思う。しかし中野杜氏が抜けただけで麹、酒母、蒸し、もろみなどスタッフは全部そのままだったので、計画と進行をキチンとやり、個々の良さを纏め上げる努力をしたのである。ただ大吟醸の仕込みだけは人任せには出来ない腕のみせどころ、夜も休みなく温度管理などに心血を注いでいる様子が伺えた。

努力の甲斐あって、平成三年・四年・八年全国新酒鑑評会で見事に金賞を射止めたのであった。別に全国新酒鑑評会銀賞六回。平成三年・七年、秋田清酒品評会知事賞等秋田県・東北の品評会・鑑評会で天寿の名声を維持した功績は大である。

平成十四年八月に健康上の理由で、残念ながら定年に二年を残して四十年の勤めで後進に道を譲ったのであった。

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