愚 公 移 山
代表取締役社長 大井建史
四月に雪が降って、地元の人間も驚かされましたが、いよいよしっかり春になりました。この所、温暖なのに時々大雪と言う不思議な冬の気候で積雪の予測がつかず相対では雪が少ないのに雪害が増える状況が続いております。
そんな中、天寿の酒蔵では、革新の繰り返しの結果、この十数年来私と杜氏が目指して来た「原料処理」が一つ上のステージに到達した感があり、喜ばしく思っております。
精米所からの白米計量が自動化され、60%精米以上を全てザルにとり手洗いが可能となり、バッチ式に洗米の上、限定吸水出来るようになりました。その結果、仕込み毎の総米の吸水歩合が全量計量で目標との誤差0.1%以内を実現し蒸米中の吸水量が確定した事から計画通りの蒸米が出来、その手触りは蔵人にとって快感になりました。
元々酸は出にくい蔵でしたが、初期の頃は工夫する度に益々少なくなり危機感を持ちました。しかし、ここに来てどの酵母・酒米・精米歩合でも香りや酸を含め味の幅がグンと膨らんで来た気がします。
花酵母の研究で汲み水を自在に使用出来る様になり、温度管理にも新機軸を導入した事により「純米吟醸鳥海山」がトリプル受賞したり、名門酒会では「米から育てた純米酒」のひやおろしが人気投票で三年連続東の横綱に選ばれ、飯田社長が「天寿はどうしたんだ?」と急に酒造りを見に来て下さるなど、手ごたえを感じる色々な反応が出て来た気がします。
農大花酵母を導入以来、大正末期の全国的な腐造事故により激減した清酒酵母の多品種化復活を目指して、様々な新酵母を使用し日本酒の香味の広がりを目指して参りました。これにより理屈ではなく体で清酒酵母が味と香りのタイプを決定している事を思い知りました。米種・精米歩合・酒母の種類・もろみ経過等も大きく酒質に影響しますが、酸の種類・香りのタイプを決めるのは酵母なのです安定した醸造の中でそれぞれの酵母が個性を発揮していく。実にうれしい光景です。これまで本当に沢山の試みや設備投資を重ねた事そして、何よりも杜氏を中心とした蔵人たちの飽くなき努力の賜物と思っております。
話は変わりますが、先日秋田初のタカラジェンヌ「天寿光希」さんが久々の帰郷と言う事で、ご両親と一緒に弊社を訪ねて下さいました。初めてお会いしたのは五年前。卒業前でデビューを目前に『天寿』を芸名に使いたいと挨拶に来られたのです。私としては大変嬉しく、光栄に思いました。所属する星組がミュージカル「リラの壁の囚人たち」を5月24日~30日東京で公演するそうです。すっかり大人っぽく美しくなられた天寿光希さん。益々のご活躍をお祈りしつつ、皆様の応援もよろしくお願いいたします。
天寿の歴史
補遺―3
補遺―3 酒造免許、鑑札
六代目 大井永吉
鑑札を下げ渡すから免許料金拾円也を上納せよとのお達しである。当時の拾円は今の価値に直すと幾らになるだろうか。計算根拠が違うと値も違ってくるので非常に難しい問題だが、よく例にとられる米を基準にすると約七万円になるようである。(矢島教育委員会)
生駒藩の御用達蔵武田家(三代目の妻とみえの実家で”玉泉“の蔵元)の藩政時代の鑑札が手元にある。
これは矢島町出身で江田島の海軍兵学校教官や神戸育英高校長をされた立派な教育者で「鳥海山」「由利郡中世史考」などの著書を残された郷土史研究家・姉崎岩蔵氏が、晩年御自分で集められた多くの資料を町に寄贈された際、「酒屋に関するものだからこれは君が持っていたほうがいいだろう。」と、わざわざ私に手渡しして下さった貴重な歴史資料である。
木製で小型(縦16㎝、幅12㎝、厚1.5㎝)のもの、表に御勘定所とあり検證の焼き印が押してある。裏は
生駒主慶知行
出羽国由理郡矢嶋七日町
酒造米高七十五石 武屋吉衛門
但元米掛米糀共
天保十三寅年
とあり、年毎か石高が変わった時の鑑札と見られる。新しく当社に下げ渡された鑑札はどんな物であったか、新制度による県令の鑑札なので木製であったか紙製の印刷ものであったか興味のあるところだが、残念ながら保存されていないので不明である。何れにしろ酒税を徴するための免許であり鑑札である。
酒に対する税金は、いつ頃からあったのだろうか。
文献によれば、神国であったわが国では、古代、神事の主役である酒は朝廷の管轄である神社でつくられていた。大和朝廷では、酒造司が担当し、また大きな寺院でも酒がつくられていた。時代が降ると、民間でも酒がつくられるようになり、平安朝から鎌倉時代にかけて酒屋が発生。酒は格好な課税対象となり酒屋の保護や酒造許可の代償として”酒屋公事“”酒屋役“
”酒麹役“などの名のもとに、酒の現物、税金、労役を課すことになった。これが酒税の始まりである。