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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

愚 公 移 山
2010-05-01

愚 公 移 山

代表取締役社長 大井建史

四月に雪が降って、地元の人間も驚かされましたが、いよいよしっかり春になりました。この所、温暖なのに時々大雪と言う不思議な冬の気候で積雪の予測がつかず相対では雪が少ないのに雪害が増える状況が続いております。

そんな中、天寿の酒蔵では、革新の繰り返しの結果、この十数年来私と杜氏が目指して来た「原料処理」が一つ上のステージに到達した感があり、喜ばしく思っております。

精米所からの白米計量が自動化され、60%精米以上を全てザルにとり手洗いが可能となり、バッチ式に洗米の上、限定吸水出来るようになりました。その結果、仕込み毎の総米の吸水歩合が全量計量で目標との誤差0.1%以内を実現し蒸米中の吸水量が確定した事から計画通りの蒸米が出来、その手触りは蔵人にとって快感になりました。

元々酸は出にくい蔵でしたが、初期の頃は工夫する度に益々少なくなり危機感を持ちました。しかし、ここに来てどの酵母・酒米・精米歩合でも香りや酸を含め味の幅がグンと膨らんで来た気がします。

花酵母の研究で汲み水を自在に使用出来る様になり、温度管理にも新機軸を導入した事により「純米吟醸鳥海山」がトリプル受賞したり、名門酒会では「米から育てた純米酒」のひやおろしが人気投票で三年連続東の横綱に選ばれ、飯田社長が「天寿はどうしたんだ?」と急に酒造りを見に来て下さるなど、手ごたえを感じる色々な反応が出て来た気がします。

農大花酵母を導入以来、大正末期の全国的な腐造事故により激減した清酒酵母の多品種化復活を目指して、様々な新酵母を使用し日本酒の香味の広がりを目指して参りました。これにより理屈ではなく体で清酒酵母が味と香りのタイプを決定している事を思い知りました。米種・精米歩合・酒母の種類・もろみ経過等も大きく酒質に影響しますが、酸の種類・香りのタイプを決めるのは酵母なのです安定した醸造の中でそれぞれの酵母が個性を発揮していく。実にうれしい光景です。これまで本当に沢山の試みや設備投資を重ねた事そして、何よりも杜氏を中心とした蔵人たちの飽くなき努力の賜物と思っております。

 話は変わりますが、先日秋田初のタカラジェンヌ「天寿光希」さんが久々の帰郷と言う事で、ご両親と一緒に弊社を訪ねて下さいました。初めてお会いしたのは五年前。卒業前でデビューを目前に『天寿』を芸名に使いたいと挨拶に来られたのです。私としては大変嬉しく、光栄に思いました。所属する星組がミュージカル「リラの壁の囚人たち」を5月24日~30日東京で公演するそうです。すっかり大人っぽく美しくなられた天寿光希さん。益々のご活躍をお祈りしつつ、皆様の応援もよろしくお願いいたします。

天寿の歴史

補遺―3

補遺―3 酒造免許、鑑札

六代目 大井永吉

鑑札を下げ渡すから免許料金拾円也を上納せよとのお達しである。当時の拾円は今の価値に直すと幾らになるだろうか。計算根拠が違うと値も違ってくるので非常に難しい問題だが、よく例にとられる米を基準にすると約七万円になるようである。(矢島教育委員会)

生駒藩の御用達蔵武田家(三代目の妻とみえの実家で”玉泉“の蔵元)の藩政時代の鑑札が手元にある。

これは矢島町出身で江田島の海軍兵学校教官や神戸育英高校長をされた立派な教育者で「鳥海山」「由利郡中世史考」などの著書を残された郷土史研究家・姉崎岩蔵氏が、晩年御自分で集められた多くの資料を町に寄贈された際、「酒屋に関するものだからこれは君が持っていたほうがいいだろう。」と、わざわざ私に手渡しして下さった貴重な歴史資料である。

木製で小型(縦16㎝、幅12㎝、厚1.5㎝)のもの、表に御勘定所とあり検證の焼き印が押してある。裏は

生駒主慶知行

出羽国由理郡矢嶋七日町

酒造米高七十五石 武屋吉衛門

但元米掛米糀共

天保十三寅年

とあり、年毎か石高が変わった時の鑑札と見られる。新しく当社に下げ渡された鑑札はどんな物であったか、新制度による県令の鑑札なので木製であったか紙製の印刷ものであったか興味のあるところだが、残念ながら保存されていないので不明である。何れにしろ酒税を徴するための免許であり鑑札である。

酒に対する税金は、いつ頃からあったのだろうか。

文献によれば、神国であったわが国では、古代、神事の主役である酒は朝廷の管轄である神社でつくられていた。大和朝廷では、酒造司が担当し、また大きな寺院でも酒がつくられていた。時代が降ると、民間でも酒がつくられるようになり、平安朝から鎌倉時代にかけて酒屋が発生。酒は格好な課税対象となり酒屋の保護や酒造許可の代償として”酒屋公事“”酒屋役“

”酒麹役“などの名のもとに、酒の現物、税金、労役を課すことになった。これが酒税の始まりである。

暖冬?の秋田から
2010-03-01

暖冬?の秋田から

代表取締役社長 大井建史

暖冬かと思うと、めったに無いような大寒波が襲ってきて、三十年以上一度も無かった消火栓のポンプが凍り破裂すると言う大変な事件も起きました。(消化ポンプの交換で大変な金額が飛んでいきます・・・)屋根の上も融けたり凍ったりと忙しく、シガもり(融けた雪が凍る事で屋根材の隙間から漏って来る事)の心配や上槽後の生原酒の温度管理、雪室の雪など心配事がドンドン増えてしまいます。

ニ月十三日に今年も酒造開放を実施し、沢山のボランティアの皆さんにご協力を頂き、お陰様で盛会裏に終了する事ができました。当日は1500人を超えるお客様をお迎えする事ができ、心から感謝申し上げます。

伝統産業の後継者として、宝酒造様で営業経験を三年ほど積ませて頂いてから家業に入って二十五年。「いかに良い酒を造るか」という姿勢も、自然にまた色濃く継いでいたようです。社長になる数年前から現在の杜氏である佐藤と原料処理をどうするかを研究し、古から「良い」とされる事を検証し、何を以って「良い」とするかを検討し、改善計画を練り、目標に向かって杜氏氏が改造・実験を繰り返し、その改善への投資・支援を続けて参りました。その結果として原料処理方法や醸造過程も様変わりし、醸造環境・設備もそれに伴って社長継続時とは大きく様変わりしております。

勿論、酒質も変わります。その変化を皆様にお伝えしたくて、蔵元通信を書き始めました。また、蔵開放を拡大イベント化し、駅の市・酒蔵の市・雪室開封イベント、水源探索、天寿を楽しむ会、落語と天寿を楽しむ会、旬どきうまいもの自慢会等々、少しでも多くの方々と触れ合う機会をもうけて参りました。

それでもまだまだ上手くお伝え出来ているとは思っておりませんし、「良いものさえ造っていれば、判って貰える筈」と何処かで考えている自分がいます。造る事には熱心であっても、造った物をさらに多くの人にお伝えし、飲んで頂くところまでのプロデュースにもっと力を注ぐべきなのは頭では判っているつもりなのですが。

ドラマを見て読み返した司馬遼太郎の坂の上の雲ニ巻で、秋山真之の「たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、艦底にかきがらがいっぱいくっいて船足がうんとおちる。人間も同じで、経験は必要じゃが、経験によって増える知恵と同じ分量だけのかきがらが頭につく。知恵だけ採ってかきがらだけ捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれが出来ぬ。」と言う台詞がありました。ガツンと言う音と警戒警報が頭のなかで鳴りました。人間の思考は何時どの様に変わるかなど判りませんが、この頃はテレビを見ていても涙腺がやたらと緩く具合が悪いのです。ふと思うと、自分が親の目線で我が子に置き換え、スポーツやドラマを見るから応援して?健気で?なだはなたらして(秋田弁で涙・鼻水をながしながら)見ている自分を発見してしまうのです。

何時から自分を主人公に見立てなくなったのでしょう?勿論年相応に考える部分や二十年前との身体能力の違いの大きさに意気消沈してしまう部分もありますが・・・。

思考は迷走しますが「まだまだ若いもんには負けません。」(遂にこの台詞を!!)

今年も佳い酒がどんどん搾られています。ご期待ください。

天寿の歴史

補遺―2

補遺―2 清酒醸造免許取得

補遺―2 取締役

六代目 大井 永吉

明治七年八月十三日日付の申請書に八月十五日の戸長(今の町・村長)の奥印(証印)を貰い届出、九月十日には聞き届けられている。

書面清酒稼営業願之趣聞届、鑑札下ヶ渡候条請取方追而可申出、其節免許料金拾円上納可致事

明治七年九月十日

秋田県権令 国司仙吉代理

秋田県参事 加藤祖一 ㊞

願いを聞き届け鑑札を下げ渡すから上納金十円を納めよとのお達しである。醸造願を提出してから約一ヶ月で許可が下りているが、恐らく事前にいろいろ準備があってのことであろう。現在では殆ど自由化されている小売免許でも審査期間にニヶ月もかかると言われている。製造免許となれば製造場を始め、麹室、仕込み桶などそれなりの製造設備が整っていなければならないので、相当の準備期間が必要な筈である。その点当時ニ代目は麹と濁酒を営んでいたので、麹室などの設備は清酒に転用できたのであろう。土蔵造りの観音開きと漆喰の引き戸、その内戸の格子戸のみが残る今も[一号機]と名付けている蔵は、棟木に明治七年甲戌とあったので、清酒醸造のために建てた土蔵だったことが判る。下に三代目と横書きし大井永吉、同与四郎と並べて縦書き下には造之とあり、三代目と記したのは、明治十四年には清酒醸造引継営業願を出している一人前となった後継者の与四郎を立てての事だったと思われ、温かい親心が偲ばれる。

また前準備の一つとして濁酒醸造廃業願がある。

濁酒醸造廃業罷在候処、今般廃業支度,依之御鑑札返上仕候間、此段奉願候、以上

秋田県管下商

第四大区三小区

羽後国由利郡城内村弐百

壱十弐番屋敷居住

大井永吉㊞

明治七年九月7日

秋田県権令 国司仙吉殿

右之通相違無之、依而奥仕候

戸長 菅原景就㊞

九月十二日には聞届候事の認可が下りている。単に濁酒を止めて清酒一本に絞りたかったのか、止めることが免許要件だったのか不明だが、同時認可になっている。

家業として初代永吉が麹と濁酒を商っていたが、何時から始めたのか不明である。分家してから清酒醸造を始める明治七年までは四十四年、二代目が婿入りしてからも二十五年なので少なくとも三十年にはなるかも知れない。しかし当社は確実に清酒醸造の免許を得た明治七年九月十日の通達の日を以って創業の日と定めているのである。

教学相長ず
2010-01-01

教学相長ず

代表取締役社長 大井建史

新年おめでとうございます。

十二月中に出張から帰ったら、空港で私の車が見つからないビックリする様な大雪もありましたが、秋田は気候的には比較的おだやかな正月を迎えました。

厳しい贈答市場に喘いだ師走でしたが、08に世界的な三つのコンテストで受賞した純米吟醸「鳥海山」や名門酒会の生酒部門は一般の部M V P。ひやおろし部門は三年連続東の横綱になった「米から育てた純米酒」等が全体を引っ張ってくれ、又、ヤクルト球団若松元監督の野球殿堂入りのパーティーで天寿純米酒をお使い頂いたり、婦人画報新年号で取材記事を載せて頂いたりと、大変有り難い事も続きました。お世話になりました皆様、心から感謝を申し上げます。

人生五十年が過ぎ、天寿酒造に入社して四半世紀・社長として10年が過ぎました。新創業を標榜し、改革・革新に努めてまいりましたが、歴史的に築かれて来た財産の有難さと儚さにも気付きました。当たり前と言う事など無いのですね。『当たり前』を覚える人・教える人・知らない振りをする人・忘れる人。この「人」を「自分」と置き換えても又真なりとも思いますが、天命を知るには程遠い状態であります。

先代五代目が70代後半の頃、小学生の私に「建史、人は運・鈍・根だ。鈍い位に実直に、性根を据えて物事に当たれば運は自ずと付いてくる。」と何度も説かれた記憶があります。目を閉じ耳を塞ぐ事ではありません。基本に忠実であれと言う事だと思います。統制の為販売価格・使用できる米の量が決まっていた売る努力など必要ない時代に、闇米を買ってまで精米歩合を少しでも上げる品質向上に努力した人の言葉です。

昨年11月の株主総会では昭和六年生まれの父・六代目永吉が代表取締役会長を退任し取締役相談役に就任致しました。これまでのご厚情に感謝いたしますと共に、後を継ぎます私共に代わらぬご厚誼を賜ります様お願い申し上げます。

天寿の歴史

補遺

補遺‐1

取締役相談役

六代目 大井 永吉

「百三十周年を迎える天寿の歴史」として天寿蔵元通信に拙文を連載して早や六年を経た。隔月発行毎号一頁の紙面でもあったが、創業の歴史も既に百三十五年目に入っている。

私にしか書けない記事をとの思いで父から聞いた話や、写真、資料を調べながら物語風に書き進めてきたが、ほぼ記憶に残る事柄や材料も尽きてきた感がある。

蔵元通信の編集からは連載を続けて欲しいとの要請もあり、郷土史研究、矢島酒造史研究的になって天寿愛飲家の皆さんには興味が薄くなるかもしれないが、先祖が残した古文書を読み解きながら創業の頃に戻して続けてみたい。また、書き残した事柄が出た時は挿入することにしたい。

清 酒 醸 造 願

清酒醸造営業仕度奉存候間、御鑑札御下ヶ渡被下度奉候、尤、免許料並ニ免許税共、御規則之通上納可仕候、 以上

明治七年八月十三日

秋田県管下商

第四大区三小区

羽後国由利郡

城内村弐百拾弐番屋敷居住

大井永吉㊞

秋田県権令 国司仙吉殿

右之通相違無之、依テ奥印仕候

明治七年八月十五日

戸長 菅原景就㊞

申請は二代目永吉である。初代永吉は文政十三年(1830年)本家五代目大井直之助光曙時代現在地に分家、麴や濁酒を商っていたが、二代目永吉﹇幼名正助﹈嘉永二年(1849年)二十二才で雄勝郡西馬音村佐藤平治家より婿入り、家業を手伝っていたが、明治維新を経て新政府により諸制度が新しく生まれ変わったのを機に清酒製造に踏み切ったとみられる。

清酒醸造の許可は、藩政時代は生駒藩であったが、時の権令(※1)宛てに、戸長(※2)の奥印付きで申請している。

※1 権令﹇県令に次ぐ県の地方長官。明治4年(1871)、権知事を改称して置かれ、同十一年に廃止された﹈

※2 戸長﹇明治前期、地方行政区画の区や町村の行政事務をつかさどった役人。明治5年(1872)の大区・小区制下では小区の長として置かれ、従来の庄屋・名主などから選ばれた。同二十二年町村制施行により廃止。今の町・村長にあたる﹈

136回目の酒造り
2009-11-01

136回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

稲刈りも十月の中旬過ぎには終わり、酒蔵には十九日から蔵人が入り始め二十六日に初米研ぎとなります。いよいよ今年も酒蔵に活気が戻ってきました。

長年頭と麹の長を務め、通算45年もの長きにわたって活躍頂いた高橋重美さんが、後継者の成長を確認の上引退を希望。さらにもう一名が市会議員選挙立候補のため急遽転進により、二名の新人が入蔵しました。佐藤次男さんと三浦弘章さんです。偶然ですが私と常務の同級生です。と言う事はあまり若くは無いと言う事ですが、牛乳のメーカーに長年勤め親の為にUターンしたり、弱電企業に長年勤めこの不況時のリストラにあったりの苦労人ですが、二人ともこの際農業を頑張ってみようと挑戦し始めました。この「物を育てよう」と言う気合が蔵人をお願いするのにぴったりだと考えました。

常勤社員の多能力化の試みも本格的に稼動し、いよいよ全員一丸体制の酒造りが本格化してきました。造り酒屋は歴史的に地方の安定企業だったせいか、常勤社員の方が「これまでは感覚」が強く、十年にわたる機構改革(弊社レベルでは気分改革と言った方が適切かも知れません)が難儀な人もいる様です。しかし、良き日本、地方文化・食文化の保存の為にも、是非成し遂げなければいけません。

一九九九年十一月に第一号ですので、この蔵元通信も丸十年を超えました。これは私の社長としての十年と等しく、人の力とは大したものだと言う事や、人生には仕事だけではない色々な事が起き、自分個人の力など知れている事を思い知った十年間でもありました。

昨年来の空前の不況で誰もが大変な世の中になってしまいましたが、清酒業界は空前の和食ブームのお陰で海外にも市場を求め、ワインと並ぶ高いステイタスを築かんと地方中小酒蔵が必死に頑張って来ましたが、昨年の酒造り期間は原油が高騰し、諸々の原価が高騰したにもかかわらず、日本酒の大手企業は益々大容量・低価格へと狂ったように驀進し、まるで日本酒のステイタスを一生懸命下げようとしているかの様に思えてなりません。

日本の良き伝統は、行き過ぎた構造改革・アメリカ型グローバル資本主義・中央の地方への無理解により消滅の危機に直面し、アメリカと同じようにゴーストタウンの誕生が間近になってきた感があります。

新政権は酒と煙草は体に悪いから税金を上げると、知らない内にマニフェストに入れた細かい具体的内容を盾に頑ななようですが、明日をも知れない不安定な情勢の中で、人間関係が希薄になった現在の社会にこそ、飲酒による癒しの効果や人間関係の潤滑油としての役割の大きさを理解してもらいたいものです。そんな事が理解できないから小正月等を無くしても連休にしてしまえば良いと言う事をやってしまうのです。日本的な穏やかな人間関係の中で、コミュニケーション・ツールとして、日本酒の持つ本来の役割を見直し、優しく・粋に世代を超えたつながりを作り上げたいものですね。

天寿の歴史

六)ー17

杜氏の系譜(13)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

中野恭一杜氏が退職するに当たって後任に決めたのは、季節雇用の山内杜氏を新しく頼む方法ではなく、年間雇用の社員の村上嘉夫だった。

村上は隣町の鳥海町出身、昭和三十八年矢島高校を卒業してすぐに製造課に入社しているが、その年の造りから中野杜氏になっているので、やはり何かの縁があったのだろう。

彼は高校時代相撲部の選手で、当時矢島高校相撲部は県下でも上位の実力を誇っていて、彼も活躍した一人だが、相撲で鍛えた無理のきく頑健な体格と温厚で粘り強く誠実な性格を見込んでの事であった。

最初の仕事は検査立会(製造関係の帳簿管理記帳、分析、税務検査立会)であったが、入社の年の造り期間、湯沢の爛漫さんにお願いして造り全般の基礎的なことから特に彼の担当の仕事について研修させて頂いた。このことは彼のその後に大変役に立った事であり、ご指導頂いた技師長谷金弥氏には、後になって彼が杜氏時代も技術指導者の立場からお教えを頂き大変お世話になっている。

彼の仕事は、杜氏の居ない間の夏季の貯蔵酒管理と、壜詰出荷のための原酒の調合と、巾広い分野に及んだが、無難にこなしていった。特に出荷のための調合は酒のきき酒能力が絶対必要だが、彼は天性の優れたものを持っていたと思う。きき酒能力は訓練によってもある程度向上するが、やはり生まれながらのものが大きいと私は思っている。彼は中野杜氏のもと三十年間右肩上がりに増え続ける生産量と、出荷量を事故なく管理し、ブレンドし製品化して天寿の銘柄を維持発展させてきたのである。縁の下の力持的存在であったがその功績は実に大きいものがあった。

さて平成三年六月一日付けで杜氏に就任、造りのほうも一通りの現場は経験しているとはいえ専門の役はこなしていないので、いろいろ心配と苦労はあったと思う。しかし中野杜氏が抜けただけで麹、酒母、蒸し、もろみなどスタッフは全部そのままだったので、計画と進行をキチンとやり、個々の良さを纏め上げる努力をしたのである。ただ大吟醸の仕込みだけは人任せには出来ない腕のみせどころ、夜も休みなく温度管理などに心血を注いでいる様子が伺えた。

努力の甲斐あって、平成三年・四年・八年全国新酒鑑評会で見事に金賞を射止めたのであった。別に全国新酒鑑評会銀賞六回。平成三年・七年、秋田清酒品評会知事賞等秋田県・東北の品評会・鑑評会で天寿の名声を維持した功績は大である。

平成十四年八月に健康上の理由で、残念ながら定年に二年を残して四十年の勤めで後進に道を譲ったのであった。

母なる鳥海山
2009-09-01

母なる鳥海山

代表取締役社長 大井建史

麗峰鳥海山。標高2236m東北第二の高峰。秋田と山形の県境に位置し、太古より信仰の山として開けていました。今年大物忌神社などが国指定の史跡に認定され、その重要性がさらに認められたところです。出羽富士とも呼ばれる秀麗無比なる鳥海山は、その広大な裾野に母なる山の恵みとして、田畑に水を満たし、海でも魚介類へ栄養を与えています。

その登山口にある弊社では、この鳥海山を仕込み水となる伏流水の水源として、その広大さと抜群の環境を体感して頂こうと、この十年間に渡り「水源探索」のイベントをおこなって参りました。二年前には探索コースの元滝と出壺が「平成の名水百選」に認定され、そのすばらしさを証明されました。

元滝は上流に川のない滝で、岩肌から出る滝そのものが鳥海山の湧き水であり、夏でもひんやりとしたその水辺は、オゾン一杯の安らぎの場となっています。また出壺は写真のように突然その場から川が始まり、数多い湧き水の中でも大変大きく毎分七トンの湧水量を誇っています。近辺の湧き水とあわせると毎分百トンにもなる湧水は、導水路を流れダムの無い水力発電を可能とし、横岡第一・第二発電所として、大正・昭和初期から活躍しています。

また、出壺のある獅子ヶ鼻湿原の近くには、昭和初期に作られた日本初の温水路があります。これは、農業用水として使用するために、水深を浅くし川幅を広げ、段を付けて空気を巻き込む事によって温度を上げるための工夫です。これにより、鳥海山の麓に開拓団等の努力で広大な田畑が出来ました。

知れば知る程その恩恵は膨大なものがあります。水力発電と言うと、莫大な予算をかけた広大なダムが思い浮かびますが、こんなにエコな水力発電を聞いた事がありますか? 自然を生かした先人の知恵に畏敬を感じます。

その恩恵で九月十日で創業百三十六年目を迎える弊社ですが、日本酒も考えてみると、とてもエコですよね。地元の農家が冬場の仕事の無いときに酒造りをやる労働力エコ・原料米は地元で調達でき、精米を如何に白くしても糠は飼料、白糠は上新粉ですからお菓子の原料に使われ捨てる部分がありません。おまけに地元資本で給料しか地元に落ちない誘致企業と違って、法人税等全てが地元に還元されます。

地元農家への貢献も大きく、日本の食文化を守り、さらに世界への日本文化のピーアールにも貢献しています。日本酒が売れると、良い事が沢山ありますね。

ミナサン!!是非ご支援ください。

天寿の歴史

(六)ー16

杜氏の系譜(12)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

先号で中野杜氏の蔵入りは単身だったと述べたが、私の記憶違いで実は麹師一人を連れての蔵入りだった。昭和三十八年十月杜氏として蔵入りした時は、麹師、酛師、釜屋(蒸米係)など五人の部下を連れ季節労務のチームとしての蔵入りだった。前年の造りを「頭」として過ごした経験から、地元の蔵人の技量を把握し総合戦力を判断した彼は、杜氏として責任を負うからには自分の手足として働ける、それなりの腕をもった蔵人が必要だったと思われる。特に先代社長から﹇売れる酒を造ってくれ﹈と言われたこともあって、杜氏としての最初の造りには相当の覚悟をもって臨んだようだった。(後日談)

彼は私と同年の昭和六年生まれ、当時三十二才の若さでの杜氏昇進は早いほうだったと思うが、温厚篤実、責任感強くしっかりした性格、当初は地元の蔵人や社員との融和に気を使ったようだ。杜氏には技術的なことに兎角自分の考えを押し通す命令型が多い中で、彼は蔵人個々の良さを引き出し、総合的に力をまとめ上げるという型だったので、部下の信頼も厚く蔵は次第に「和醸良」の良い雰囲気になっていった。

酒屋萬流」というが、天寿酒造に流れる花岡先生の基本的な教え、五代目永吉や佐藤広作前杜氏から受け継いだ良き伝統を守りながら、それまで会得した山内流を加味し、時代の技術を取り入れて品質向上に励み、新しい天寿流を作り上げていったと言えよう。

品評会・鑑評会における成績は、広作杜氏時代から県、東北共毎年のように優等賞を受賞していたが、彼の残した成績もそれを上回る立派なものであった。

彼の最初の造りが評価される三十九年の成績は記録にないが、四十年には秋田県清酒品評会の優等賞の中で特に優れたものに贈られる県知事賞、翌四十一年には連続の知事賞と仙台局優等賞、以後退職する平成三年まで、県の品評会では一回の欠落もなく連続二七回の受賞歴、内、県知事賞七回、仙台局優等賞は十七回受賞の実績を誇っている。

全国新酒鑑評会は開催方法に紆余曲折があり、なかなか入賞する型の酒を造るのに苦労したが平成元年遂に金賞受賞の念願を果たした。彼の希望で、ぜひ全社員に記念の金杯をと願われたので、秋田の竹谷貴金属店に依頼し、皆で受賞の慶びを分かち合ったのであった。

販売数量も彼が入社した昭和三十七年に戦前の販売量二千五百石を超えていたが、品質の評価、販売計画、新市場の開拓等が効果を上げ、日本の高度経済成長の波にも乗って飛躍的に業績が伸びていった。彼が退職する平成三年には製造数量で実に380%、販売数量で八千七百石(350%)に達したのである。(四―四先述) 年毎に増える製造量、尻を叩かれるように急ぐ製造設備増設、建物の拡張、(五―六・五―七)蔵人の増員と教育、その大きな変化の中で私の良き相談相手となり製造部門をしっかり支え、先代の「売れる酒を」の付託に応え続けてくれた中野杜氏の功績は計り知れないものがある。

彼は六十才定年にこだわり、会社の強い慰留にも拘わらず平成三年三月後進に道を譲った。退職後は杜氏として他社に移ることもなく、山内村の農協組合長や村会議員などを歴任、社会公共に尽くし、現在横手市山内に健在である。

山の緑は今年も元気です
2009-07-01

山の緑は今年も元気です

代表取締役社長 大井建史

毎年水源探索イベントで立ち寄る「法体の滝」は日本名瀑百選に選ばれている景勝地ですが、今年は「おくりびと」でアカデミー賞を取った滝田洋二郎監督の「釣りキチ三平」の夜泣谷ロケ地としてにぎわっています。

満員御礼

6月6日に第6回の天寿酒蔵寄席を開催いたしました。もちろん今年も圓生の大名跡を継ぐのも近いと言われる三遊亭鳳楽師匠をお迎えすることが出来、席亭を名乗らせて頂いている私も鼻高々でした。その日の落語は「大山詣り」と「文七元結」。いよいよ円熟されてきた師匠の人情話「文七もっとい」は、一時間以上も聴衆を釘付けにされ、独演会ならではの大変な迫力でした。

酒蔵寄席は元々三遊亭鳳楽師匠と日本の酒と食の文化を守る会会長の村田淳一様が、「日本酒の酒蔵に元気になってもらおう」と企画されました。

「落語の三分の一は酒がらみ」と師匠。「酒の文化は酒蔵が有ってこそ」と村田会長。現在全国二十数社で行なわれております。

その中でも天寿の「落語と天寿を楽しむ会」は一から会場設営する蔵のメンバーの頑張りや、社員が手作りする料理に心が篭っていて一番良いと何時も仰って頂き、毎回精一杯の努力をしております私共にとって何よりも嬉しくありがたい言葉です。(何しろお話の上手なお二人ですので…)

来年の開催も5月の29日(土)とお約束頂きました。まだ見ておられない方、すごく損をしてますよ。今から予定に入れてみてください。

全国新酒鑑評会銀賞

今年広島の全国新酒鑑評会には参加できず、6月17日にサンシャインで行われた日本酒フェアで入賞酒を見て参りました。今年も残念ながら銀賞に留まりました。

全体に見て行きますと、一時期より受賞酒にバラエティが出てきた感があり少し安心致しました。かなりの数は、まだ香り高・甘・ニガシブパターンが多かったのですが、飲みやすいキレのあるスッキリタイプも入賞し始め、うちのは何故入らなかったのか悩みつつ、派手な酒の後ろに並び身薄に取られたかな等と想像しつつも、その広がりを嬉しく思いました。

この十年間で金賞3銀賞5空振り2と言う成績です。蔵人全員が一生懸命になっての成績です。これが天寿の酒の良し悪しだとはもちろん思っておりません。しかし、毎年、総力を結集する事。緊張する事。油断しない事。を素直に突っ走れるこの機会は、酒蔵の蔵人の技術レベル維持・向上に大変役に立つ機会だとありがたく思っております。

今年の大吟醸も大変よい出来だと私は思っております。夏の贈答時期がもう直ぐです。

ご用命頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。

天寿の歴史

(六)ー15

杜氏の系譜 ( 11 )

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

佐藤広作杜氏が勇退を申し出たとき、通年・季節労務を問わず後継者とするべき人材が育っていなかったと言うべきか、残念ながら従業員のなかにはいなかった。

五代目永吉は止む無く即戦力となる人を頼むこととし、その当時秋田銘醸株式会社の取締役をしていた縁で、同社取締役で山内杜氏の大先輩高橋菊治氏にお願いし、山内杜氏の中から推薦してもらった人が中野恭一杜氏である。わが社での矢島杜氏はここで切れることになるが、当時県内で行政としても事業として助成し、毎年講習会を開催し技術の向上を図り杜氏を養成している組織は山内杜氏組合しかなかった。

山内(現横手市山内)村史に「山内若勢が酒造業に多く出稼ぎするようになったのは、村に冬季間の働く場所が少なかったこと、農業より酒屋の方が労働条件・賃金がよいこと、それに明治末期から大正にかけて湯沢酒造業の発展期に入り、冬季出稼ぎ者を必要としたためである。大正時代には、山内村の酒造出稼ぎ者が三百人前後いたといわれているが、これが『酒屋若勢』と称されるようになって「山内杜氏」の発生につながった」と記されている。

大正十一年山内杜氏養成組合を結成、講習会規定に従って毎年夏季酒造講習会を開催し、後には杜氏試験を行い杜氏に任用してきた。「山内杜氏組合杜氏試験に関する規定」(昭和三十六年八月一日制定)は杜氏としてその職務を遂行する能力を有するかどうかを判定するため実施するもので、①受験資格は組合員として十年を経たもの。②副杜氏・頭・又は麹師・酛師の経験を有する者。③現職杜氏、二名以上の推選による者。試験委員は仙台国税局鑑定官、秋田県醸造試験場長及び技師、横手税務署関税課長、など十三条からなる権威ある規定である。

彼は県内外の酒造場で十年以上の経験を積み当然杜氏試験の合格者でもあった。前年まで東洋醸造の清酒工場に勤め雇用条件等は良かったと思われるが、高橋菊治氏の勧めで当社に決めたようであった。

当社の造り事情や慣行等に慣れてもらうため三十七酒造年度は頭(かしら‐蔵人の№2)として勤めてもらうこととし、佐藤広作杜氏にはもう一造り頑張って引き継ぎをしてもらうこととしたのである。昭和三十七年十一月一日より勤務、チームではなく彼単独での蔵入りであった。

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