モラル低下が規制の原因?
代表取締役社長 大井建史
世界保健機関(WHO)は総会で酒類の販売や広告を規制する新指針を採択した。指針では「飲酒は世界で年間250万人の死因に関係している」と警告を発し、大量飲酒による健康被害などを防止する上から、販売時間の制限や課税によって価格を引き上げるなどの対応を例示し、各国政府や業界に対応を促している。条約と違って強制力は持たないものの、各国の酒類メーカーは自主規制の強化に乗り出す方針である。採択された新指針の例示として、販売面では、飲食店での飲み放題の制限や小売時間の制限、安売り防止なども掲げられ、居酒屋業界など日本での関係業界への影響も少なくないとみられる。
以上が新聞情報である。10年以上前にタバコの規制強化が始まり「次はお酒にも来る。その防波堤だ」等と嘯いて吸っていたタバコも、喫煙環境のあまりの劣悪さと、何より家族の嫌煙圧力に、二年前の8月6日に禁煙以来10㎏の脂肪が腹に増えてしまった。
私の幸せな時間は、結構女房・子供を眺めながらする晩酌だったりする。最近の業界の悩みは、車の業界と同じで若者の飲酒離れ。日本酒を云々の前にお酒全てを飲まない事だ。
ネットで検索してみると色々な情報があったが、今回の規制の原因は、健康にとって有害という意見もあるが、それ以上に問題になっているのが、飲酒による犯罪の増加による経済損失が無視できない状況になってきているということのようだ。
特にイギリスなどでは、伝統のパブでビールを痛飲した若者が大騒ぎを起こすことが社会問題になっており、ヨーロッパ全体では、飲酒による犯罪、暴動の損失が、年間推計で約1兆2千億~1兆9千億円にも上るという調査もあるとの事。これに端を発し、イギリスでは、政府が「飲み放題」の宣伝や「早飲み競争」の禁止法を検討したり、フランスでは、保険省がワインの健康への有害性を警告し、禁酒キャンペーンを始めたり、イタリアでも、街頭でのアルコール販売を禁止したり、14歳~24歳までの少年や若者を対象に禁酒キャンペーンを展開し、アルコールを辞めれば、賞金や旅行券などを与える報奨制度を設ける計画だという。事の始まりというか、規制に向けて加速し出したのは、1月にWHO(世界保健機関)の執行理事会が「アルコールの有害な使用を減らす世界戦略」を承認したことがアルコール規制への流れになったとの事。(詳しい人がいるものですね。草食系の日本とは随分違います。)だからと言ってこんな理由で規制することになれば、それこそアメリカの禁酒法時代に逆戻り。日本では、若者がお酒をキチンと飲めなくなった本を糺せば、家族で食事をしその場で親が正しい飲み方を見せる事が出来なくなったからだと私は思う。
「やはり、若いうちから周囲の人たちがみんなで協力してマナーの重要性を説いていかない限り、こういう問題は消えないどころか手に負えなくなるんだね。世界を滅ぼすのは、核兵器でも細菌兵器でもなくモラルなのかもしれないな。そして世界中が『夜警国家』に逆戻りするかもね。」とネット上に有ったが、賛成に一票である。
天寿の歴史
補遺―4
補遺―4
藩政末期から
明治の矢島の酒造業(I)
六代目 大井永吉
藩主生駒家の居城矢島は、隣接の六郷家の城下町本荘に反して、郡内では最も積雪、寒冷地帯で鳥海山麓の地勢と気候により良質米を多く産し、また町のいたるところに清澄良質な水が湧出して酒造条件に恵まれ湯沢、六郷、新屋とともに名醸地の一つと称された。
生駒家は讃岐国高松の十七万石から寛永十七年(一六四〇)一万石の堪忍料で矢島に左遷され、従って領域もせまいため酒の需給も必然的に制約をうけていた。
大井傳之丞(屋号大井屋、酒銘「大井川」)・武田佐治右衛門(俗称大武田と称され、酒銘不明)・須貝吉左衛門酒銘「梅之江」)の三軒が藩の御用商人を兼ね、藩政運営の扶けともなっていた。大井屋は我が家の本家で初代永吉が分家した時の当主五代目の幸左衛門の日記(天保年間)が遺存しており、矢島藩財政窮乏の際仕送り金主酒田の巨商本間正五郎に藩の御用金調達の折衝に難儀したあとが窺える。
十代目の大井直之助(矢島町長、秋田県会議員、衆議院議員歴任)が次の如く語っている。
「{酒のさかな}と言われるように魚は酒につきもので、矢島の酒は仁賀保海岸に獲れた魚と共荷して駄馬に積まれ院内銀山に運ばれ販売された。即ち院内銀山の発展とともにその人口は著しく増加し、仁賀保方面の由利海岸で獲れた魚介類は鳥海山麓、由利原高原を経て矢島の魚商に渡され、同町生産の酒とともに馬に荷積みして、笹子(じねご・旧鳥海町)の松の木峠を越えて院内銀山に運び販売された。現今のように自由に生産地以外の他藩に移出が容易に出来なかった時代において、地酒を小藩の矢島領内で売り捌くことは極めて困難であったと思われる。したがってその後院内銀山の衰微とともにやしま酒の販路は狭くなり、同鉱山に近い湯沢の酒造業の中にも廃業したものもあり、私の家でも父の死去と共に明治四十年廃業した。
秋田県は明治四年秋田、本荘、亀田、矢島、岩城の羽後国五県と陸中国江刺県(現鹿角市、郡)の六県を併せて「秋田県」とし、初代権令が任ぜられて県治条例により新しい機構が整えられ、酒造行政事務は、他の国税賦課、収納事務とともに県庁が所管処理した。即ち酒造関係の醸造免許をはじめ監督、検査、取締、賦税、収納の事務一切を大蔵省の指示命達のもとに秋田県庁が所管した。
明治四年七月、太政官布達を以って清酒、濁酒、醤油醸造鑑札収税収与並に「収税方法規則」を制定して従来の株鑑札を廃止し、併せて造石高の制限を解除し、新たに免許料、免許税及び醸造税を併用した。
この税制によって、明暦三年公定されて以来、永年にわたり開業及び造石高を制限してきた制度は廃止されて、開業及び造石高の自由を享受した。これは酒造業界にとっては将に画期的なものであったが、政府としても新たな国是を酒造業者に適用してその発展による財源の涵養を図った歴史的意義をもつものである。(秋田県酒造史本編・矢島町史上巻)
二代目永吉はこうした時代の流れを捉え三年後の明治七年、温めていた濁酒返上、清酒製造の夢を長男与四郎とともに実現したものと思われる。