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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

136回目の酒造り
2009-11-01

136回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

稲刈りも十月の中旬過ぎには終わり、酒蔵には十九日から蔵人が入り始め二十六日に初米研ぎとなります。いよいよ今年も酒蔵に活気が戻ってきました。

長年頭と麹の長を務め、通算45年もの長きにわたって活躍頂いた高橋重美さんが、後継者の成長を確認の上引退を希望。さらにもう一名が市会議員選挙立候補のため急遽転進により、二名の新人が入蔵しました。佐藤次男さんと三浦弘章さんです。偶然ですが私と常務の同級生です。と言う事はあまり若くは無いと言う事ですが、牛乳のメーカーに長年勤め親の為にUターンしたり、弱電企業に長年勤めこの不況時のリストラにあったりの苦労人ですが、二人ともこの際農業を頑張ってみようと挑戦し始めました。この「物を育てよう」と言う気合が蔵人をお願いするのにぴったりだと考えました。

常勤社員の多能力化の試みも本格的に稼動し、いよいよ全員一丸体制の酒造りが本格化してきました。造り酒屋は歴史的に地方の安定企業だったせいか、常勤社員の方が「これまでは感覚」が強く、十年にわたる機構改革(弊社レベルでは気分改革と言った方が適切かも知れません)が難儀な人もいる様です。しかし、良き日本、地方文化・食文化の保存の為にも、是非成し遂げなければいけません。

一九九九年十一月に第一号ですので、この蔵元通信も丸十年を超えました。これは私の社長としての十年と等しく、人の力とは大したものだと言う事や、人生には仕事だけではない色々な事が起き、自分個人の力など知れている事を思い知った十年間でもありました。

昨年来の空前の不況で誰もが大変な世の中になってしまいましたが、清酒業界は空前の和食ブームのお陰で海外にも市場を求め、ワインと並ぶ高いステイタスを築かんと地方中小酒蔵が必死に頑張って来ましたが、昨年の酒造り期間は原油が高騰し、諸々の原価が高騰したにもかかわらず、日本酒の大手企業は益々大容量・低価格へと狂ったように驀進し、まるで日本酒のステイタスを一生懸命下げようとしているかの様に思えてなりません。

日本の良き伝統は、行き過ぎた構造改革・アメリカ型グローバル資本主義・中央の地方への無理解により消滅の危機に直面し、アメリカと同じようにゴーストタウンの誕生が間近になってきた感があります。

新政権は酒と煙草は体に悪いから税金を上げると、知らない内にマニフェストに入れた細かい具体的内容を盾に頑ななようですが、明日をも知れない不安定な情勢の中で、人間関係が希薄になった現在の社会にこそ、飲酒による癒しの効果や人間関係の潤滑油としての役割の大きさを理解してもらいたいものです。そんな事が理解できないから小正月等を無くしても連休にしてしまえば良いと言う事をやってしまうのです。日本的な穏やかな人間関係の中で、コミュニケーション・ツールとして、日本酒の持つ本来の役割を見直し、優しく・粋に世代を超えたつながりを作り上げたいものですね。

天寿の歴史

六)ー17

杜氏の系譜(13)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

中野恭一杜氏が退職するに当たって後任に決めたのは、季節雇用の山内杜氏を新しく頼む方法ではなく、年間雇用の社員の村上嘉夫だった。

村上は隣町の鳥海町出身、昭和三十八年矢島高校を卒業してすぐに製造課に入社しているが、その年の造りから中野杜氏になっているので、やはり何かの縁があったのだろう。

彼は高校時代相撲部の選手で、当時矢島高校相撲部は県下でも上位の実力を誇っていて、彼も活躍した一人だが、相撲で鍛えた無理のきく頑健な体格と温厚で粘り強く誠実な性格を見込んでの事であった。

最初の仕事は検査立会(製造関係の帳簿管理記帳、分析、税務検査立会)であったが、入社の年の造り期間、湯沢の爛漫さんにお願いして造り全般の基礎的なことから特に彼の担当の仕事について研修させて頂いた。このことは彼のその後に大変役に立った事であり、ご指導頂いた技師長谷金弥氏には、後になって彼が杜氏時代も技術指導者の立場からお教えを頂き大変お世話になっている。

彼の仕事は、杜氏の居ない間の夏季の貯蔵酒管理と、壜詰出荷のための原酒の調合と、巾広い分野に及んだが、無難にこなしていった。特に出荷のための調合は酒のきき酒能力が絶対必要だが、彼は天性の優れたものを持っていたと思う。きき酒能力は訓練によってもある程度向上するが、やはり生まれながらのものが大きいと私は思っている。彼は中野杜氏のもと三十年間右肩上がりに増え続ける生産量と、出荷量を事故なく管理し、ブレンドし製品化して天寿の銘柄を維持発展させてきたのである。縁の下の力持的存在であったがその功績は実に大きいものがあった。

さて平成三年六月一日付けで杜氏に就任、造りのほうも一通りの現場は経験しているとはいえ専門の役はこなしていないので、いろいろ心配と苦労はあったと思う。しかし中野杜氏が抜けただけで麹、酒母、蒸し、もろみなどスタッフは全部そのままだったので、計画と進行をキチンとやり、個々の良さを纏め上げる努力をしたのである。ただ大吟醸の仕込みだけは人任せには出来ない腕のみせどころ、夜も休みなく温度管理などに心血を注いでいる様子が伺えた。

努力の甲斐あって、平成三年・四年・八年全国新酒鑑評会で見事に金賞を射止めたのであった。別に全国新酒鑑評会銀賞六回。平成三年・七年、秋田清酒品評会知事賞等秋田県・東北の品評会・鑑評会で天寿の名声を維持した功績は大である。

平成十四年八月に健康上の理由で、残念ながら定年に二年を残して四十年の勤めで後進に道を譲ったのであった。

母なる鳥海山
2009-09-01

母なる鳥海山

代表取締役社長 大井建史

麗峰鳥海山。標高2236m東北第二の高峰。秋田と山形の県境に位置し、太古より信仰の山として開けていました。今年大物忌神社などが国指定の史跡に認定され、その重要性がさらに認められたところです。出羽富士とも呼ばれる秀麗無比なる鳥海山は、その広大な裾野に母なる山の恵みとして、田畑に水を満たし、海でも魚介類へ栄養を与えています。

その登山口にある弊社では、この鳥海山を仕込み水となる伏流水の水源として、その広大さと抜群の環境を体感して頂こうと、この十年間に渡り「水源探索」のイベントをおこなって参りました。二年前には探索コースの元滝と出壺が「平成の名水百選」に認定され、そのすばらしさを証明されました。

元滝は上流に川のない滝で、岩肌から出る滝そのものが鳥海山の湧き水であり、夏でもひんやりとしたその水辺は、オゾン一杯の安らぎの場となっています。また出壺は写真のように突然その場から川が始まり、数多い湧き水の中でも大変大きく毎分七トンの湧水量を誇っています。近辺の湧き水とあわせると毎分百トンにもなる湧水は、導水路を流れダムの無い水力発電を可能とし、横岡第一・第二発電所として、大正・昭和初期から活躍しています。

また、出壺のある獅子ヶ鼻湿原の近くには、昭和初期に作られた日本初の温水路があります。これは、農業用水として使用するために、水深を浅くし川幅を広げ、段を付けて空気を巻き込む事によって温度を上げるための工夫です。これにより、鳥海山の麓に開拓団等の努力で広大な田畑が出来ました。

知れば知る程その恩恵は膨大なものがあります。水力発電と言うと、莫大な予算をかけた広大なダムが思い浮かびますが、こんなにエコな水力発電を聞いた事がありますか? 自然を生かした先人の知恵に畏敬を感じます。

その恩恵で九月十日で創業百三十六年目を迎える弊社ですが、日本酒も考えてみると、とてもエコですよね。地元の農家が冬場の仕事の無いときに酒造りをやる労働力エコ・原料米は地元で調達でき、精米を如何に白くしても糠は飼料、白糠は上新粉ですからお菓子の原料に使われ捨てる部分がありません。おまけに地元資本で給料しか地元に落ちない誘致企業と違って、法人税等全てが地元に還元されます。

地元農家への貢献も大きく、日本の食文化を守り、さらに世界への日本文化のピーアールにも貢献しています。日本酒が売れると、良い事が沢山ありますね。

ミナサン!!是非ご支援ください。

天寿の歴史

(六)ー16

杜氏の系譜(12)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

先号で中野杜氏の蔵入りは単身だったと述べたが、私の記憶違いで実は麹師一人を連れての蔵入りだった。昭和三十八年十月杜氏として蔵入りした時は、麹師、酛師、釜屋(蒸米係)など五人の部下を連れ季節労務のチームとしての蔵入りだった。前年の造りを「頭」として過ごした経験から、地元の蔵人の技量を把握し総合戦力を判断した彼は、杜氏として責任を負うからには自分の手足として働ける、それなりの腕をもった蔵人が必要だったと思われる。特に先代社長から﹇売れる酒を造ってくれ﹈と言われたこともあって、杜氏としての最初の造りには相当の覚悟をもって臨んだようだった。(後日談)

彼は私と同年の昭和六年生まれ、当時三十二才の若さでの杜氏昇進は早いほうだったと思うが、温厚篤実、責任感強くしっかりした性格、当初は地元の蔵人や社員との融和に気を使ったようだ。杜氏には技術的なことに兎角自分の考えを押し通す命令型が多い中で、彼は蔵人個々の良さを引き出し、総合的に力をまとめ上げるという型だったので、部下の信頼も厚く蔵は次第に「和醸良」の良い雰囲気になっていった。

酒屋萬流」というが、天寿酒造に流れる花岡先生の基本的な教え、五代目永吉や佐藤広作前杜氏から受け継いだ良き伝統を守りながら、それまで会得した山内流を加味し、時代の技術を取り入れて品質向上に励み、新しい天寿流を作り上げていったと言えよう。

品評会・鑑評会における成績は、広作杜氏時代から県、東北共毎年のように優等賞を受賞していたが、彼の残した成績もそれを上回る立派なものであった。

彼の最初の造りが評価される三十九年の成績は記録にないが、四十年には秋田県清酒品評会の優等賞の中で特に優れたものに贈られる県知事賞、翌四十一年には連続の知事賞と仙台局優等賞、以後退職する平成三年まで、県の品評会では一回の欠落もなく連続二七回の受賞歴、内、県知事賞七回、仙台局優等賞は十七回受賞の実績を誇っている。

全国新酒鑑評会は開催方法に紆余曲折があり、なかなか入賞する型の酒を造るのに苦労したが平成元年遂に金賞受賞の念願を果たした。彼の希望で、ぜひ全社員に記念の金杯をと願われたので、秋田の竹谷貴金属店に依頼し、皆で受賞の慶びを分かち合ったのであった。

販売数量も彼が入社した昭和三十七年に戦前の販売量二千五百石を超えていたが、品質の評価、販売計画、新市場の開拓等が効果を上げ、日本の高度経済成長の波にも乗って飛躍的に業績が伸びていった。彼が退職する平成三年には製造数量で実に380%、販売数量で八千七百石(350%)に達したのである。(四―四先述) 年毎に増える製造量、尻を叩かれるように急ぐ製造設備増設、建物の拡張、(五―六・五―七)蔵人の増員と教育、その大きな変化の中で私の良き相談相手となり製造部門をしっかり支え、先代の「売れる酒を」の付託に応え続けてくれた中野杜氏の功績は計り知れないものがある。

彼は六十才定年にこだわり、会社の強い慰留にも拘わらず平成三年三月後進に道を譲った。退職後は杜氏として他社に移ることもなく、山内村の農協組合長や村会議員などを歴任、社会公共に尽くし、現在横手市山内に健在である。

山の緑は今年も元気です
2009-07-01

山の緑は今年も元気です

代表取締役社長 大井建史

毎年水源探索イベントで立ち寄る「法体の滝」は日本名瀑百選に選ばれている景勝地ですが、今年は「おくりびと」でアカデミー賞を取った滝田洋二郎監督の「釣りキチ三平」の夜泣谷ロケ地としてにぎわっています。

満員御礼

6月6日に第6回の天寿酒蔵寄席を開催いたしました。もちろん今年も圓生の大名跡を継ぐのも近いと言われる三遊亭鳳楽師匠をお迎えすることが出来、席亭を名乗らせて頂いている私も鼻高々でした。その日の落語は「大山詣り」と「文七元結」。いよいよ円熟されてきた師匠の人情話「文七もっとい」は、一時間以上も聴衆を釘付けにされ、独演会ならではの大変な迫力でした。

酒蔵寄席は元々三遊亭鳳楽師匠と日本の酒と食の文化を守る会会長の村田淳一様が、「日本酒の酒蔵に元気になってもらおう」と企画されました。

「落語の三分の一は酒がらみ」と師匠。「酒の文化は酒蔵が有ってこそ」と村田会長。現在全国二十数社で行なわれております。

その中でも天寿の「落語と天寿を楽しむ会」は一から会場設営する蔵のメンバーの頑張りや、社員が手作りする料理に心が篭っていて一番良いと何時も仰って頂き、毎回精一杯の努力をしております私共にとって何よりも嬉しくありがたい言葉です。(何しろお話の上手なお二人ですので…)

来年の開催も5月の29日(土)とお約束頂きました。まだ見ておられない方、すごく損をしてますよ。今から予定に入れてみてください。

全国新酒鑑評会銀賞

今年広島の全国新酒鑑評会には参加できず、6月17日にサンシャインで行われた日本酒フェアで入賞酒を見て参りました。今年も残念ながら銀賞に留まりました。

全体に見て行きますと、一時期より受賞酒にバラエティが出てきた感があり少し安心致しました。かなりの数は、まだ香り高・甘・ニガシブパターンが多かったのですが、飲みやすいキレのあるスッキリタイプも入賞し始め、うちのは何故入らなかったのか悩みつつ、派手な酒の後ろに並び身薄に取られたかな等と想像しつつも、その広がりを嬉しく思いました。

この十年間で金賞3銀賞5空振り2と言う成績です。蔵人全員が一生懸命になっての成績です。これが天寿の酒の良し悪しだとはもちろん思っておりません。しかし、毎年、総力を結集する事。緊張する事。油断しない事。を素直に突っ走れるこの機会は、酒蔵の蔵人の技術レベル維持・向上に大変役に立つ機会だとありがたく思っております。

今年の大吟醸も大変よい出来だと私は思っております。夏の贈答時期がもう直ぐです。

ご用命頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。

天寿の歴史

(六)ー15

杜氏の系譜 ( 11 )

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

佐藤広作杜氏が勇退を申し出たとき、通年・季節労務を問わず後継者とするべき人材が育っていなかったと言うべきか、残念ながら従業員のなかにはいなかった。

五代目永吉は止む無く即戦力となる人を頼むこととし、その当時秋田銘醸株式会社の取締役をしていた縁で、同社取締役で山内杜氏の大先輩高橋菊治氏にお願いし、山内杜氏の中から推薦してもらった人が中野恭一杜氏である。わが社での矢島杜氏はここで切れることになるが、当時県内で行政としても事業として助成し、毎年講習会を開催し技術の向上を図り杜氏を養成している組織は山内杜氏組合しかなかった。

山内(現横手市山内)村史に「山内若勢が酒造業に多く出稼ぎするようになったのは、村に冬季間の働く場所が少なかったこと、農業より酒屋の方が労働条件・賃金がよいこと、それに明治末期から大正にかけて湯沢酒造業の発展期に入り、冬季出稼ぎ者を必要としたためである。大正時代には、山内村の酒造出稼ぎ者が三百人前後いたといわれているが、これが『酒屋若勢』と称されるようになって「山内杜氏」の発生につながった」と記されている。

大正十一年山内杜氏養成組合を結成、講習会規定に従って毎年夏季酒造講習会を開催し、後には杜氏試験を行い杜氏に任用してきた。「山内杜氏組合杜氏試験に関する規定」(昭和三十六年八月一日制定)は杜氏としてその職務を遂行する能力を有するかどうかを判定するため実施するもので、①受験資格は組合員として十年を経たもの。②副杜氏・頭・又は麹師・酛師の経験を有する者。③現職杜氏、二名以上の推選による者。試験委員は仙台国税局鑑定官、秋田県醸造試験場長及び技師、横手税務署関税課長、など十三条からなる権威ある規定である。

彼は県内外の酒造場で十年以上の経験を積み当然杜氏試験の合格者でもあった。前年まで東洋醸造の清酒工場に勤め雇用条件等は良かったと思われるが、高橋菊治氏の勧めで当社に決めたようであった。

当社の造り事情や慣行等に慣れてもらうため三十七酒造年度は頭(かしら‐蔵人の№2)として勤めてもらうこととし、佐藤広作杜氏にはもう一造り頑張って引き継ぎをしてもらうこととしたのである。昭和三十七年十一月一日より勤務、チームではなく彼単独での蔵入りであった。

矢島の春
2009-05-01

矢島の春

代表取締役社長 大井建史

春は季節の移り変わりが最も鮮烈に感じる季節ですね。雪国だから、酒造りが終わる時期だから、末娘が中学を卒業したから、今桜が散り始めたから特にそう思うのかもしれません。

昨年四月に三女の中学校PTA会長となり、奇しくも私が町教育委員をしていた時に検討が始まった新校舎完成に立ち会う事になりました。

私の生まれた五十年前に建設された地域最古の鉄筋コンクリートの中学校が役目を終え、日本で初めての中高連携校として新校舎が完成しました。連携校は一貫校と違い学校としては別組織ですが、特別教室・体育館・プールなどの施設を共有化し建設経費を下げる。少子化でクラス数の減少による教科担当の欠員の補完に有効と考え、県と市の共同建設として完成しました。鳥海山が全教室から見えるように中学と高校を左右に分け一直線にした為、一階の廊下の長さがなんと二百メートル。雪深い矢島でも冬場のランニングには困らない事でしょう。

この竣工祝賀会の実行委員長を中・高のPTA会長で勤めさせて頂きました。話せば長い話もありますが、県予算と市予算で半分づつ建設すると言うのは実にややこしい事のようです。先ずはさておき目出度いと言う事で記念ラベルを作ってお祝いを致しました。矢島中学校・矢島高校OBの皆様、記念に一組如何でしょうか?新校舎ラベルと開校理念ラベルの二本組セット(税込み・運賃別)二千八百一円ですので是非ご購入下さい。

考えてみると、親が一生懸命頑考えてみると、親が一生懸命頑

矢島中学校も最大七クラス、私の頃は四クラス、現在は一クラスの学年も出始めました。合併後は特に、県や市からの補助金カット続き、部活動も人数確保と予算確保の両方で大変苦労しております。

故郷納税を関東の自治体が反対するなんてとんでもない事だなと思いませんか?東京育ちは二世でも親が育った地域の印象が薄くなり、日本の動きは東京だという思いが強くなります。もちろん正しい点も沢山有りますが、中央だけで日本の全ては成り立ちません。今後の日本の環境・水・エネルギー・食糧・人材確保も含め、無人の廃墟しかない農村部を出さない為にも、過疎地・少子高齢化の先進地に住まう者としては、実力テスト全国一番の実感は何も無く、義務教育の公平性を如何に保つかが極端な少子化の中での焦眉の急で 有ります。

故郷を離れて いらっしゃる方、是非ご一考ください。

天寿の歴史

(六)ー14

杜氏の系譜 ( 10 )

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

佐藤広作杜氏は冬の造りだけの季節労務ではなく、通年勤務の蔵人だった。兵役に就かなかった彼は、戦中の米不足による減石や蔵人の戦時招集による人手不足等困難な時代を乗り切り、戦後の混乱期から発展期には、花岡先生のご指導を活かして「たゆまぬ研究努力と全国品評会優等賞受領をはじめ幾多の表彰を受け銘酒天寿の名声を顕揚した」(退職時の表彰状)。将に天寿酒造を秋田の銘醸蔵として位置づけた功労者であり、五代目永吉の大きな信頼を得ていた。

私が生まれて二才の時から勤務し、小学校一年生の年には杜氏になっていた人である。生い立ちなども知り尽くしていたし、私にとっては家族の一員のような存在だった。私が昭和三十一年帰郷して家業に従事、製造の仕事は分析係から始めたが、造り以外の小さなことでも親切に教えて貰ったものである。

当時は製造数量に規制があった時代で、販売に足りないところは桶買いで補完せざるを得なかった。その未納税酒契約や引取りに後発の我が社は関東一円、また佐渡島までも出かけたが、引き取りは税務署の立合いもあって広作杜氏と二人のことが多く、その旅の思い出や、松尾祭などの酒宴では酒屋唄を若い衆と共に歌い、分家の大叔父国冶が物指を刀の代わりにして舞う剣舞〝川中島〟の詩吟を謡うのが恒例になっていたなど、人間味豊かな面も懐かしく思い出される。

彼は昭和三十九年一月、「四十五年一日の如く職務に精励し」六十一才で高齢を理由に自ら身を引いた。「当酒造場の今日あるはあなたの努力に負う所大なるものがあります、このたび退職するに当り銀杯三つ重ね壱組並に金壱封を贈呈しその功を表彰します」五代目永吉の表彰状の文面である。「良く従業員の和衷協力を計り技術の練磨や能率の増進に努め当工場の進歩発展に尽力されました」。

天寿の歴史に大きな足跡を残し惜しまれて後進に道を譲ったのであった。

お陰さまで有難うございます
2009-03-01

お陰さまで有難うございます

代表取締役社長 大井建史

やはり、気象は異常ですね。14日の蔵開放前夜三時の気温はなんと十四度!!寒仕込みの重要な時期に雨が降り続き、驚いた事に田圃に雪がなくなりました。頑張って施した雪室の彫刻も誠に残念な…担当者が可哀相な状態でした。ところが、翌日の晩から一転して大雪です。爆弾低気圧?本当にいい加減にして欲しいですね。

蔵開放当日の天気予報は「雨」「波浪警報」。準備をしながら戦々恐々としておりました。スタートの状況は想像通り例年より低調。秋田県は地元企業の倒産も多く景気は最悪、天気も最悪…と勝手な思い込みはいけません。本当に有難うございました。私共の蔵開放を中心に、市・観光協会・商工会等の皆さんに色々イベントを共催して頂いた相乗効果か、千六百人を超えるお客様にお越し頂き、これまでの最高記録となりました。

イベント開催中、各担当が対応に困った時の指針となるのは「如何にお客様に喜んで頂くか」でありました。トラブル・クレーム0を目指しておりますが、新幹線の遅れでホテルのバスに乗れなかったお客様、靴を間違えられたお客様等々ご迷惑をお掛けしてしまいました。事後に知り、お会い出来ませんでした私からも心からお詫び申し上げますと共に、担当者の努力に免じ、御寛容頂きました事に心から感謝申し上げます。

スタッフの半分以上がボランティアとして参加して頂いた皆様です。初めて参加された岩田幸子様からこんなメールを頂きました。

「東京より参加し、前日から当日朝にかけて緊張していたのですが、最初のお客様を迎えてからは時が過ぎるのも忘れるほど楽しい一日でした。

私は、「朝しぼり」の販売を担当しましたが、(新企画の為)今年の売れ行き次第で来年への存続が決まると思い、一生懸命に売り上げ貢献に努めたつもりです。出来るだけお客様に話しかけ、笑顔で接しました。中には笑顔で返してくれる方もいて、そんな時は、至上の喜びでした。特に嬉しかったのが、「蔵のお酒を全て飲んだけど、朝しぼりが一番美味しかったので戻ってきました!」と買ってくれた時は、造りに携わっていない私ですが、とても嬉しく、晴れやかな気持ちになりました。

こんな素敵な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。消費者から少しだけ造りの側に近づけた気がしました。今は、あの体験を周りの人へ説明し、自慢しているところです。」(抜粋)

ありがたいかぎりです。この方々がいらっしゃらなければ到底成り立たありがたいかぎりです。この方々がいらっしゃらなければ到底成り立た

昨今の健康志向も勿論理解できます。しかし、子供達を眺めながらの晩酌・友との語らいの酒・寒さの中の燗酒は何物にも変えがたい。

今の厳しい時期に豪華な旅行や買い物は我慢の時でしょうし、カロリーコントロールや翌朝の残存アルコール濃度の心配も重要でしょうが、この時代の今だからこそ「一杯の酒」のくつろぎが大事なのではないでしょうか。

天寿の歴史

(六)ー13

杜氏の系譜 (9)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

『大正十一年湯沢町に県内酒造業者の出資により秋田銘醸株式会社が創立されるに当り、秋田県酒造組合連合会は秋田県技師花岡正庸と謀り、業者の子弟および従業員に対して新醸造技術を習得させて後継者の技術向上養成を図るため、同社が酒造に着手するにあたり同社を県内酒造家の技術研修の場として実地酒造講習会を開催することとした。本講習会に対する業者の関心は高く参加希望者が多く、県内酒造家の推せんによる酒造家の子弟および従業員の中から十二名を選び、大正十一年第一回講習会を開催した。講師として花岡正庸をはじめ、仙台税務監督局技手、池見元一・・・中略・講習終了後受講生は各々の酒造場に戻り講習により習得した新技術により酒造に励んだ。・中略・本講習会は他県に例を見ない極めて意義のあるものとし業界においても高く評価されて受講生の酒造技術の向上にともなう秋田酒の品質向上による業界発展に多大の成果をみた。』(秋田県酒造史・本編

広作さんは昭和七年第十一回杜氏養成講習会に参加している。大正六〜七年ごろから県内各地で酒造従事者への短期夏季講習会は毎年開催されていたが、この講習は実際の造りで、ある程度の期間偉い先生達から指導を受けられたので、受講生は秋田流新技術を習得して各蔵元へ帰り秋田酒のレベルを上げ、〝酒の秋田〞と称される業界発展の基盤を築いたのである。

広作さんの受講記念写真には前列中央に花岡先生の姿があるが、先生には後年試験場長退官後十年間の長きに亘り当社のご指導を頂き、彼も先生の薫陶を受け更に腕を磨くことになるのだが、それは十年も後のことになる〔(四)―3に先述〕

彼は昭和十三年三十五才の若さで杜氏に昇格した。入社後十九年の経験と技術練磨の後であった。当社では初の地元杜彼は昭和十三年三十五才の若さで杜氏に昇格した。入社後十九年の経験と技術練磨の後であった。当社では初の地元杜

新年に思うこと
2009-01-01

新年に思うこと

代表取締役社長 大井建史

明けましておめでとうございます。

秋田は小雪がちらつく程度の穏やかな新春を迎えました。

旧年中のご愛顧を心から感謝申し上げますと共に本年もよろしくお願い申し上げます。

私事ではありますが、いよいよ五十歳となる年が始まりました。修行が足りないからなのは重々承知の上で苦笑気味の「こんちしょう」と言う感じです。

昔お世話になった会社の、新入社員研修で絶叫した青春訓に「青春とは心の様相を言うのだ!!」と言う台詞もありますが、運動能力が極端に落ち、坐骨神経痛に尻を揉んでいると、そんな台詞が少し遠くに聞こえるようで、反射的に自分に鞭を入れようとは思うのですが、ふと、「人間五十年、下天の内をくらぶれば???」等と一度心を落ち着けてみようと言う気になりました。

我家の三姉妹も、短大を卒業した社会人一年生21才・親元を離れて東京暮らしの大学一年生19才・高校受験直前の中学三年生15才となり、小癪ななりふりにむかっ腹を立てながらも、それはそれで可愛いものだという思いと、人として親としての自分の未熟を恥じながらも半世紀を(まだやっとと言う考え方もあります。親の責任もまだ終わっておりません。)生きて来たのだと納得せざるを得ません。 常に将来のためにと先を見つめて挑戦を続けてきました。今をどう生きるかが大事と言いながら、目線が先を見過ぎて来たような気も致します。結果、足元が疎かだった様な気もし、だからこそ一生懸命走り過ぎた日々を懐かしくもいとおしく思うのかもしれません。

家に帰って天寿に入り二十四年目・JCを卒業して十年目・社長になって十年目。日本酒の業界にとっては高度成長期後最も厳しい十年を社長として勤めてまいりました。

社内でも「環境の変化が早いか、会社の変化が早いか競争だ」と日本酒の消費量激減の中、製造・販売体制の組みなおし、設備の向上・省力化、社員の多能化・意識改革。何処まで出来たかは判りませんし足りない所ばかりですが、製造量が三分の一に減少しつつも何とか創業135年を経過し、会長の六代目永吉も昨年喜寿を迎え、十一月には五代目永吉(勲五等瑞宝章)、兄泰蔵(戦死により勲六等瑞宝章)に続き、旭日双光章の栄を賜りました。

七代目予定者に受章の可能性はありませんが、五代目・六代目に負けないように、今年も四股を踏んでがんばります。よろしくお願い申し上げます。

『青春訓』

青春とは・・・

人生のある期間をいうのではない。

人の心の様相をいうのだ。

信念と共に生きるものは若く

疑惑と共に生きるものは老ゆる

自信と共に生きる者は若く

恐怖と共に生きる者は老ゆる

恐怖と共に生きる者は老ゆる

失望と共に老い朽ちる

天寿の歴史

(六)ー12

杜氏の系譜(8)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和十四年七月渡辺謙蔵杜氏の事故死で十四酒造年度の造りは地元の誰かを杜氏にしたのか他所から頼んだが、或いは五代目が自分で指揮を執ったのかいろいろ想像したが、私が物心がついたころからは佐藤広作杜氏だったので、長男の広司さん(若いころ当社に勤務)に賞状とか写真が残っていないか尋ねたところ貴重な資料数点が提供された。

その中の退職時の表彰状によると、大正八年十月、当酒造場に勤務し職務に精励昭和十三年杜氏となり云々とある。と言うことは渡辺謙蔵氏は前年の昭和十三年に既に退職されていたことになる。新屋の酒蔵に手伝いに行っての事故と聞いているがすでに雇用されていた蔵だったとも推測される。

佐藤広作さんは会社と同丁内の矢島町城内八森下の農家の出身である。先述したように当時の蔵人は近くの農家の人々が農閑期の現金収入のための季節労務が殆んどだったが、その勤務振りを見て常勤に採用し優秀な者を選んで杜氏としたが、彼の場合は人物を見込まれて最初から常勤であったようだ。(明治三十六年生・十六才)若くして主要な役に就いていたと思われるものに大正十五年三月(二十三才)の蔵人集合写真(裏に出身地の説明書きあり、何故か杜氏の渡辺謙蔵さんの姿は見えない)に新屋出身者の二名と同じく白衣を着ているものがある。

彼の技術習得は勿論、実地は渡辺杜氏からであるが、大正九年から毎年行われた由利郡酒造講習会で理論を教わったことも大きく役立っていると思われる。

《次号に続く》

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フリーダイヤル:0120-50-3165

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20歳未満のアルコール類の購入や飲酒は法律で禁止されています。