暖冬?の秋田から
代表取締役社長 大井建史
暖冬かと思うと、めったに無いような大寒波が襲ってきて、三十年以上一度も無かった消火栓のポンプが凍り破裂すると言う大変な事件も起きました。(消化ポンプの交換で大変な金額が飛んでいきます・・・)屋根の上も融けたり凍ったりと忙しく、シガもり(融けた雪が凍る事で屋根材の隙間から漏って来る事)の心配や上槽後の生原酒の温度管理、雪室の雪など心配事がドンドン増えてしまいます。
ニ月十三日に今年も酒造開放を実施し、沢山のボランティアの皆さんにご協力を頂き、お陰様で盛会裏に終了する事ができました。当日は1500人を超えるお客様をお迎えする事ができ、心から感謝申し上げます。
伝統産業の後継者として、宝酒造様で営業経験を三年ほど積ませて頂いてから家業に入って二十五年。「いかに良い酒を造るか」という姿勢も、自然にまた色濃く継いでいたようです。社長になる数年前から現在の杜氏である佐藤と原料処理をどうするかを研究し、古から「良い」とされる事を検証し、何を以って「良い」とするかを検討し、改善計画を練り、目標に向かって杜氏氏が改造・実験を繰り返し、その改善への投資・支援を続けて参りました。その結果として原料処理方法や醸造過程も様変わりし、醸造環境・設備もそれに伴って社長継続時とは大きく様変わりしております。
勿論、酒質も変わります。その変化を皆様にお伝えしたくて、蔵元通信を書き始めました。また、蔵開放を拡大イベント化し、駅の市・酒蔵の市・雪室開封イベント、水源探索、天寿を楽しむ会、落語と天寿を楽しむ会、旬どきうまいもの自慢会等々、少しでも多くの方々と触れ合う機会をもうけて参りました。
それでもまだまだ上手くお伝え出来ているとは思っておりませんし、「良いものさえ造っていれば、判って貰える筈」と何処かで考えている自分がいます。造る事には熱心であっても、造った物をさらに多くの人にお伝えし、飲んで頂くところまでのプロデュースにもっと力を注ぐべきなのは頭では判っているつもりなのですが。
ドラマを見て読み返した司馬遼太郎の坂の上の雲ニ巻で、秋山真之の「たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、艦底にかきがらがいっぱいくっいて船足がうんとおちる。人間も同じで、経験は必要じゃが、経験によって増える知恵と同じ分量だけのかきがらが頭につく。知恵だけ採ってかきがらだけ捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれが出来ぬ。」と言う台詞がありました。ガツンと言う音と警戒警報が頭のなかで鳴りました。人間の思考は何時どの様に変わるかなど判りませんが、この頃はテレビを見ていても涙腺がやたらと緩く具合が悪いのです。ふと思うと、自分が親の目線で我が子に置き換え、スポーツやドラマを見るから応援して?健気で?なだはなたらして(秋田弁で涙・鼻水をながしながら)見ている自分を発見してしまうのです。
何時から自分を主人公に見立てなくなったのでしょう?勿論年相応に考える部分や二十年前との身体能力の違いの大きさに意気消沈してしまう部分もありますが・・・。
思考は迷走しますが「まだまだ若いもんには負けません。」(遂にこの台詞を!!)
今年も佳い酒がどんどん搾られています。ご期待ください。
天寿の歴史
補遺―2
補遺―2 清酒醸造免許取得
補遺―2 取締役
六代目 大井 永吉
明治七年八月十三日日付の申請書に八月十五日の戸長(今の町・村長)の奥印(証印)を貰い届出、九月十日には聞き届けられている。
書面清酒稼営業願之趣聞届、鑑札下ヶ渡候条請取方追而可申出、其節免許料金拾円上納可致事
明治七年九月十日
秋田県権令 国司仙吉代理
秋田県参事 加藤祖一 ㊞
願いを聞き届け鑑札を下げ渡すから上納金十円を納めよとのお達しである。醸造願を提出してから約一ヶ月で許可が下りているが、恐らく事前にいろいろ準備があってのことであろう。現在では殆ど自由化されている小売免許でも審査期間にニヶ月もかかると言われている。製造免許となれば製造場を始め、麹室、仕込み桶などそれなりの製造設備が整っていなければならないので、相当の準備期間が必要な筈である。その点当時ニ代目は麹と濁酒を営んでいたので、麹室などの設備は清酒に転用できたのであろう。土蔵造りの観音開きと漆喰の引き戸、その内戸の格子戸のみが残る今も[一号機]と名付けている蔵は、棟木に明治七年甲戌とあったので、清酒醸造のために建てた土蔵だったことが判る。下に三代目と横書きし大井永吉、同与四郎と並べて縦書き下には造之とあり、三代目と記したのは、明治十四年には清酒醸造引継営業願を出している一人前となった後継者の与四郎を立てての事だったと思われ、温かい親心が偲ばれる。
また前準備の一つとして濁酒醸造廃業願がある。
濁酒醸造廃業罷在候処、今般廃業支度,依之御鑑札返上仕候間、此段奉願候、以上
秋田県管下商
第四大区三小区
羽後国由利郡城内村弐百
壱十弐番屋敷居住
大井永吉㊞
明治七年九月7日
秋田県権令 国司仙吉殿
右之通相違無之、依而奥仕候
戸長 菅原景就㊞
九月十二日には聞届候事の認可が下りている。単に濁酒を止めて清酒一本に絞りたかったのか、止めることが免許要件だったのか不明だが、同時認可になっている。
家業として初代永吉が麹と濁酒を商っていたが、何時から始めたのか不明である。分家してから清酒醸造を始める明治七年までは四十四年、二代目が婿入りしてからも二十五年なので少なくとも三十年にはなるかも知れない。しかし当社は確実に清酒醸造の免許を得た明治七年九月十日の通達の日を以って創業の日と定めているのである。