伝統
代表取締役社長 大井建史
「伝統の~」とよく使われるが、最近は特に急速に消えていっていないだろうか?消えてしまえばそれらは二度と戻らないものが多い。私の母校には全校応援歌練習があり、新入生はその迫力に震えながら、応援歌や各部歌を必死に覚え、伝統と言う言葉の最初の洗礼を受けたものだ。我が剣道部には「朝夕振う興安の 剣はついに肉きざみ 血を盛るかめは枯れ果てて 虚栄ふはくの水注ぎ~」と古色蒼然とした部歌を試合前最終練習後に道場で円陣を組み、斉唱してから出陣?していたのだが、今はかろうじて応援歌練習は残っているものの、各部歌の練習は無くなり、剣道部員さえ部歌を知らないと言う嘆かわしい現状である。誇るべき全国最多優勝校として開催していた「全校ボート大会」も今は行われていないとの事。「なんと嘆かわしい事か」等と突然言い始めると、あいつも年をとったなと言われそうであるが、運動会も学年が始まった途端、最短時間で行われ、あれもこれもが「時間が無い!!」と言う理由でカットされている様だが、はたして「本当か?」と言いたい。受験の為と言えばそれが全て錦の御旗と振り回してしまうのは如何なものか。夏休みまで補習で休み無しなのに、何処の学校に入っても一緒の様な高校生活を強要するだけで良いものだろうか?野球が勝った時だけ何が何でも全校応援と言うのも却って不思議である。
もちろん古い行事を昔のまま全てやればよいと言っているのではない。時代に合わせて変える所は変えると言うのも重要なこと。しかし、守るべきもの・変えるべきものを明確に選定し、一生の誇り・糧となるべき事(精神)を伝統の名の下にきっちり守ってもらいたい。「時間が足りない!!」だけで無残なものにして貰いたくは無いものだ。
旧矢島藩のおがはん言葉(奥様言葉)は私の幼い頃の記憶に残っている。「さようでござりゃんすか」と非常に上品で独特のイントネーションのひたすら優しい言葉として残っているが、五代目妹の大叔母達を最後に聞くことが出来なくなってしまった。
「国酒」を醸す造り酒屋もそういう意味では、日本という国に、又、その地域に残さなければならないものであると信じている。それらは、もちろん博物館に飾られるものとしてではなく、その地域の文化と共に実生活に密着しながら、米農家と共栄していかなければならないものと考えている。
九月には137年目に入る天寿酒造である。「積善の家に必ず余慶あり」「運・鈍・根」等々伝統とすべき言葉もある。また、長年自分を育ててくれた、家風・社風・親の教え・先輩の教えもある。今を担う我々が我が社(家)の伝統を目標として進み、体現すべく努力を怠らず、次の世代の伝統として残して行きたいものだと思う。
天寿の歴史
補遺―5
補遺―5
二代目永吉についての逸話
六代目 大井永吉
二代目永吉は糀と濁酒の生業から清酒製造の事業へと転進発展させた人だから、進取の気性を持ち、戊辰戦争の動乱期をじっと耐え、新政府による諸制度の生まれ変わりを素早く捉えて免許を得るなど時代を読む力や、家老格の佐藤三平に出入りを許され、八森城のお堀から製造場への入れ水を許可されるなど、社交性と政治力も併せもった人物だった。更には信仰心の篤い人だったと思われる逸話がある。
我が家の菩提寺は矢島町の正明山寿慶寺(法華宗)である。開創は寛永四年(一六二七)生駒氏の前の領主打越左近将監盛昌が、法華堂を建立したことに遡る。寛文十二年(一六七二)に矢島藩主二代・生駒左近尉高清の家老市橋定右衛門尉は、内室(三代目藩主生駒親興の従姉)の菩提を弔うため法華堂を再興。内室の法名「高松院寿慶日喜大姉」をもって、寺号を「寿慶寺」とした。元禄十五年(一七〇二)には大本山本能寺(京都市)、大本山本興寺(尼崎市)より正式に寿慶寺開創の許しを得、本能寺役者の好善院日行上人が開祖となった。この時、矢島藩主三代・生駒親興より寺領と扶持を寄進された。(寿慶寺開創縁起)
慶応四年(一八六八)に起こった戊辰戦争では、寿慶寺は矢島藩の陣所となる。市中と街道を一望できる高台である境内地が、陣所として格好の場所であったのだ。激しい戦火によって本堂は全焼したが、三十番神堂は辛くも類焼を免れた。
この合戦の最中に、時の住職・十三世妙寿院日侃上人は、戦火を潜り抜けて、三宝尊、日蓮聖人像等をはじめ、過去帳、古文書類を運びだしたと伝えられている。その諸尊像は今も大切に須弥壇に祀られている。(第二十世佐々木正純現住職)
『戊辰戦争の際に持ち去られたと考えられていた什宝・妙法蓮華経八巻が昭和六十一年(一九八六)に、百十八年ぶりに寿慶寺のもとに還るという出来ごとがあった。昭和十年(一九三五)に、山形県遊佐町の本願寺(浄土宗)に、この妙法蓮華経が寄贈されたのだという。本願寺に寄贈されるまでの経緯は不明であったが、本願寺側が寿慶寺に返却を希望していることから、地元の郷土史家が尽力し、百十八年ぶりの帰山が叶ったのであった。この妙法蓮華経八巻は、第三世詮明院日恵上人が享保二十年(一七三五)に求めた。その後第十二世大円院日萬上人が経巻を入れる箱を求め、文久二年(一八六二)には、檀家の大井永吉氏が錦の表具を寄付したと第一巻に記述されている。』
この逸話は以前秋田魁新報にも「還ってきた法華経」の見出しで掲載されている。
矢島町の歴史の移り変わりに関わりをもつ寿慶寺。そこに代々檀家総代として我が家も歴史の歩みに係わってきたのである。