136回目の酒造り
代表取締役社長 大井建史
稲刈りも十月の中旬過ぎには終わり、酒蔵には十九日から蔵人が入り始め二十六日に初米研ぎとなります。いよいよ今年も酒蔵に活気が戻ってきました。
長年頭と麹の長を務め、通算45年もの長きにわたって活躍頂いた高橋重美さんが、後継者の成長を確認の上引退を希望。さらにもう一名が市会議員選挙立候補のため急遽転進により、二名の新人が入蔵しました。佐藤次男さんと三浦弘章さんです。偶然ですが私と常務の同級生です。と言う事はあまり若くは無いと言う事ですが、牛乳のメーカーに長年勤め親の為にUターンしたり、弱電企業に長年勤めこの不況時のリストラにあったりの苦労人ですが、二人ともこの際農業を頑張ってみようと挑戦し始めました。この「物を育てよう」と言う気合が蔵人をお願いするのにぴったりだと考えました。
常勤社員の多能力化の試みも本格的に稼動し、いよいよ全員一丸体制の酒造りが本格化してきました。造り酒屋は歴史的に地方の安定企業だったせいか、常勤社員の方が「これまでは感覚」が強く、十年にわたる機構改革(弊社レベルでは気分改革と言った方が適切かも知れません)が難儀な人もいる様です。しかし、良き日本、地方文化・食文化の保存の為にも、是非成し遂げなければいけません。
一九九九年十一月に第一号ですので、この蔵元通信も丸十年を超えました。これは私の社長としての十年と等しく、人の力とは大したものだと言う事や、人生には仕事だけではない色々な事が起き、自分個人の力など知れている事を思い知った十年間でもありました。
昨年来の空前の不況で誰もが大変な世の中になってしまいましたが、清酒業界は空前の和食ブームのお陰で海外にも市場を求め、ワインと並ぶ高いステイタスを築かんと地方中小酒蔵が必死に頑張って来ましたが、昨年の酒造り期間は原油が高騰し、諸々の原価が高騰したにもかかわらず、日本酒の大手企業は益々大容量・低価格へと狂ったように驀進し、まるで日本酒のステイタスを一生懸命下げようとしているかの様に思えてなりません。
日本の良き伝統は、行き過ぎた構造改革・アメリカ型グローバル資本主義・中央の地方への無理解により消滅の危機に直面し、アメリカと同じようにゴーストタウンの誕生が間近になってきた感があります。
新政権は酒と煙草は体に悪いから税金を上げると、知らない内にマニフェストに入れた細かい具体的内容を盾に頑ななようですが、明日をも知れない不安定な情勢の中で、人間関係が希薄になった現在の社会にこそ、飲酒による癒しの効果や人間関係の潤滑油としての役割の大きさを理解してもらいたいものです。そんな事が理解できないから小正月等を無くしても連休にしてしまえば良いと言う事をやってしまうのです。日本的な穏やかな人間関係の中で、コミュニケーション・ツールとして、日本酒の持つ本来の役割を見直し、優しく・粋に世代を超えたつながりを作り上げたいものですね。
天寿の歴史
六)ー17
杜氏の系譜(13)
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
中野恭一杜氏が退職するに当たって後任に決めたのは、季節雇用の山内杜氏を新しく頼む方法ではなく、年間雇用の社員の村上嘉夫だった。
村上は隣町の鳥海町出身、昭和三十八年矢島高校を卒業してすぐに製造課に入社しているが、その年の造りから中野杜氏になっているので、やはり何かの縁があったのだろう。
彼は高校時代相撲部の選手で、当時矢島高校相撲部は県下でも上位の実力を誇っていて、彼も活躍した一人だが、相撲で鍛えた無理のきく頑健な体格と温厚で粘り強く誠実な性格を見込んでの事であった。
最初の仕事は検査立会(製造関係の帳簿管理記帳、分析、税務検査立会)であったが、入社の年の造り期間、湯沢の爛漫さんにお願いして造り全般の基礎的なことから特に彼の担当の仕事について研修させて頂いた。このことは彼のその後に大変役に立った事であり、ご指導頂いた技師長谷金弥氏には、後になって彼が杜氏時代も技術指導者の立場からお教えを頂き大変お世話になっている。
彼の仕事は、杜氏の居ない間の夏季の貯蔵酒管理と、壜詰出荷のための原酒の調合と、巾広い分野に及んだが、無難にこなしていった。特に出荷のための調合は酒のきき酒能力が絶対必要だが、彼は天性の優れたものを持っていたと思う。きき酒能力は訓練によってもある程度向上するが、やはり生まれながらのものが大きいと私は思っている。彼は中野杜氏のもと三十年間右肩上がりに増え続ける生産量と、出荷量を事故なく管理し、ブレンドし製品化して天寿の銘柄を維持発展させてきたのである。縁の下の力持的存在であったがその功績は実に大きいものがあった。
さて平成三年六月一日付けで杜氏に就任、造りのほうも一通りの現場は経験しているとはいえ専門の役はこなしていないので、いろいろ心配と苦労はあったと思う。しかし中野杜氏が抜けただけで麹、酒母、蒸し、もろみなどスタッフは全部そのままだったので、計画と進行をキチンとやり、個々の良さを纏め上げる努力をしたのである。ただ大吟醸の仕込みだけは人任せには出来ない腕のみせどころ、夜も休みなく温度管理などに心血を注いでいる様子が伺えた。
努力の甲斐あって、平成三年・四年・八年全国新酒鑑評会で見事に金賞を射止めたのであった。別に全国新酒鑑評会銀賞六回。平成三年・七年、秋田清酒品評会知事賞等秋田県・東北の品評会・鑑評会で天寿の名声を維持した功績は大である。
平成十四年八月に健康上の理由で、残念ながら定年に二年を残して四十年の勤めで後進に道を譲ったのであった。