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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

原料米事情
2013-05-01

原料米事情

代表取締役社長 大井建史

今年は四月十五日に皆造となり、十九日には蔵人が家路につきました。

昨年より9本増の酒造りでしたが、前にお話ししました様に高温障害のため溶けない米に悩まされる非常に難しい酒造りの年でした。それでも蔵人が一丸となって一関新杜氏を盛り立て、杜氏もその責任を全うしようと立派な酒造りをしてくれました。

今期の新酒生酒商品も、お陰様で全て前年を超える出荷量で一安心ではありますが、純米大吟醸鳥海山をはじめ、清澄辛口本醸造鳥海山・純米酒・本醸造・精撰等早くも新酒へ切り替えた商品が出てしまい、昨年・今年の原料米不足も深刻になって参りました。

昨年までは、放射能問題や天候不順によるものと考えておりましたが、政府や酒造組合中央会で手配する加工用の米の集荷が非常に悪く、当てにならなくなったと思います。県によっては予定の20%しか集荷できないなど、唖然とする数字が出てきます。一昨年は政府の備蓄米を充てましたが、今度は放出した備蓄米の補充をしようと高値を付け国内の米の値段が上がると言う悪循環になってきました。

現在秋田県酒造組合の原料米対策委員長として原料米確保や品質向上に係わっていますので、値段もさることながら量が足りない事は大問題です。天寿では、JA新あきたと契約している地域流通米、JAこまち(湯沢酒米研究会)の美山錦・酒こまち、兵庫県みのり農協と契約しているあきた村の山田錦、そして、天寿酒米研究会の酒造好適米を使用しておりますが、現在増産の話はかなり厳しくなっております。これには長年にわたる減反政策による農業従事者の意欲の減退・高齢化・後継者不足等が一挙に表面化して来た様な怖さを感じます。

それなのに減反政策はそのまま継続、現況が見えていないのか米が足りない今も備蓄米買い上げへの執着を改めない政府は無策と言わざるを得ないのでは無いでしょうか?

これまで東京は地方が育てた優秀な人材を吸い込む事で発展して来ましたが、地方の営みを知らない役人や国会議員が多くなりすぎるのも地方衰退の原因になるでしょうし、地方の衰退した東京もまた活力が急激に落ちるのではないでしょうか?

日本酒の業界は長年値上げをしておりません。これは長期にわたる売り上げ不振の弱気と米価の下落による原価低減のお蔭でした。しかし、加工用の玄米でさえ過去二年で一俵(60㎏)3,000円上がり来年は少なくとも2,000円は上がる事が確定しています。三年で一俵5,000円の値上げ・電気・重油の値上げに加え、アベノミクスのインフレ狙いに日本酒業界は耐えられないのではないかと考えます。

定価販売をやらない大手・低価格蔵以外では、値上げの話が出てきており佐賀県では既に値上げを実施いたしました。値上げが有るとすればこれまでの大手主導型から地方酒蔵主導型になるのではと考えます。

弊社もコストアップと高温障害原料米の酒化率の悪化に溜息をついているところです。

天寿の歴史

補遺―21

補遺―21

明治十四年・十六年

六代目 大井永吉

明治十四年九月三十日、醸造見込み届と同時に「引き継ぎ営業願」(営業税三拾円)を大井与四郎名で出している。此の年から醸造と経営は長男与四郎の手に移り、二代目永吉は隠居している。与四郎は二十六才、既に二男一女の父親であった。

当時、厳しいことに、酒造のための他所からの住込み雇人は警察に届が必要だったことが分かる。

明治十六年には「酒造関係建物書き上げ」という極簡単な図面と「酒造諸器械調」を提出している。

酒 造 見 込 石 御 届

一 玄米百二十石

白米百八石 但、玄米一石

ニ付一割減

此清酒百弐拾石

内  新酒弐拾石

夏酒百石

右者、明治十四年十月ヨリ来ル明治十五年マテ一期醸造見込石相違無之、依而此段御届申上候也、

由利郡城内村 大井与四郎㊞

明治十四年九月三十日

由利郡長  蒔田広隆殿

前書之通相違無之、依而奥印仕候

戸長代理

筆者 佐藤昇三郎㊞

(朱書)

「書面届出之趣聞置候事」

明治十四年九月三十日

秋田県由利郡長 蒔田広隆㊞

清 酒 醸 造 引 継 営 業 願

清酒醸造引継仕度奉存候間御許可相成度、依之営業税金三拾円並ニ見込石書・醸造方法書相添、此段奉願候也、

由利郡城内村 大井与四郎㊞

明治十四年九月三十日

由利郡長 蒔田広隆殿

前書之通相違無之、依而奥印仕候

戸長代理

筆者 佐藤昇三郎㊞

(朱書)

「書面願之趣聞届候事」

明治十四年九月三十日

秋田県由利郡長 蒔田広隆㊞

臨 時 止 宿 御 届

秋田県羽後国平鹿郡沼館村

塩田利吉

当三十三年

妻 オリエ

当弐十六年

右者、本日五日私方ニ於テ酒造為致度、臨時止宿為致候間、此段御届申上候、以上

由利郡城内村

明治十四年十二月六日

大井与四郎㊞

矢島警察分署 御中

酒 造 関 係 建 物 書 上

天寿の歴史(五)ー4前出に付き省略

酒 造 諸 器 械 調

一酒槽   壱個

一枠    ナシ

一男柱   壱本

一締メ木  壱本

一掛ケ袋  百五拾箇

一タリ桶  弐箇

一蒸酒器  壱組

一磑    ナシ

一甑    弐箇

一層枠   五箇

一蒸釜   弐箇

一半切   四拾弐箇

一試シ桶  四箇

一桃桶   八箇

一担桶   八箇

一柄杓   ナシ

一麹板   百五拾枚

一碓    ナシ

右ハ、酒造ニ属スル諸器械即今処持之分書面ニ相違無之候、尤、以後増減在之節者其段々御届可仕候也、

明治十六年十月

由利郡城内村酒造営業人

大井与四郎

右戸長 竹村秀高

秋田県由利郡  酒造検査官

純米大吟醸「鳥海山」
2013-03-01

純米大吟醸「鳥海山」

代表取締役社長 大井建史

品切れ中の純米大吟醸「鳥海山」ですが、昨年は私共の予想を遥かに超えるご購入を賜り、誠にありがとうございました。6月から出荷調整に入り、新規取引の抑制や蔵元直売を停止等、皆様には大変ご迷惑をお掛けしながらも、ご理解をお願いして参りました。

今期は原料米の不作・不足・高値、重油の高騰、大雪等不安要素はありながらも酒造りは順調に推移し、活気に充ちた蔵内では次々と新酒が生まれて来ております。

純米大吟醸「鳥海山」の最初の仕込みも12月に上槽・瓶詰・瓶火入れをし、暫くの鎮静・熟成期間を置かせて頂きましたが、いよいよ3月4日(月)より新酒を出荷させて頂きます。

1月出荷の見通しが大幅に遅くなり品切れ期間が長くなってしまいました。品質確保の為の選択ですので、ご容赦くださいます様お願い申し上げ、重ねて新酒の出来栄えにご期待下さいます様お願い申し上げます。

蔵開放御礼

蔵開放イベントには、今年も1500人を越える多くの方々にご来場頂き、誠にありがとうございました。ボランティアスタッフには36名ものご参加を頂き、内13名は初めての方と言う事で、会場にも新たな雰囲気が生まれ、打ち上げも盛り上がって楽しく過ごす事が出来ました。ご協力頂いた皆様に改めて篤く御礼申し上げます。

天寿の酒蔵に親しみを持って頂こうと2000年から開始したイベントも皆様のご参加により14回を数えるまでになりました。青団連や商工会・観光協会からの共催の申し入れにより矢島雪祭りに成長した事は、私共としても些かばかり地域おこしにも貢献出来たと喜んでいる次第です。

喉もと過ぎれば

それにしても、良く雪が降ります。そこに数年ぶりの大寒波。秋田県は秋田市以北の積雪量が観測史上最高と言っております。

こんな時に灯油・ガソリン・重油が値上がりし、電気も値上げが決まり、雪国には重い話です。

私は東日本大震災後の3月15日の暗くて薄寒く食料品がほとんど無い羽田空港を覚えていますが、現在は旅客が暑くてコートを手に持っていても汗をかき、店舗の店員は半袖ミニスカート。節電が重要な我国の現状の中、地方からの送電で成り立っている東京の公共機関である空港が、真冬なのにそんな店員の服装に合わせた温度に暖房しているのはいかがなものか、と考えるのは私だけなのでしょうか?

天寿の歴史

補遺―20

補遺―20

明治十二年~十三年

六代目 大井永吉

明治十二年六月に地方税の内営業願というものを出しているが、酒類以外の麹などを小売するのに郡長の免許が必要だったようだ。翌十三年には清酒仕込用麹に残余が出たから売りたいと検査願をだしている。味噌も小売りしていた事が記されている。明治十二年の醸造見込み届は百三十石に増やされている。

地 方 税 之 内 営 業 願

今般甲第八十五号御達ニ基キ、別紙種目之通営業仕度候間、御届被成下度奉願候也、

明治十二年六月

由利郡城内村百七番

大井永吉㊞

由利郡長  御代信也殿

(朱書)

明治十二年六月十一日免許㊞

売 捌 高 書 上

一金百四拾壱円也

金九拾円也    麹小売高

金弐拾壱円也   醔麹小売高

金参拾円也    味噌小売高

右者、明治十一年壱ヶ年間売捌ニ而、書面之通相違無之候也、

明治十二年六月

由利郡城内村百七番地

大井永吉㊞

由利郡長  御代信也殿

清 酒 醸 造 見 込 石 御 届

玄米  百参拾石

此製酒百弐拾石

玄米  三拾石

此新酒三拾石

玄米  百石

此夏酒九拾石

右者、本年十月ヨリ十三年九月迄醸造見込石相違無之、依而此段御届致候也、

明治十二年十月

由利郡城内村

大井永吉㊞

由利郡長  御代信也殿

前書之通相違無之、依而此段御届致候也

戸長 石川勝良㊞

(朱書)

「書面届出之趣聞置候事、」

明治十二年十月十八日

秋田県由利郡長

御代信也代理

秋田県由利郡書記 坂本忠助㊞

売 却 用 秋 麹 検 査 願

一醔麹三斗壱升五合

右者、清酒醸造仕込用之内残余相成候間、売元ヘ相回度、依而御検査被下度候也、

明治十三年三月 日

由利郡城内村

大井永吉㊞

秋田県御傭  西宮恒雄殿

搾 器 封 印 請 書

(朱書)

「十三年三月三一日 開封㊞」

一搾器械御封印   四ケ処㊞

右之通本日御封印相請候ニ相違無之候也、

明治十三年二月十九日

由利郡城内村百七番地

大井永吉㊞

秋田県御傭  西宮恒雄殿

御 請 書

搾器械

御封印      四ケ処㊞

右之通本日御封印相請候ニ相違無之候也、

明治十三年五月十弐日

由利郡城内村

大井永吉㊞

秋田県租税課御傭

西宮恒雄殿

創業百四十周年を迎えます
2013-01-01

創業百四十周年を迎えます

代表取締役社長 大井建史

明けましておめでとうございます。

旧年中は格別のお引き立てを賜り心から御礼申し上げます。

矢島の里は雪の降り始めの量にも驚きましたが、正月休み中の天気も寒波が来て毎日家内と雪寄せしながらのお正月でした。皆様はいかがお過ごしでしたでしょうか?

昨年の十月から事務所の改築工事に入りました。今年九月に創業百四十周年を迎えるにあたり、事務所の外壁の補修を兼ねて外観を変え、天寿のお酒により楽しんでふれて頂けるよう新たな空間を目指して、常設試飲場を併設いたしました。天井には創業期に建てた二号三号蔵の太い棟を六代目が製材所に持ち込み、棟書き部分のみ板に挽いて残してあったものを展示いたしました。

酒造りの方は一関陽介杜氏のもと、高温障害の困難な原料米にもかかわらず、一昨年の同様の経験が物を言い、また、酒米研究会内で暑かった出穂後に水を当てる事が出来た田圃を調査し、生産者毎に細やかに対応が出来ました。さらに昨年の二名に加え若手の蔵人が一名加わり、蔵の中が一挙に若返った感があり、元気に明るく頑張っております。

緊張しながらの酒造りの毎日ですが、新酒の評価を頂くにつれ、若干の安堵と品質への確信を深めてきたところです。

昨年も純米大吟醸鳥海山が「ワイングラスでおいしい日本酒アワード・最高金賞」「全米日本酒歓評会・金賞」、燗上がり純米酒が「燗酒コンクールぬる燗部門・最高金賞」受賞等大きな評価を頂きました。

伝統を守りつつ更なる向上を目指し邁進して参ります。

本年も変わらぬご愛顧の程お願い申し上げます。

天寿の歴史

補遺―19

補遺―19

明治十二年―其の二

六代目 大井永吉

搾器械に関する届が多く出されている。搾器械とは木製の箱状で酒袋に醪を注いだものを積み重ね上から圧をかけて搾る酒槽(さかふね)のことで、以前は天秤式で大きな石を錘にして圧搾していた。時代と共に仕込の大きさに従い槽の大きさも変わり、圧搾も油圧式となり、現在は自動圧搾機に進化している。当時、酒造期以外は封印され、造りが始まると使用に先立ち開封許可が必要だったようだ。寸法、容量も検定を受けなければ使用できなかった。課税が造石税だったので製造石数には厳しかったと思われる。

清酒掛槽明細御届

清酒掛槽壱個

巾  二尺九寸

長サ 四尺九寸五分

深サ 二尺七寸五分

此入石六石八升九合

此掛石五石五斗

此滴石四石壱斗八升五合

右之通相違無御座候、  以上

秋田県由利郡城内村百七番地

明治十二年三月    大井永吉㊞

秋田県令  石田英吉殿

搾器械枠新調御届

長サ 四尺八寸八分

一枠 巾  二尺八寸八分 壱個

深サ 八寸七分

右新調仕候間此の段御届申し上げ候、            以上

明治十二年三月 由利郡城内村

大井永吉㊞

由利郡出張官

秋田県等外三等出仕 井上金吾殿

御 請 書

搾器械御封印    三ケ処㊞

(別筆)

「明治十二年十一月廿九日 開封㊞

秋田県九等属 熊谷 直諒㊞」

右之通本日御封印相請候、相違無御座候、依而此段御請仕候也

明治十二年四月廿九日

羽後国由利郡城内村百七番地

大井永吉㊞

秋田県出張官 林 金吾殿

搾器械封緘破裂ニ付御検査願

本年五月中由利郡出張官林金吾殿夏酒御検査之末搾器械御封印相成候処、本日十五日醸造場取片付之際誤テ女種之封緘破裂仕、其疏漏之段恐入候、此旨村役場江モ御届致置候、依之、奉願候モ恐縮之至ニ候得共、何卒特別之御詮議ヲ以速ニ御検査被成下度此段奉願候、 以上

明治十二年十月 由利郡城内村

大井永吉㊞

秋田県令 石田英吉代理

秋田県小書記官 小野修一郎殿

書面之通相違之無、依而奥印仕候、

戸長 石川勝良㊞

(朱書)

「書面願之趣聞届、不日官員出張令検査候事、」

明治十二年十月廿七日

秋田県令 石田英吉代理

秋田県小書記官  小野修一郎㊞

一三九回目の酒造り
2012-11-01

一三九回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

地元の八朔祭りが終わっても暑い日が続き、秋が中々来ないと思っておりましたが、一関新杜氏と酒造計画の話をしていたら、あっという間に稲刈りが終わり天寿一三九回目の酒造りが始まりました。

私が社長になって14年目。来年の九月には創業百四十周年を迎えます。

毎年酒質の向上を図って来た事は、これまで何度もお話をさせて頂きました。契約栽培した酒造好適米、全ての商品の造りを見直し、必要な物はビン燗火入れ・冷蔵ビン貯蔵を行い、丁寧な精米、正確な手洗い洗米、目標水分との誤差が0・01%以下の蒸米等間違いの無い正確な原料処理を行うことにより、地元で最もご愛飲頂いている「精撰」も値上げの出来ない市況の中で、糖類不使用など完全に一皮向けた上質化を成し遂げました。

お陰様で今年も純米大吟醸鳥海山は「ワイングラスでおいしい日本酒アワード」最高金賞・「全米日本酒歓評会」金賞・「IWC」銀賞。大吟醸鳥海は「ワイングラスでおいしい日本酒アワード」金賞。天寿燗上がり純米酒は「燗酒コンテスト」ぬる燗部門最高金賞など沢山の賞を頂く事が出来、大変嬉しく思っています。

さて、今年の県産米は残念ながら期待ほど収量は無く、出穂後の積算温度が一〇〇〇度を遥かに超え、心配された高温障害も出て割れやすく味が乗り辛い米です。

その様な状況ではありますが、10月15日から蔵人が入り始め、22日には全員入蔵し全力の清掃に入り、26日には予定通り初蒸しを行いました。

百四十周年を迎える酒が初挑戦の新人杜氏ですが、根を詰めて計画を練り、詳細まで詰めて蔵人達と実行に移るにつれて、表情に厳しさが出てまいりました。どちらかと言うとややゆっくり型なのですが、この所反応も早く機敏になって来ました。弟や子供の挑戦を見守る兄や親の様な心配をしている私ですが、同時に一関陽介杜氏と彼を支える蔵人達が、どんな酒を造ってくれるかとてもワクワクしている自分がいます。

今日はまだ始まったばかりで量も少なく、高温障害の影響でやや割れは多いのですが、サバケの良い蒸米が出てきました。皆様乞うご期待です。

天寿の歴史

補遺―18

補遺―18

明治十二年―其の一

六代目 大井永吉

明治も十二年になると諸々の制度も簡素化されたもののようで、各届け出書類の宛先から秋田権令の文字が消えて「検査願」などは由利郡役処、出張官御中で済んだようだし「御請書」なども、等外三等出仕、井上金吾殿だけで結構だったようだ。三月の「清酒掛槽明細御届」は秋田県令石田英吉宛となっているが、権令とは書かれていない。四月には出張官が更迭した模様で、「御請書」の宛名は秋田県出張官、林金吾となっている。六月の「地方税之内営業願」の差出宛名に初めて郡長の名が見える。御代信成という人だが、初代の由利郡長で十二年の年に拝命している。

新 酒 醸 成 石 御 検 査 願

一新酒十三石三斗

外滓引弐斗五升

右、醸成石御検査被成下度候也

由利郡城内村

大井永吉㊞

明治十二年一月十八日

由利郡役処

出張官 御中

御 請 書

一新酒拾三石四升二合

右之通御検査相成候処相相違無

之、拠而此段御請申上候、 以上

由利郡城内村

大井永吉㊞

明治十二年一月廿一日

等外三等出仕

井上金吾殿

御 請 書

搾器機御封印   三ヶ処 ㊞

(朱書)

「十二年三月十七日開封印」

右之通本日御封印相請候ニ相違無御座候、依而此段御請仕候也、

羽後国由利郡城内村百七番地

大井永吉㊞

明治十二年一月廿二日

由利郡出張官

秋田県等外三等出仕

井上金吾殿

御 検 査 御 請 書

明治十一年十月二日御届高

一玄米 百石

此清酒 百石

玄米拾壱石三斗一升八合

此清酒拾三石三斗壱升八合

十二月六日御検査済

玄米拾四石八斗六升弐合

此清酒拾三石四升弐合

一月二日御検査済

玄米拾三石六斗壱升弐合

此清酒拾二石三斗九升弐合

三月廿六日御検査済

右之通御検査済相違無御座候也、

羽後国由利郡城内村百七番地

明治十二年二月  大井永吉㊞

由利郡出張官

秋田県等外三等出仕

井上金吾殿

搾 器 械 御 解 緘 願

一搾器械壱個滴石

四石一斗弐升五合

但、枠掛ナシ二日間、

三掛毎ニ一日槽洗ニ付

休日三日

此諸味四拾石三斗

此滴石参拾弐石四斗七升五合

右、本月十七日ヨリ来ル四月四日迄十九日間、夏酒搾石支度候間御解緘被成下度候也

由利郡城内村

明治十二年三月十六日大井永吉㊞

由利郡出張官

秋田県等外出仕 井上金吾殿

残暑お見舞い申し上げます
2012-09-01

残暑お見舞い申し上げます

代表取締役社長 大井建史

本当に暑い日が続いております。皆様お見舞い申し上げます。

ロンドンオリッピックの興奮もやっと落ち着いてきた感がありますが、皆様はいかがでしたでしょうか?多くの感動的な場面に、私の涙腺は全く弱くなり、我が祖国日本がこんなに誇らしく・いとおしく思う瞬間はオリンピックが最高ですね。国民不在の国政の無様さの中で、すばらしい清涼効果を発揮してくれました。結果的に一番ではなくても、心の持ち様で豊かな気持ちには十分になれます。プライドや品格もその人間の持つ香りの様なものなのですね。良いものを見せて頂きました。

8月に入ってからの秋田の暑さは異様でした。秋田県の原料米対策委員長と言う事で、県内の圃場視察に行って参りましたが、一昨年の最悪の高温障害を越える事態になるかもしれないと、農業試験場の先生が心配されていました。圃場の水管理によりますが、この日照り続きでその水もほとんどが不足している状態です。

ぶどうの出来で味が決まるワインと違い、米の出来だけで清酒の味は決まりませんが、米の出来が良いに越した事はなく、一昨年は米の状況を掴むまで大変苦労致しました。そろそろ雨や涼風が欲しいのですが、予報では当分無理なようです。

さて、今年の造りから杜氏が交代することになりました。

この度、弊社杜氏佐藤俊二が一身上の都合により退職する事になりました。

佐藤は最初から弊社の社員として入社し、私の代の杜氏と成る事を目標とし、杜氏就任の二年前から私と共に原料処理の改善を目標に定め、毎年売り上げが減少する中、弊社としては多額の設備投資を行い、数々の試験・試行錯誤を繰り返し、ベテランの蔵人に支援され一丸となって、特に精米・洗米・浸漬・蒸米の改善を行って参りました。また、花酵母仕込みの研究等で全体の評価が出てきたところでございました。

やっとここまでと思えた時に杜氏の退社希望は、私にとって正に青天の霹靂であり、慰留に努めましたが、本人の意志は固く、9月25日に退社する事となりました。

これまでの改革・改善の内容は蔵人全員が良く理解しておりますので、簡単にぶれることは無いと承知しております。又、これまで農大短期大学部醸造学科を卒業後、10年近く杜氏の下で勤めて参りました一関陽介を杜氏として進めて行く事に決定し、ベテラン蔵人達も了解しております。

この体制で、これまで通り蒸米の目標水分は0・01%以下の誤差で原料処理のクオリティーは保たれます。会社は人が動かしますし、会社の財産はこれまで積み重ねた技術と誠意を持った人材に尽きます。

一関の杜氏としての匙加減は初めての事とはなりますが、その若い感性に是非ご期待頂きたいと思います。

今後ともご指導・ご鞭撻賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

天寿の歴史

補遺―17

補遺―17

明治十一年ー其の三

六代目 大井永吉

六月に上酒相場書上を差出し、引き続き七月に「酒価書上御引換願」という文書が出ているが、これは四・五・六、の三ヶ月分の酒価相場書上げが、全くの心得違いから計算を間違えたので、改めて届書を出すから先の御届書と引き換えてもらいたいというもの。その後、五月一ヶ月の日々の上酒売出石代届というものを出している。小売平均一石五円二拾五銭三厘とある。

酒 価 書 上 御 引 換 願

酒価相場書上之儀、過般第百九拾五番ヲ以御達ニ付、本年四・五・六、三ヶ月分取調書上仕候処、最前月々取調書上候相場ニ引合不申ニ付、尚清算仕候処、其節全心得違之計算ヲ以書上仕候ニ相違無之、依而今更奉願候者甚恐入候得共別紙取調奉書上候間、何卒相成儀ニ御座候ハヽ、前御届書御引換被成下度此段奉懇願候  以上

第四大区小三区由利郡城内村

明治十一年七月一七日

大井永吉㊞

秋田県権令 石田英吉代理

秋田県少書記官  白根専一殿

明治十一年五月上酒売出石代御届

卸 売     小 売

一日 売出ナシ  金五円五銭六厘

~  〃       〃

六日  同上   金五円廿四銭

~  〃       〃

十一日 同上    金五円拾壱銭

~  〃       〃

十六日 同上  金五円廿銭壱厘

  〃       〃

廿一日 同上 金五円四十四銭壱厘

~  〃       〃

三十一日 同上     同上

合 計    金百六十弐円八十四銭

平 均    三十一日割

壱石代金五円廿五銭三厘

小売平均 壱石代金五円廿五銭三厘

右之通相違無御座候 以上

明治十一年七月

第四大区小三区城内村

醸造人 大井永吉㊞

商売が繁盛に向い販路拡大のためと思われるが、八月に酒類行商御鑑札下付の申請をしている。当時の行商とはどんな形で行ったのか分からないが、三代目当時下口と言った旧由利町方面さらには本荘まで「こだし」(あけびの蔓などで編んだ腰に着ける篭)に見本酒を入れて営業に歩いた話を父から聞いたことがある。十月には醸造見込石を百石に増して届出している。

酒類行商御鑑札御下付願

私儀

予テ清酒醸造営業罷在候ニ付、行商兼業仕度奉存候間、行商鑑札弐枚御下付被成下度、依之、御鑑札料金廿銭相添此段奉願候  以上

秋田県第四大区三小区

由利郡城内村 大井永吉㊞

明治十一年八月廿八日

秋田県権令 石田英吉代理

秋田県小書記官  白根専一殿

清酒醸造見込石御届

玄米    百石

此醸造石  百石

内     新酒二十五石

夏酒七十五石

右者、本年十月ヨリ明治十二年九月迄一期造高見込石御申上候 以上

第四大区三小区城内村

明治十一年十月

大井永吉㊞

秋田県権令 石田英吉殿

前書之通相違無之、依而奥印仕候也

戸長 石田勝良

朱書

書面之趣聞置候事

明治十一年十月七日

秋田県権令 石田英吉代理

秋田県大書記官  白根専一㊞

日本酒で乾杯
2012-07-01

日本酒で乾杯

代表取締役社長 大井建史

鳥海山の麓矢島の里は四月初めにはまだ雪が降りましたが、ここに来てやっと春らしくなってまいりました。4月13日には皆造(仕込んだお酒が全てしぼり終わる事)となり、火入れや片付けを急ピッチで進め25日には季節の蔵人は解散します。

今期は、酒造りが初めての新人蔵人を2人迎えてスタートしました。酒造りの勉強も含めて非常に熱心に勤めてくれ、素人新人から期待の新人?に成長してくれました。

今年も雪は多かったものの、寒波の切れ目があり雪害は比較的軽微でした。酒蔵はかまくら状態で蔵内の温度はほぼ安定し、酒造りは順調に推移したと言えます。今年も当然新しい話せば長い色々な試みがあり、また事件?も発生はしましたが、一つひとつ解決して参りました。出来たお酒につきましては乞うご期待!!と言うところです。

この後六月の中旬には重油タンクのメンテナンスで瓶詰が一時出来なくなります。皆様是非五月の中頃からは少し多めに買い置きして頂ければ大変有難く存じます。その他コンテナ冷蔵庫の移動並びにメンテナンス等々、大事が目白押しで頭の痛い昨今であります。

さて、先月は香港・今月は台湾と日本酒のフェアに参加して参りましたが、日本ではなぜ「日本酒で乾杯」なのかという話が皆さん随分興味深かったようなので、ここでも久々にお話をさせて頂きます。

なぜ日本では「さけ」と言うのでしょう?中国から呼名が来たというならば老酒(ラオチュウ)・白酒(パイチュウ)・焼酎(ショウチュウ)と言うように「チュウ」に成るはずです。これは日本には漢字伝来前から「さけ」という言葉があり、それに「酒」と言う漢字を当てはめたからと言われます。日本の古語には漢字を当てはめたためかえって意味が不明になったものが多くあるとの事です。

さけの「さ」は神様の事。坂(サカ)は[さ(神)]が降りてくるところ。境(サカイ)は[さ(神)]と人間の境界の事。その他にも関連では、さいわい=さに祝ってもらう・さち=さの神に千も集まってほしい・さつき=さの神に降りてほしい時・さなぶり=さぬぶり=さのぼり(神の帰るとき)・さおとめがさなえを植える。その他にも、さばき・さかずき・さかき・さとり・さかえる・さまよう・さみだれ等色々ありました。さらに、さくらはさの居るくら=神の座と言うところだそうで桜の花が咲くのを見てお酒を飲みたくなるのは日本人だけ(日本人の証拠?)。それはさけと言うのは神(さ)への一番のおみやげ(け)と言う意味だからとのことでした。だから日ノ本では神様へお願いするときには酒でなければいけないのです。

今年の春は遅く、秋田は連休に桜が咲きそうです。是非秋田に足を運んでください。

それでは皆様のご繁栄とご健康を祈念して、お酒(天寿・鳥海山)で乾杯!!

天寿の歴史

補遺―15

補遺―15

酒造稼年行事組合結成

六代目 大井永吉

明治十一年二月、矢島の酒造業者達が「酒造稼年行事組合」の届書を出している。”御説諭にもとづき“とあるので上からの指導があったと思われるが、当時としては画期的な酒造業組合としての発足である。

酒造稼年行事組合御届

今般御説諭ニ源キ協議之上、左之通、年行事組合相定候条、此段御届申上候 以上

第四大区三小区七日町村

年行事  武田佐喜蔵

同郡田中町

組合  土田 房治

田中町

同   須貝太郎蔵

由利郡館町

同   大井 清造

館町

同   大井 伝治

城内村

同   大井 永吉

「秋田県酒造史―本編」によると藩政時代の酒造行政は、勘定奉行の主管でこれに酒造方吟味役をおき、酒屋(専ら製造業)の営業者中「格年」と称し惣代のような格式の世話役をおき、暢申下達の事務を取り扱わせていた。明治となり、大蔵省の許に地方庁が主管し新規開業にはその地方における酒造業者五名以上の同意を得て新免許を申請することとなった。

明治時代における本県の酒造業は、その経営規模が小さく全国的にみて問題とするに足らぬ業者であった。当時の飲酒は濁酒から清酒への移行が容易に進まず、濁酒のみの醸造家が多く、また自家用濁酒醸造の制度も存続していたことが清酒製造業の発達を遅延させた一因とも考えられる。更に濁酒製造業は大方が小規模で酒造家としての経営ならびに技術の改良進歩のあとが見られなかった。しかし明治初期においても任意の団体を組織し、業者相互の協力を図ったことが、明治十一年、第七大区一小区から出された「酒造家規則確定届」により知られる。

この届出は当時の雄勝郡の八面村、川連村、三梨村、稲庭村、田子内村の十酒造家が組合をつくり、その規則の外に事務担当者を併せて届出たものである。

酒造家組合行事役役書

並ニ規則確定御届

第七大区一小区

一、今般御説諭之趣ニ相基キ当区内酒家拾戸協議之末行事役本年沓澤源助江依頼仕猶左之通組合規則相定営業之事務但理謹業セシムル事

第一条

一、行事役年限ハ一ヶ年或ハニヶ年トスルモ年々一月中、組合協議之上相定ムル事

以下、第十条まで費用の拠出割合、各酒相場は組合ニ於協議之上相定、酒造増減願出、営業興廃届、鑑札税並ニ醸造石税の期限内の納付等、第十条まで定めている。…とある。

矢島の組合の規則は残念ながら資料として残っていないが、大同小異のものであったと推定される。矢島の酒造家が五軒のみで県内でも先端を切って組合を結成したことは、お互い協調心に富み先進的考えを持っていたからであろう。大先輩達に衷心より敬意を表する次第である。

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