「運・鈍・根」の酒造り
代表取締役社長 大井建史
枯葉も舞い始め、冬へと向う季節ですが、今年も天寿の酒造りは元気に始まりました。契約栽培グループである天寿酒米研究会の米も次々と入荷し、順調に精米が進行しております。作柄は平年作でしたがやはり心配された高温障害の傾向は出ており、心白または腹白の発現がやや多めで、精米での割れは丁寧に仕上げる事で防げますが、洗米時の胴割れの比率は残念ながら高いようです。今年も「米屋」「釜屋」の苦心の年になるようです
我が社の場所は、ご存知のように秋田・山形の県境にある「鳥海山」の北側斜面の麓にあります。長年全国で一人当たりの日本酒消費量の最も多い地区なのですが、そんな土地柄だったにも関わらず、いよいよ消費量が焼酎に逆転されようとしています。全国的には既成の事実であり予想は出来ましたが、まさか秋田でそれも由利本荘で逆転の危機になるとは、地元での売り上げ実績にも現れてはいますが、実際にそうなり肌身に感じるのはとてもショックを受けました。
しかし一方で、全国的にお酒を楽しむイベントは沢山あり、その回数は大変なものになっております。何処のお酒が美味しいかもさることながら、ほとんどのイベントで、日本酒の良さ・旨さの引き出し方・料理とのマッチング・日本の食の文化と正しい知識の普及等の啓蒙活動が中心となる素晴しい会が多いのですが、現在の所ほとんどの日本酒の蔵が売り上げ不振に頭を抱えているのが現状です 愚痴ではありません。あくまで現状の話を申し上げました。この様な中での今年の酒造りですが、名門酒会の「米から育てた純米酒」の季節商品(夏の生酒・秋の冷やおろし)は利き酒会ではトップクラスの評価を頂き、分母は非常に小さいのですが300%を超える人気商品となった事は、この十二年「品質の基礎は原料処理」の考えの下、杜氏を中心に基本に立ち返り、細やかな改善や機械の加工等試行錯誤を続け、蒸米の目標水分のブレを1%以下にする等の精度や体制が出来た成果だと嬉しく思います。
そうは感じながらも、酒造りの設計は難しいものだとつくづく思います。料理でもありますよね、簡単レシピでもたまらなく美味しいもの・・・。もちろん天寿の蔵は天才型ではありません。自分の信じる物をこつこつと手をかけて、その手間が味に感じられる様なお酒を造りたいと思います。
先代の五代目永吉は私が子供の頃に「運・鈍・根」だぞと良く言い聞かせてくれました。鈍感なくらいに愚直に、根気よく頑張っていれば運はめぐってくると。時代がかった言葉ではありますが、一つの指針であると私は思っています。
今年の酒造りも「運・鈍・根」で勧めて参りたいと思います。
天寿の歴史
(六)ー5
天寿の歴史6―5
杜氏の系譜―(1)
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
秋田の酒造業は、地主階級が小作米をそのまま販売するよりも酒に加工して出荷するのが得策であるとの考えから酒造りを始め、地主自身は蔵には入らず付近の村落の小作農民の冬季出稼ぎとして雇った者達に任せていたとする考え方が一般的で、県酒造史にもそのように紹介されているが、それらを裏付ける具体的な文献等は見当らない。福島県会津酒造の歴史等の文献から推して、秋田の醸造業者についても①郷村の村役、大農家の醸造者と②商人による醸造者の二類型と考えるのが相当と思われる。(*1・秋田の醸造研究会「秋田の杜氏」)
矢島藩では天保期に入ると武田屋、大井屋、酒田屋という三酒屋の名前が出てきており、そのまま明治の代に受け継がれている。(矢島町史)この大井屋は本家のことで大地主で藩の御用酒屋であった。当家は通信第24号の創成期の記事で述べたとおり、文政十三年(天保一年1830)に大井屋から初代永吉が分家して麹と濁酒を営み、明治七年(1874)二代目永吉が免許を得て清酒醸造の創業となったのであるから、その分類によれば②の商人による醸造者である。
又(*1)によれば秋田の醸造法の原点は①生活の知恵というか、長い間の暮らしの中からできた「どぶろく」造りの技。②他の地域との交流、例えば秋田城が天平五年(733)雄勝城は宝亨三年(759)にできており、この役人や後三年の役の源氏の武士に従ってきた人達から、上方の酒造り、麹とかモトの造り方を知ったのでは?③南部から長享二年(1488)増田町に転入した通覚寺が、開拓、開田、酒造の役割を与えられていたといい、神社仏閣にどぶろく製造法が伝承され、その影響を受け少しづつ進歩してきたのではないかとも考えられるという。
藩政時代に入って諸家の文献に先進地の視察、杜氏の招聘等の記録が見られるようになる。その視察先、招聘先は、伊丹、大阪、明石などが多かった。先進地から腕の良い杜氏を招聘して技を習い、また蔵元の主人または子弟等が出かけて学び、帰郷後造りの指揮をしたものと思われる。これが本県酒造技術の流れであり、技術改良の本流が関西にあるといわれる所以である。
このように明治、大正の頃の酒造従業者は、蔵元の主人、子弟が杜氏役を務め、蔵における労務の配分等は「代官」と称する年配者に任せ、蔵人は近くの農家の人々が雇われる形態のものが多かった。
当家の場合は清酒創業の二代目、三代目の技術の習得先は恐らく初代の濁酒造りと、藩の御用酒屋である本家の蔵であったと思われる。四代目亀太郎は、若い時から技術の研鑽を積んだ。十七歳の頃から、先進地羽前大山村(現鶴岡市)の三つの蔵に修行に行っている。几帳面な性格で、取得した技術を、手製の和紙綴じ帳面に「秘書」「改良実施酒造秘書」等として残している。