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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

「 平成の名水百選 」
2008-07-01

「 平成の名水百選 」

代表取締役社長 大井建史

環境省は6月4日に「平成の名水百選」を発表しました。秋田県で選ばれたのは、弊社が水源探索イベントでいつもご案内している鳥海山の「獅子ケ鼻湿原の出壺」と「元滝伏流水」。

出壺は獅子ケ鼻湿原の一角にあるブナ林に囲まれた湧水地。毎分七トンの水が湧き出す場所から突然川が始まる感動の湧水量。元滝は緑と水のマイナスイオンがタップリの夏でも涼しいキレイな場所。滝の上には川がなく全て伏流水が流れ出て滝を作っている。どちらも鳥海山が水の山で、麓の里に大きな恩恵をもたらす母なる山である事を実感させてくれる場所なのです。

お酒は良い水が有って初めて醸すことが出来ます。天寿は百三十余年にわたって鳥海山の恩恵を受けてきましたが、天寿を愛して頂いているお客様と共に、その素晴しい環境を体感する「水源探索」の第10回目となるイベントを8月30日・31日に開催いたします。

出壺の方はゆっくり歩いて二時間強ですが、これまでの参加者の最高齢は八十歳。ふうふう言っております私は完全に脱帽でした。ハイヒールやサンダルではさすがに無理です。スニーカーかトレッキングシューズでのご参加をお願い致します。

ダブル銀賞受賞

5月20日に全国新酒鑑評会とインターナショナル・ワイン・チャレンジ(I W C )の二つの発表が有りました。結果はどちらも銀賞でしたが感慨は全く別。 I W Cはロンドンで開催される世界最大規模のワイン品評会で、日本酒は今年三百十三銘柄が出品されました。日本酒部門には五つのカテゴリーがあり、天寿は今年初めての出品でしたが、純米吟醸の部で純米吟醸鳥海山が銀賞、吟醸の部で鳥海の雫が銅賞を受賞しました。全国新酒鑑評会の様に出品用の酒ではなく市販酒(出品酒としての準備もないので、特別な物を出す事は不可能)を出品した弊社でしたが、純米吟醸鳥海山(精米歩合50 % )が受賞したことに感動を覚えました。

昨今、日本酒のイベントは盛況を見せ、レベルも高く開催数も多いが、酒蔵からの持ち出しが多く、その負担が大きな問題となっています。その割には販売促進につながっていないのが現状なのです。I W Cの受賞が販売の一助になれば大変ありがたいことだと思っています。

一方全国新酒鑑評会については、秋田県は史上三番目の金賞受賞数16個でした。しかし、弊社は銀賞に留まった。これは秋田県で17番目以降ということになる?受賞傾向よりグルコースを抑えた造りであるとは言え「そんなことは無い!」と言う自意識と、現実には銀賞と言う狭間で苦悶している私であります。

話は変わりますが、「岩手・宮城内陸地震」につきましては、お陰様で被害は無く過ごすことが出来ました。久々の大きな揺れに大変緊張しましたが、杜氏と蔵を回りながらホッと胸をなでおろしました。ご心配を頂きました皆様に心からお礼を申し上げますとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

天寿の歴史

(六)ー9

杜氏の系譜ー(5)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

明治三八年、大蔵省醸造試験所が設立され、その事業要領には「酒類及ビ醸造物中特ニ清酒ノ品質及ビ其ノ醸造方法ヲ改良シ、酒蔵家ヲシテ其ノ実績ヲ挙ゲシムルヲ以テ目的トス」と記された。明治三九年、日本醸造協会を設立して大蔵省醸造試験所と全国清酒製造業者との事業の連携を保つ仲介役となることとした。翌四十年十月、日本醸造協会主催により第一回全国清酒品評会が開催され以後隔年開催された。

この品評会は名称を酒類品評会、酒類醤油品評会と隔年毎に変えて昭和十三年第十六回を以て中止された。

秋田県のように後進的中小企業の多い酒造県として、個々の銘柄の市場における認識高揚のための宣伝力を十分に持たぬ業者にとって、品評会における優等賞受賞は極めて有効な宣伝効果を持つものとして特に熱意をもって出品した。

大正二年、第四回品評会において「両関」が全国,二〇五四場、二八〇一点の出品酒中、八場八点の優等賞の中の一つとして、本県において初めて受賞し、それまで東北の一隅の田舎酒と思われていた秋田酒が、全国の脅威の的として初めて認められたのであった。

これを契機として本県酒造業は、こぞって酒造技術の改良と酒質の向上に愈々精励し、次々と優等賞を受賞するに至った。

大正時代に始まる銘醸地秋田の地位は全国品評会の成績とこれに伴う業者の益々の精励努力により確固たるものとなったとも言えよう。(秋田県酒造史)

このような大正時代の華々しい秋田酒の歴史の中で「天寿」の成績はどうだったのか・・・

先代が東京滝の川の醸造試験所で長期講習生として研鑽したのが大正三年、二十歳のときだから、すぐ帰って造りに励んだとしても若く経験不足もあり、すぐには優等賞には届かなかったようだ。しかし長い雌伏の後、昭和十一年第十五回品評会で遂に念願の優等賞を獲得したのである。

渡辺杜氏が蔵へ入ってからも十四年を経ているので、それまでの苦労とまた喜びが杜氏個人宛ての賞状から偲ばれるのである。

『 春 』
2008-05-01

『 春 』

代表取締役社長 大井建史

四月も後半になり、慌しく火入れや片付け作業に追われていた蔵人も、18日に家路に着きました。瓶詰め部門は昔と違い、瓶火入れ・瓶冷蔵貯蔵が増え、酒種も多く量も増えたため、冷蔵倉庫の借り上げも視野に入れた貯蔵管理計画に、社長・杜氏・詰口係長は眉間に皺を立てながらの検討となりましたが、前に思い切って建て増した大型冷蔵倉庫のお陰で、何とかなりそうな気配にホッと一安心です。

1日の今日は桜が満開の晴天で季節の変化を気持ち良く感じられる陽気です。三月後半から急速に春めき、平年より78日も開花が早く、連休には葉桜も過ぎているだろうとの事、角館等の観光名所は気の毒な事になりそうです。

こうやって季節を感じながら落ち着くと、長女に続いて次女も大学進学のため今春から家を離れ、子供部屋が二つ空いていることが思った以上に寂しく感じられ、一昨日の高校PTA総会での会長退任でその思いを強めたり、中学三年の末娘はまだ四年は家にいる事を家内と確認して慰められたりしています。

今年の大吟醸は全て年初に仕込んだ為、大吟醸しぼりたての発売が3月26日になってしまい、「搾りたてには遅い時期、盛り上がりにチト欠けるなぁ」と思い、ここで宣伝を(笑)

天寿では「地元で出来る最も良い酒」を目指して、全国でも最も早い時期から酒造好適米の契約栽培を開始し、天寿酒米研究会を立ち上げました。人も水も米も地元で最高の物で造りあげようと頑張っておりますが、そうであるからこそ、これまで最高の米と言われ続けた山田錦を社内の比較検討の為に7 5 0 kg仕込で何本か大吟醸を造り続けております。秋田の自慢の酒米「酒こまち」も出ましたが、鑑評会出品酒として考えると、社内では未だ山田錦の大吟醸を超えていないと判断しています。その山田錦大吟醸の澱絡みの生酒が『大吟醸「鳥海」しぼりたてにごり生酒』です。槽で搾った大吟醸の澱引きを致しますと、皆さんが想像する以上の澱が絡んだ酒が出ます。これが、しぼりたての生酒だと何ら遜色の無い酒質ですし、短時間で非常に柔らかな味になります。これが世に出ないのは何とも勿体無いと言うことで、価格を抑えて発売したのがこのお酒です。残り1 0 8本です。合わせまして、天寿酒米研究会で育てた酒造好適米美山錦で醸した『天寿大吟醸搾りたて生酒』も残り僅か74本となりました。「雪室氷点熟成純米生酒」と共に春の大吟醸の生酒を新緑を愛でながら、是非お楽しみください。

天寿の歴史

(六)ー8

杜氏の系譜ー(4)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

前号で渡辺兼蔵杜氏については勤務歴不明と記したが、うれしいことに、以前から蔵元通信の読者でご注文も頂いている札幌市の光延沙苗さんが実は兼蔵さんのお孫さんで、現在秋田市新屋に在住の弟さんの渡辺一義さんに連絡、一義さんが当社に訪ねてこられ、兼蔵さんが大事にとっておいたと思われる賞状や表彰状、講習の習得証類、写真などを多く持参されたのである。

これらの品は、兼蔵さんの当社における足跡ばかりでなく、秋田県酒造史の一時代を窺がい知る貴重な資料でもある。よく保存されていたものと感心し、わざわざお届け頂いたご厚意に心より感謝申し上げたい。

渡辺兼蔵さんの当社での職歴は、大正十一年の酒造講習会受講証を始めとして、毎年のように受講証が残っているので、大正十一年からの蔵入りと思われる。蔵人と一緒の写真では地元以外は彼一人だけなので、当時新屋地区の蔵で浜田杜氏と呼ばれる人たちが育ったと文献にあることから、最初から杜氏としての採用だったと推察されるが、賞状の名前の肩書きに大井永吉酒造場方 杜氏渡辺兼蔵とあるのは大正十三年のものからで、この年からは杜氏として勤められたことは確実である。

明治・大正の頃の酒造従事者への酒造に対する理解、技術の習得は、中央における酒造講習会の修了者が手本になったと推察されるが、秋田酒の勃興期と言われる大正十年代には各地で酒造従業員に対する酒造講習会が始められている。

『1、秋田杜氏養成講習会

大正九年 秋田酒造組合

大正九年 秋田酒造組合

大正六年 雄平酒造組合

3、由利郡酒造講習会

大正九年 由利酒造組合

4、下三郡酒造講習会

北鹿、山本酒造組合』

(秋田の杜氏)

渡辺杜氏の受講証は主催が秋田酒造講習会、由利郡酒造講習会、秋田酒造杜氏養成講習会、とあるが、何れも「産業講習規定により終了したることを証す」として、時の県知事名で習得証を出している。県としても産業としての酒造業の育成に力を注いだ証左であろう。

寒造り真っ只中
2008-03-01

寒造り真っ只中

代表取締役社長 大井建史

今冬の雪は三年ぶりに平年並みの量ですが、爆弾低気圧と呼ばれる寒波が何度も訪れ、やはり異常気象なのだと考えさせられます。

県内の育苗講習会で東北農業研究センターの長田先生から、「平均気温の変化は無いが、最高・最低の温度変化は大きくなり、農作物の管理もそれに伴って変えなければ成らない」とのお話を伺い、最近多い高温障害や胴割れ等の原因もはっきりし、衝撃を受けながらも納得してきた次第です。

この平均値でものを考えると言う事については、何に対しても同じ事が言えるなと変な納得も致しました。何となく安心感のある平均値でものを考えると大きく間違ってしまいます。本来は異常値にこそ注目しなければならないのに…。近年は経済はもちろん、環境・教育・行政等この異常値が非常に多いですよね!多すぎて「へぇ〜ホント?スゴイネ?ヤバクナイ?」だけで済ませてしまっていましたが、昨今は頭の中の予想や理解ではなく、その変化がむきだしの現実として津波のように押し寄せ、ほとんどが痛みを伴う体感をさせられている訳です。(こんな世の中でも唖然とする程危機感の無い集団も政治家や行政府には多々ある様ですが…)「お酒は安定してて良いね」等と言う事は遠い昔の話となりました。

新年に入ってから中心商品の酒造りが佳境となり、現在は出品用の大吟醸をはじめ何時搾りに入るかの見極めに、佐藤杜氏も最高の緊張に目の色を変えております。昨年から挑戦を始めた「一石仕込み」も、通常仕込みに何ら劣る所が全く無いお酒が出来る事に自信を持ち、今年もフル稼働で(たった三本のタンクですが)蔵の中では出品酒に次ぐ注目の的です。ご理解・新年に入ってから中心商品の酒造りが佳境となり、現在は出品用の大吟醸をはじめ何時搾りに入るかの見極めに、佐藤杜氏も最高の緊張に目の色を変えております。昨年から挑戦を始めた「一石仕込み」も、通常仕込みに何ら劣る所が全く無いお酒が出来る事に自信を持ち、今年もフル稼働で(たった三本のタンクですが)蔵の中では出品酒に次ぐ注目の的です。ご理解・

今期は常勤組から酒造りのローテーションに五名を入れ、杜氏は教育に時間を割かれる事に困惑を表しながらも、技量を受け継がせるため大変頑張ってくれました。前から参加している三人はお客さん状態を脱しつつある様で、蔵の反省会(酒盛り)でも嬉しそうに語ってました。どうやら蔵人のスタートラインには立てた様です。ご苦労様。

天寿の歴史

六)ー7

杜氏の系譜

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

酒造法が科学的に解明されてきた今日でも酒造の各流派的色彩があるものであるが、専ら勘にのみ頼って造られていた時代には秘伝として各地に特色ある酒造法が採られていた。秋田で古くから言われている酒造の流派は、伊丹流とか灘流とか、大山流とかいわれるものである。明治から大正にかけての県内各蔵元が伝来の技法に灘流を加え、更に醸造試験所、日本醸造協会の酒造講習会を受講し、その得た技法を磨いて寒冷地の自分の蔵に適合するように工夫、改良して品評会で成績を上げ、秋田酒の名声を広く世間に知られるようになったのである。(池見元一メモ)

四代目亀太郎は大山流と伊丹流の両方を学び、矢島酒の改良に励んだが、自分の蔵のみならず、妻の実家の「玉泉」叔父の婿入り先の「冨士川」の造りも面倒見たために無理が祟ったのか、その技術を息子の昌助や後進に充分伝える間もなく三十六歳の若さで他界した。

五代目永吉(昌助)はその時まだ十五歳だった。しっかり者だった母トミエと苦労しながら家業を護り、大正三年二十歳の時東京滝の川の醸造試験所で長期講習生として技術を研鑽、矢部偵造、江田鎌治郎、鹿又親など偉大な先覚達の教えを受け、当時の最新技術を身に付けて帰郷、その後酒質は飛躍的に進歩し販売増進の原因となった。

明治、大正の頃の酒造従業員は、蔵元の主人、子弟が杜氏役を勤め、蔵における労務の配分等は「代官」と称する年配者に任せ、蔵人は近くの農家の人々が農閑期の現金収入を得るたの季節労務者の形態が殆んどだった。

造石高が増加するにつれ、所要の人数を住み込み様式で採用し、その勤務振りを見て、当人の希望を聞いた上で常用者として採用し、その内特に優秀な者を選んで杜氏とした。由利本荘の蔵元は殆んどこの形態だったが、県内他地域は杜氏が必要人数を集め、出稼ぎ集団で蔵に入る形態も多かった。また季節労務で杜氏一人とか、麹、酒母などの「役びと」のみの雇用契約もあり、最近はこの形態の方が多くなっている。

五代目永吉は昭和十年代に初めて杜氏を採用したが、秋田市新屋の人で「渡辺兼蔵」という名であること以外、一葉の写真が残っているだけで残念ながら勤務記録は残っていない。

人能く道を弘む
2008-01-01

人能く道を弘む

代表取締役社長 大井建史

あけましておめでとうございます。

去年の11月に早めの雪が降り始めた割には、たいした積雪も無い穏やかな正月を迎える事が出来ました。天寿の酒蔵では蔵人の新旧入れ替わりや新ローテーションの取り組みの中、順調に酒造りが進み大吟醸の仕込みの準備に気合を入れているところです。

私が入社してから二十年以上過ぎていますが、本当に大きく環境が変わったものだと思います。バブル崩壊後に帰郷した「失われた十年」と言われる期間は、第一次地酒ブームの新人蔵元として特定名称酒の商品開発、地元や名門酒会での販売等の仕事と共にJCや商工会青年部・消防団・祭典の若衆等を夢中でやりながらも、これまでの地盤や地域文化が崩れておらず、地方がここまで地盤沈下するとは予想できませんでした。

しかし、その後細川首相の行なった自由化がボディブローの様に地方の体力を失わせ、地方の文化や行事を無視した祝日の変更や市町村合併により、阪神淡路大震災で叫ばれたコミュニティーを大切にする方向とは真逆の方向に走り続け地方のコミュニティーの崩壊を促進し、無資源国では円安傾向は止めようも無く日本はどんどん貧乏になり、目先の対策しか行なわれない農業は梯子を外された状態で疲弊し続け、近い将来に見える食糧不足の時にはそのつけが跳ね返ってくる事が目に見える様です。

ここ十年の金融再生を中心とした中央経済復興中心の政策の結果、地方の変化は大変厳しいものがあり、人口の減少・財政の悪化は大変深刻な状態になりました。

その様な中、天寿酒米研究会との原料米契約栽培の強化、製造技術向上の為の精米所・醗酵タンク等の設備投資、蒸し米や麹の質向上の為の設備改善、ビン貯蔵のための冷蔵倉庫の建設、花酵母の研究を含む新商品開発、地域の人々と共に進むための各種イベントの開催、小人数体制への移行等弊社も必死に変革の努力を続けてまいりました。

しかし、国内における日本酒の消費量はピーク時の半数を割り、底無し沼のようにその先行きは見えません。ワインブームや第二・第三のビールそしてチューハイ・本格焼酎ブームと酒類業界内の変遷もありました。現在は人口の減少もありますが団塊ジュニア以降のアルコール飲料離れ、飲み会や車よりも携帯電話やインターネット・ゲームなどへ価値観の変化も大きな要因となっております。

何が正しいと言う事は無いと思います。ただ私は日本酒の美味しさをわかって頂きたい。和食の良さ、食べる事の喜び、そこに日本酒がある事の素晴らしさを多くの人と分かち合うために、今年も一生懸命頑張って行きたいと思います。

本年もご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

天寿の歴史

(六)ー6

杜氏の系譜―(2)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

秋田県が酒質の向上を図るため兵庫県に杜氏推薦を要請し、明治二〇年に来県した鷲尾久八。彼は県内各地で技術指導をしたが、主に矢島地区で醸造法改良の傍ら授業を行い、明治三〇年代に矢島酒の名声を挙げたといわれている。

(秋田の杜氏)

一、真綿 二把

昨秋以来醸酒ノ改良ニ従事スルコト数ヶ月其間佶据勉励為メニ頗ル良結果ヲ呈セリ其功労寡カラス聊カ寸志ヲ表ワシテ之ヲ贈ル

明治二四年四月五日

秋田県羽後由利郡矢島町

矢島酒造組

大井清造

武田吉郎

須貝太郎蔵

大井与四郎

土田安吉

鷲 尾 久 八 殿

これは指導への感謝状であるが、その翌年も矢島に来て酒造技術を指導している。

兵庫県摂津国有馬郡母子村

鷲 尾 久 八 殿

当組合ノ嘱託ニ応シ改良酒醸造ニ従事シ全ク善良ノ功ヲ奏シタルハ当組合ノ甚タ満足スル所ニシテ深ク感謝ニ堪ヘス今般帰県ニ当リ其功ヲ賞シ併テ謝意ヲ表センカ為メ金五円ヲ贈与ス

明治二十五年三月二十五日

秋田県由利郡矢島酒造組合

(以上大井文書)

このように鷲尾の指導に対しその功績に対し深く感謝している。三代目永吉(与四郎)は酒造技術にさらに磨きをかけようと鷲尾久八に長男亀太郎をつけて技術を学ばせ、明治二四年に卒業免状を手にしている。矢島の各蔵元は科学的製造技術が進められた明治末期に先駆け灘の技法を導入実施したのである。

(三―1に前出)

亀太郎は自分の蔵のほか、妻の実家《玉泉》と弟の婿入り先《富士川》も指導しながら手伝い難儀をしている。夜の仕事が多い当時の酒造りで、酒蔵の中に布団を持ち込むほど真剣な人だったと伝えられている。

「運・鈍・根」の酒造り
2007-11-01

「運・鈍・根」の酒造り

代表取締役社長 大井建史

枯葉も舞い始め、冬へと向う季節ですが、今年も天寿の酒造りは元気に始まりました。契約栽培グループである天寿酒米研究会の米も次々と入荷し、順調に精米が進行しております。作柄は平年作でしたがやはり心配された高温障害の傾向は出ており、心白または腹白の発現がやや多めで、精米での割れは丁寧に仕上げる事で防げますが、洗米時の胴割れの比率は残念ながら高いようです。今年も「米屋」「釜屋」の苦心の年になるようです

我が社の場所は、ご存知のように秋田・山形の県境にある「鳥海山」の北側斜面の麓にあります。長年全国で一人当たりの日本酒消費量の最も多い地区なのですが、そんな土地柄だったにも関わらず、いよいよ消費量が焼酎に逆転されようとしています。全国的には既成の事実であり予想は出来ましたが、まさか秋田でそれも由利本荘で逆転の危機になるとは、地元での売り上げ実績にも現れてはいますが、実際にそうなり肌身に感じるのはとてもショックを受けました。

しかし一方で、全国的にお酒を楽しむイベントは沢山あり、その回数は大変なものになっております。何処のお酒が美味しいかもさることながら、ほとんどのイベントで、日本酒の良さ・旨さの引き出し方・料理とのマッチング・日本の食の文化と正しい知識の普及等の啓蒙活動が中心となる素晴しい会が多いのですが、現在の所ほとんどの日本酒の蔵が売り上げ不振に頭を抱えているのが現状です 愚痴ではありません。あくまで現状の話を申し上げました。この様な中での今年の酒造りですが、名門酒会の「米から育てた純米酒」の季節商品(夏の生酒・秋の冷やおろし)は利き酒会ではトップクラスの評価を頂き、分母は非常に小さいのですが300%を超える人気商品となった事は、この十二年「品質の基礎は原料処理」の考えの下、杜氏を中心に基本に立ち返り、細やかな改善や機械の加工等試行錯誤を続け、蒸米の目標水分のブレを1%以下にする等の精度や体制が出来た成果だと嬉しく思います。

そうは感じながらも、酒造りの設計は難しいものだとつくづく思います。料理でもありますよね、簡単レシピでもたまらなく美味しいもの・・・。もちろん天寿の蔵は天才型ではありません。自分の信じる物をこつこつと手をかけて、その手間が味に感じられる様なお酒を造りたいと思います。

先代の五代目永吉は私が子供の頃に「運・鈍・根」だぞと良く言い聞かせてくれました。鈍感なくらいに愚直に、根気よく頑張っていれば運はめぐってくると。時代がかった言葉ではありますが、一つの指針であると私は思っています。

今年の酒造りも「運・鈍・根」で勧めて参りたいと思います。

天寿の歴史

(六)ー5

天寿の歴史6―5

杜氏の系譜―(1)

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

秋田の酒造業は、地主階級が小作米をそのまま販売するよりも酒に加工して出荷するのが得策であるとの考えから酒造りを始め、地主自身は蔵には入らず付近の村落の小作農民の冬季出稼ぎとして雇った者達に任せていたとする考え方が一般的で、県酒造史にもそのように紹介されているが、それらを裏付ける具体的な文献等は見当らない。福島県会津酒造の歴史等の文献から推して、秋田の醸造業者についても①郷村の村役、大農家の醸造者と②商人による醸造者の二類型と考えるのが相当と思われる。(*1・秋田の醸造研究会「秋田の杜氏」)

矢島藩では天保期に入ると武田屋、大井屋、酒田屋という三酒屋の名前が出てきており、そのまま明治の代に受け継がれている。(矢島町史)この大井屋は本家のことで大地主で藩の御用酒屋であった。当家は通信第24号の創成期の記事で述べたとおり、文政十三年(天保一年1830)に大井屋から初代永吉が分家して麹と濁酒を営み、明治七年(1874)二代目永吉が免許を得て清酒醸造の創業となったのであるから、その分類によれば②の商人による醸造者である。

又(*1)によれば秋田の醸造法の原点は①生活の知恵というか、長い間の暮らしの中からできた「どぶろく」造りの技。②他の地域との交流、例えば秋田城が天平五年(733)雄勝城は宝亨三年(759)にできており、この役人や後三年の役の源氏の武士に従ってきた人達から、上方の酒造り、麹とかモトの造り方を知ったのでは?③南部から長享二年(1488)増田町に転入した通覚寺が、開拓、開田、酒造の役割を与えられていたといい、神社仏閣にどぶろく製造法が伝承され、その影響を受け少しづつ進歩してきたのではないかとも考えられるという。

藩政時代に入って諸家の文献に先進地の視察、杜氏の招聘等の記録が見られるようになる。その視察先、招聘先は、伊丹、大阪、明石などが多かった。先進地から腕の良い杜氏を招聘して技を習い、また蔵元の主人または子弟等が出かけて学び、帰郷後造りの指揮をしたものと思われる。これが本県酒造技術の流れであり、技術改良の本流が関西にあるといわれる所以である。

このように明治、大正の頃の酒造従業者は、蔵元の主人、子弟が杜氏役を務め、蔵における労務の配分等は「代官」と称する年配者に任せ、蔵人は近くの農家の人々が雇われる形態のものが多かった。

当家の場合は清酒創業の二代目、三代目の技術の習得先は恐らく初代の濁酒造りと、藩の御用酒屋である本家の蔵であったと思われる。四代目亀太郎は、若い時から技術の研鑽を積んだ。十七歳の頃から、先進地羽前大山村(現鶴岡市)の三つの蔵に修行に行っている。几帳面な性格で、取得した技術を、手製の和紙綴じ帳面に「秘書」「改良実施酒造秘書」等として残している。

「夏越えの・・・」
2007-09-01

「夏越えの・・・」

代表取締役社長 大井建史

まだまだ暑い日が続いておりますが、矢島の里はお盆頃の猛暑とは違う秋の気配が感じられるようになりました。

八月後半の大雨には私もいささか驚きました。軒の樋が雨水を飲み込めず溢れかえる状態に「おぉ、すごいなぁ」と見ていても中々その状態が終わってくれないのです。一晩も経った頃にはさすがに「これは拙くないか」と思っていると、増水により町の中を流れる荒沢川の護岸が崩れ140世帯に避難勧告が出たということで、全国版のニュースにもなりました。結局水は溢れず大きな災害にはなりませんでしたが、中小の被害はかなりの数になったようです。お陰様で弊社にはなんの被害もなくホッとした所でした。

8月28日に仙台の鑑定官や県醸造試験場の先生をお迎えし、呑み切りを行いました。60点を越える夏越えの酒をきき酒し、その順調な熟成を確認いたしました。先生方からも欠点の指摘はなく、貯蔵に一切炭素の使用が無い事を何度も確認され、そのキレイさに感心されました。もともとやわらかで軽快なタイプの蔵ではありますが、杜氏とは「もう少し押し味を出す為にはどうするか?タイプ別のメリハリを更に明確にするには?」という話題で話し合ったところです。

その後に県内の地酒小売店の方々や、弊社の蔵人そして夏休みで帰っていた私の長女も勉強の為に参加させ呑み切りの酒の確認を行いました。今回は初めて新購入の小仕込みタンクで一石仕込を行い、その酒が通常仕込みに負けない醸造が出来る事を確認できたのは、大きな成果でした。

その一つ一つの出来に一喜一憂し、比較試験(美山錦vs酒こまち・酵母の違い・麹の違い・蒸の違い等々)に緊張し、悔しがり、満足します。何の為にその仕込みの試験を行ったのか、弊社内の仕込みの常識を疑いながら、様々な試みを行うわけですが、この時期には反省が多々出てきます。あれほど理解しあっていると、目標は明確だと思っていても、目指していたもの・思っていた事のブレが呑み切りの時にはっきりと出てしまいます。判った積もり・言った積もり・行った積もり・出来た積もり。

目的の明確化・情報の共通化・同じ思いを抱いた全社一丸体制etc。わずか三十名弱の会社で、なぜこう道が遠いのかと反省しきりであります。

天寿の歴史

(六)ー4

新商品開発- 〔鳥海山自然水〕Ⅱ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

農水省の品質表示ガイドラインによれば、ナチュラルウォーター、ナチュラルミネラルウォーター、ミネラルウォーター、ボトルドウォーターに分類され、「鳥海山自然水」はナチュラルウォーターの分類に入る。

市販の水は多種多様で、今日ではデパート、スーパーやコンビニでも水のボトルの売り場スペースは広がって、どこでも3種類や4種類の水が並んでいる。国産だけでなくアメリカ産、ヨーロッパ産等、世界各国のミネラルウォーターが味わえるようになった。

人の顔が一人一人違うように、ミネラルウォーターもそれぞれ味も香りも風味も違うのである。フランスなどヨーロッパからの輸入品は、カルシウム、マグネシウムの含有率が高い硬水タイプが多く、ミネラル補給のためのストレート飲用に向いている。逆に日本の水は軟水タイプで、飲用は勿論のこと緑茶、紅茶、コーヒーや料理にも向いている。

「鳥海山自然水」はみちのくの霊峰鳥海山の高山植物やブナの原生林豊かな大自然に降り積もった万年雪が溶けて湧き出た地下水。硬度22㎎/㍑の軟水で、PH6,2の微酸性、適度のミネラルをバランスよく含み、安全で、おいしい水の要素を備えている。今では水を買って飲むことは、日本の一般家庭でもあたり前になっているが、当社が売り出した昭和五十六年頃は、まだ買って飲む人は少なく、大都市等、大量に動くところでないと商売にならないというのが実情だったが、矢島町の観光宣伝と造り酒屋の夏の仕事にしたく商品化したのだった。

時代とともに理解も広がって、秋田の【きりたんぽ】の老舗が鍋セット用袋詰を凍らせて保冷材として組み入れ、水そのものと、秋田名物の宣伝にも一役買ったり、手軽な500mlと、大容量の2㍑ペットボトルの商品も発売してお客さんの要望に応えている。

現在全国的にミネラルウォーター市場は伸長を続けている。好調の要因としては、飲料シーンの拡大や健康指向の高まりとともに、水そのものに価値を見出した結果、市場の裾野が広がった為と考えられる。

サントリーの調査では、日本の国民一人当たりの年間消費量は、二〇〇五年の14.4㍑から二〇〇六年の18.4㍑へと一年で4㍑も増加した。今後更に拡大し、現在の二倍程度の消費量まで伸びると推定している。

「鳥海山自然水」も販売力では大手に比すべくもないが、鳥海山という大自然の大きな恵みを受け、それを生かしながら地場産品として着実に伸ばしていきたいものである。

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