寒造り真っ只中
代表取締役社長 大井建史
今冬の雪は三年ぶりに平年並みの量ですが、爆弾低気圧と呼ばれる寒波が何度も訪れ、やはり異常気象なのだと考えさせられます。
県内の育苗講習会で東北農業研究センターの長田先生から、「平均気温の変化は無いが、最高・最低の温度変化は大きくなり、農作物の管理もそれに伴って変えなければ成らない」とのお話を伺い、最近多い高温障害や胴割れ等の原因もはっきりし、衝撃を受けながらも納得してきた次第です。
この平均値でものを考えると言う事については、何に対しても同じ事が言えるなと変な納得も致しました。何となく安心感のある平均値でものを考えると大きく間違ってしまいます。本来は異常値にこそ注目しなければならないのに…。近年は経済はもちろん、環境・教育・行政等この異常値が非常に多いですよね!多すぎて「へぇ〜ホント?スゴイネ?ヤバクナイ?」だけで済ませてしまっていましたが、昨今は頭の中の予想や理解ではなく、その変化がむきだしの現実として津波のように押し寄せ、ほとんどが痛みを伴う体感をさせられている訳です。(こんな世の中でも唖然とする程危機感の無い集団も政治家や行政府には多々ある様ですが…)「お酒は安定してて良いね」等と言う事は遠い昔の話となりました。
新年に入ってから中心商品の酒造りが佳境となり、現在は出品用の大吟醸をはじめ何時搾りに入るかの見極めに、佐藤杜氏も最高の緊張に目の色を変えております。昨年から挑戦を始めた「一石仕込み」も、通常仕込みに何ら劣る所が全く無いお酒が出来る事に自信を持ち、今年もフル稼働で(たった三本のタンクですが)蔵の中では出品酒に次ぐ注目の的です。ご理解・新年に入ってから中心商品の酒造りが佳境となり、現在は出品用の大吟醸をはじめ何時搾りに入るかの見極めに、佐藤杜氏も最高の緊張に目の色を変えております。昨年から挑戦を始めた「一石仕込み」も、通常仕込みに何ら劣る所が全く無いお酒が出来る事に自信を持ち、今年もフル稼働で(たった三本のタンクですが)蔵の中では出品酒に次ぐ注目の的です。ご理解・
今期は常勤組から酒造りのローテーションに五名を入れ、杜氏は教育に時間を割かれる事に困惑を表しながらも、技量を受け継がせるため大変頑張ってくれました。前から参加している三人はお客さん状態を脱しつつある様で、蔵の反省会(酒盛り)でも嬉しそうに語ってました。どうやら蔵人のスタートラインには立てた様です。ご苦労様。
天寿の歴史
六)ー7
杜氏の系譜
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
酒造法が科学的に解明されてきた今日でも酒造の各流派的色彩があるものであるが、専ら勘にのみ頼って造られていた時代には秘伝として各地に特色ある酒造法が採られていた。秋田で古くから言われている酒造の流派は、伊丹流とか灘流とか、大山流とかいわれるものである。明治から大正にかけての県内各蔵元が伝来の技法に灘流を加え、更に醸造試験所、日本醸造協会の酒造講習会を受講し、その得た技法を磨いて寒冷地の自分の蔵に適合するように工夫、改良して品評会で成績を上げ、秋田酒の名声を広く世間に知られるようになったのである。(池見元一メモ)
四代目亀太郎は大山流と伊丹流の両方を学び、矢島酒の改良に励んだが、自分の蔵のみならず、妻の実家の「玉泉」叔父の婿入り先の「冨士川」の造りも面倒見たために無理が祟ったのか、その技術を息子の昌助や後進に充分伝える間もなく三十六歳の若さで他界した。
五代目永吉(昌助)はその時まだ十五歳だった。しっかり者だった母トミエと苦労しながら家業を護り、大正三年二十歳の時東京滝の川の醸造試験所で長期講習生として技術を研鑽、矢部偵造、江田鎌治郎、鹿又親など偉大な先覚達の教えを受け、当時の最新技術を身に付けて帰郷、その後酒質は飛躍的に進歩し販売増進の原因となった。
明治、大正の頃の酒造従業員は、蔵元の主人、子弟が杜氏役を勤め、蔵における労務の配分等は「代官」と称する年配者に任せ、蔵人は近くの農家の人々が農閑期の現金収入を得るたの季節労務者の形態が殆んどだった。
造石高が増加するにつれ、所要の人数を住み込み様式で採用し、その勤務振りを見て、当人の希望を聞いた上で常用者として採用し、その内特に優秀な者を選んで杜氏とした。由利本荘の蔵元は殆んどこの形態だったが、県内他地域は杜氏が必要人数を集め、出稼ぎ集団で蔵に入る形態も多かった。また季節労務で杜氏一人とか、麹、酒母などの「役びと」のみの雇用契約もあり、最近はこの形態の方が多くなっている。
五代目永吉は昭和十年代に初めて杜氏を採用したが、秋田市新屋の人で「渡辺兼蔵」という名であること以外、一葉の写真が残っているだけで残念ながら勤務記録は残っていない。