母なる鳥海山
代表取締役社長 大井建史
麗峰鳥海山。標高2236m東北第二の高峰。秋田と山形の県境に位置し、太古より信仰の山として開けていました。今年大物忌神社などが国指定の史跡に認定され、その重要性がさらに認められたところです。出羽富士とも呼ばれる秀麗無比なる鳥海山は、その広大な裾野に母なる山の恵みとして、田畑に水を満たし、海でも魚介類へ栄養を与えています。
その登山口にある弊社では、この鳥海山を仕込み水となる伏流水の水源として、その広大さと抜群の環境を体感して頂こうと、この十年間に渡り「水源探索」のイベントをおこなって参りました。二年前には探索コースの元滝と出壺が「平成の名水百選」に認定され、そのすばらしさを証明されました。
元滝は上流に川のない滝で、岩肌から出る滝そのものが鳥海山の湧き水であり、夏でもひんやりとしたその水辺は、オゾン一杯の安らぎの場となっています。また出壺は写真のように突然その場から川が始まり、数多い湧き水の中でも大変大きく毎分七トンの湧水量を誇っています。近辺の湧き水とあわせると毎分百トンにもなる湧水は、導水路を流れダムの無い水力発電を可能とし、横岡第一・第二発電所として、大正・昭和初期から活躍しています。
また、出壺のある獅子ヶ鼻湿原の近くには、昭和初期に作られた日本初の温水路があります。これは、農業用水として使用するために、水深を浅くし川幅を広げ、段を付けて空気を巻き込む事によって温度を上げるための工夫です。これにより、鳥海山の麓に開拓団等の努力で広大な田畑が出来ました。
知れば知る程その恩恵は膨大なものがあります。水力発電と言うと、莫大な予算をかけた広大なダムが思い浮かびますが、こんなにエコな水力発電を聞いた事がありますか? 自然を生かした先人の知恵に畏敬を感じます。
その恩恵で九月十日で創業百三十六年目を迎える弊社ですが、日本酒も考えてみると、とてもエコですよね。地元の農家が冬場の仕事の無いときに酒造りをやる労働力エコ・原料米は地元で調達でき、精米を如何に白くしても糠は飼料、白糠は上新粉ですからお菓子の原料に使われ捨てる部分がありません。おまけに地元資本で給料しか地元に落ちない誘致企業と違って、法人税等全てが地元に還元されます。
地元農家への貢献も大きく、日本の食文化を守り、さらに世界への日本文化のピーアールにも貢献しています。日本酒が売れると、良い事が沢山ありますね。
ミナサン!!是非ご支援ください。
天寿の歴史
(六)ー16
杜氏の系譜(12)
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
先号で中野杜氏の蔵入りは単身だったと述べたが、私の記憶違いで実は麹師一人を連れての蔵入りだった。昭和三十八年十月杜氏として蔵入りした時は、麹師、酛師、釜屋(蒸米係)など五人の部下を連れ季節労務のチームとしての蔵入りだった。前年の造りを「頭」として過ごした経験から、地元の蔵人の技量を把握し総合戦力を判断した彼は、杜氏として責任を負うからには自分の手足として働ける、それなりの腕をもった蔵人が必要だったと思われる。特に先代社長から﹇売れる酒を造ってくれ﹈と言われたこともあって、杜氏としての最初の造りには相当の覚悟をもって臨んだようだった。(後日談)
彼は私と同年の昭和六年生まれ、当時三十二才の若さでの杜氏昇進は早いほうだったと思うが、温厚篤実、責任感強くしっかりした性格、当初は地元の蔵人や社員との融和に気を使ったようだ。杜氏には技術的なことに兎角自分の考えを押し通す命令型が多い中で、彼は蔵人個々の良さを引き出し、総合的に力をまとめ上げるという型だったので、部下の信頼も厚く蔵は次第に「和醸良」の良い雰囲気になっていった。
酒屋萬流」というが、天寿酒造に流れる花岡先生の基本的な教え、五代目永吉や佐藤広作前杜氏から受け継いだ良き伝統を守りながら、それまで会得した山内流を加味し、時代の技術を取り入れて品質向上に励み、新しい天寿流を作り上げていったと言えよう。
品評会・鑑評会における成績は、広作杜氏時代から県、東北共毎年のように優等賞を受賞していたが、彼の残した成績もそれを上回る立派なものであった。
彼の最初の造りが評価される三十九年の成績は記録にないが、四十年には秋田県清酒品評会の優等賞の中で特に優れたものに贈られる県知事賞、翌四十一年には連続の知事賞と仙台局優等賞、以後退職する平成三年まで、県の品評会では一回の欠落もなく連続二七回の受賞歴、内、県知事賞七回、仙台局優等賞は十七回受賞の実績を誇っている。
全国新酒鑑評会は開催方法に紆余曲折があり、なかなか入賞する型の酒を造るのに苦労したが平成元年遂に金賞受賞の念願を果たした。彼の希望で、ぜひ全社員に記念の金杯をと願われたので、秋田の竹谷貴金属店に依頼し、皆で受賞の慶びを分かち合ったのであった。
販売数量も彼が入社した昭和三十七年に戦前の販売量二千五百石を超えていたが、品質の評価、販売計画、新市場の開拓等が効果を上げ、日本の高度経済成長の波にも乗って飛躍的に業績が伸びていった。彼が退職する平成三年には製造数量で実に380%、販売数量で八千七百石(350%)に達したのである。(四―四先述) 年毎に増える製造量、尻を叩かれるように急ぐ製造設備増設、建物の拡張、(五―六・五―七)蔵人の増員と教育、その大きな変化の中で私の良き相談相手となり製造部門をしっかり支え、先代の「売れる酒を」の付託に応え続けてくれた中野杜氏の功績は計り知れないものがある。
彼は六十才定年にこだわり、会社の強い慰留にも拘わらず平成三年三月後進に道を譲った。退職後は杜氏として他社に移ることもなく、山内村の農協組合長や村会議員などを歴任、社会公共に尽くし、現在横手市山内に健在である。