教学相長ず
代表取締役社長 大井建史
新年おめでとうございます。
十二月中に出張から帰ったら、空港で私の車が見つからないビックリする様な大雪もありましたが、秋田は気候的には比較的おだやかな正月を迎えました。
厳しい贈答市場に喘いだ師走でしたが、08に世界的な三つのコンテストで受賞した純米吟醸「鳥海山」や名門酒会の生酒部門は一般の部M V P。ひやおろし部門は三年連続東の横綱になった「米から育てた純米酒」等が全体を引っ張ってくれ、又、ヤクルト球団若松元監督の野球殿堂入りのパーティーで天寿純米酒をお使い頂いたり、婦人画報新年号で取材記事を載せて頂いたりと、大変有り難い事も続きました。お世話になりました皆様、心から感謝を申し上げます。
人生五十年が過ぎ、天寿酒造に入社して四半世紀・社長として10年が過ぎました。新創業を標榜し、改革・革新に努めてまいりましたが、歴史的に築かれて来た財産の有難さと儚さにも気付きました。当たり前と言う事など無いのですね。『当たり前』を覚える人・教える人・知らない振りをする人・忘れる人。この「人」を「自分」と置き換えても又真なりとも思いますが、天命を知るには程遠い状態であります。
先代五代目が70代後半の頃、小学生の私に「建史、人は運・鈍・根だ。鈍い位に実直に、性根を据えて物事に当たれば運は自ずと付いてくる。」と何度も説かれた記憶があります。目を閉じ耳を塞ぐ事ではありません。基本に忠実であれと言う事だと思います。統制の為販売価格・使用できる米の量が決まっていた売る努力など必要ない時代に、闇米を買ってまで精米歩合を少しでも上げる品質向上に努力した人の言葉です。
昨年11月の株主総会では昭和六年生まれの父・六代目永吉が代表取締役会長を退任し取締役相談役に就任致しました。これまでのご厚情に感謝いたしますと共に、後を継ぎます私共に代わらぬご厚誼を賜ります様お願い申し上げます。
天寿の歴史
補遺
補遺‐1
取締役相談役
六代目 大井 永吉
「百三十周年を迎える天寿の歴史」として天寿蔵元通信に拙文を連載して早や六年を経た。隔月発行毎号一頁の紙面でもあったが、創業の歴史も既に百三十五年目に入っている。
私にしか書けない記事をとの思いで父から聞いた話や、写真、資料を調べながら物語風に書き進めてきたが、ほぼ記憶に残る事柄や材料も尽きてきた感がある。
蔵元通信の編集からは連載を続けて欲しいとの要請もあり、郷土史研究、矢島酒造史研究的になって天寿愛飲家の皆さんには興味が薄くなるかもしれないが、先祖が残した古文書を読み解きながら創業の頃に戻して続けてみたい。また、書き残した事柄が出た時は挿入することにしたい。
清 酒 醸 造 願
清酒醸造営業仕度奉存候間、御鑑札御下ヶ渡被下度奉候、尤、免許料並ニ免許税共、御規則之通上納可仕候、 以上
明治七年八月十三日
秋田県管下商
第四大区三小区
羽後国由利郡
城内村弐百拾弐番屋敷居住
大井永吉㊞
秋田県権令 国司仙吉殿
右之通相違無之、依テ奥印仕候
明治七年八月十五日
戸長 菅原景就㊞
申請は二代目永吉である。初代永吉は文政十三年(1830年)本家五代目大井直之助光曙時代現在地に分家、麴や濁酒を商っていたが、二代目永吉﹇幼名正助﹈嘉永二年(1849年)二十二才で雄勝郡西馬音村佐藤平治家より婿入り、家業を手伝っていたが、明治維新を経て新政府により諸制度が新しく生まれ変わったのを機に清酒製造に踏み切ったとみられる。
清酒醸造の許可は、藩政時代は生駒藩であったが、時の権令(※1)宛てに、戸長(※2)の奥印付きで申請している。
※1 権令﹇県令に次ぐ県の地方長官。明治4年(1871)、権知事を改称して置かれ、同十一年に廃止された﹈
※2 戸長﹇明治前期、地方行政区画の区や町村の行政事務をつかさどった役人。明治5年(1872)の大区・小区制下では小区の長として置かれ、従来の庄屋・名主などから選ばれた。同二十二年町村制施行により廃止。今の町・村長にあたる﹈





