実りの秋
代表取締役社長 大井建史
秋も深まり紅葉も終盤、酒蔵では135回目の酒造りが始まりました。今年は十月二十日から蔵人が入蔵し、作業が始まりました。台風が一度も来ない今年の米は、かなりの豊作に成るようです。世界的に農作物も不足気味で価格上昇していますが、日本の米は余り続け生産農家は低価格に喘いでいます。農協は米価の値上げに必死なのですが、豊作でどうなるかは判りません。
実はこの夏、仕込み蔵の壁がだめになり、土と綿の断熱材を全て取り除き、柱も全て取り替えました。船場の壁・蔵人風呂場も蟻にやられ、予想外の大工事になってしまいました。また、杜氏との懸案であった洗米と脱水・米の移動等の改善の設備投資や修繕など、今年も向上の為の変更点が色々とあり、嬉しくもせつない私であります。
話は変わりますが、先日郡山で農業のあり方の理想に近い方とお会いし大変感銘を受けてきました。鈴木農場の鈴木光一さん(農大精神ここにありと農家でなくても興奮してしまうご講演でした)とけるぷ農場の佐藤喜一さん、そして精神的支柱になられているタウン誌こおりやまの編集長伊藤和さん。農協に頼らず、地元での消費だけを考え東京(大消費地)を向かない農業。自らその圧倒的な品質と種類で販売ルートを確立した、すさまじくたくましい実践活動に、日本の農業の希望を見た思いで、私は大変感動いたしました。
日本で捨てられる食料の量で貧しい国の人々がどの位飢えをしのぐ事ができるか良く報道されますが、それがどれ程異様な事なのかさえ良く判らなくなった日本人。少し曲がった野菜は店頭に並べない日本の流通。自給率の向上や食料の安全を標榜しながら、何が地元で・国内で出来るかも知らず、シロアリのように刹那的に価格や見た目に走ったが為に、大事な地元の産物や生産者を如何に無くしてしまった事か。自然の摂理に従い、暑いときには体温を下げてくれる夏野菜を食べ、寒いときには体を温めてくれる根野菜を食す。
食物を育て収穫し料理し今いただくことが出来る幸せ。「いただきます」と心から言う人は何パーセントいるのかを考えさせられ、また、深く反省させられました。
政治も経済もバタバタとしております。凡人になかなか心頭滅却など出来ませんが、子供たちの世代を考えると「地球人としての思考」が如何に大切か本当は皆が判っている事なのですよね。「貧すれば鈍する」等と、言い訳している場合ではありませんね。
天寿の歴史
(六)ー11
杜氏の系譜(7)
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
杜氏ではないが、このシリーズに是非記しておきたいことがあった。
この度、蔵人の大先輩木村佐吉さんが目出度く百歳を迎えられ、先日親族の祝賀の席に招かれた。一斗の菰樽を進呈、本人と私で鏡開きとなり、大変和やかな雰囲気の中で楽しいひと時を過ごさせて頂いた。
足が弱り家の中でも歩行に杖が必要になっているそうだが、話すことはしっかりしていて昔の記憶も確かだった。話しによると佐吉さんは昭和十三年、三十歳(私の小学校入学の年)からの勤めだそうだが、最初は外回りの仕事だった。その当時は米を蒸すにも、火入れをするにも、湯を沸かすにも、すべて大きな和釜で、竈の燃料は薪であった。大量の薪を必要としたために会社でも雑木山を持ち毎年切り出していた。彼の生家は持ち山の近くだったためか、その薪運搬から縁ができた由。当時の杜氏渡辺さんが、一服しているところへ来て労をねぎらってくれたことも記憶にあるとの事、佐吉さんは渡辺杜氏に仕えたことはなかったが、私の回りでは渡辺杜氏と関わりのある現存唯一の人である。
蔵に入ってから様々な仕事をしたが、「蒸かし堀り」(甑の中に入って蒸米を運搬用の小桶に移す)だけは強度の近視で、眼鏡を外すと見えなくて駄目だったと言っていた。戦中戦後の困難な時期、大半は酒造りで最も大切な「製麹」を担当し、真面目で実直な性格は信望も厚く、終わり頃は頭(かしら)を務め、昭和四十八年、三十五年間の大きな功績を残して勇退された。
“この酒で百歳まで”のキャッチフレーズで「長寿の酒」を謳い文句にしている天寿酒造にとって、天寿を醸し天寿を飲んで百歳まで生きられた木村佐吉さんは、将に天寿の「生きた看板」であり、「生き証人」である。心から祝福し、更なる長寿をお祈り申し上げたい。