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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

吟醸搾り真っ盛り
2007-03-01

吟醸搾り真っ盛り

代表取締役社長 大井建史

蔵内で大注目の大吟醸の搾りが(2月26日)始まりました。当然もろみの状態に合わせて予定を決めます。弊蔵では今年のもろみ日数が例年より長めに推移しておりましたが、搾り始めたら連続になりそうで、杜氏を初め蔵人は慌しく作業に追われています。

今年は常勤社員を技術継承のため、三名酒造りの工程に参加させております。この頃、杜氏やベテラン蔵人からも「顔つきが変わってきた」と言う言葉が聞かれるようになり、嬉しい事だと思っています。「常に自らの責任でより上を目指す」雰囲気と、個人の作業責任が大きい環境の中で、学習と自身の責任の重さに毎日疲れきっていたようですが、ここに来て意欲とある程度の自信が付いてきたのでしょう。もちろん、これからが修行の始まりなのですが、前向きな姿勢に育ててくれた事を蔵人の皆に感謝したいと思います。

異常気象

大雪の昨年とは正反対のこの冬、一月・二月とも雪が全く有りませんでした。75歳の会長ももちろん初めての経験でした。今から今夏の水不足の心配がされており、大雪に不作なしと言われておりますが、今年の稲作はどうなるのかとの不安もあるわけです。

酒蔵開放(二月十日)はお蔭様で1540名の受付を頂き、大変盛況に終わる事ができました。ご来場頂きました皆様に心からお礼申し上げますと共に、ボランティアスタッフとして運営にご参加頂いた皆様にも重ねて御礼申し上げます。(ボランティアの皆様のお力が無ければ、酒蔵開放は成立しないのです)このイベントで雪室封印を行います。例年ですと蔵の軒の雪で間に合うのですが、今年は純米生酒のタンクを雪で覆うのに、ダンプのレンタカーを借りて二十台分の雪を山から運び、断熱材で外側を最初から厳重に覆いました。もちろん初めてのことですが、四月末の封印開封まで先が思いやられます。蔵内も雪に覆われたかまくら状になっていない為、激しい温度変化に酒造りも息を抜けない状態です。

地方格差

平成の大合併から二年が経とうとしております。一市七町の合併で全国で11番秋田では一番広い市(神奈川県の半分の面積)となりましたが、人口分布・教育・経済等が激変期に入ってきた事を体感しております。市部への一極集中は極端に進む気配があり、エリアの小中学校の三割近くが複式学級(一学級に複数の学年が同居)が必要に成りつつあり、近年中に更にその数が増えるのが目に見えている状態です。我が矢島地区もその例外ではなく、最大規模の工場が旧本荘市の工業団地に集約されるとの噂があり、現実になれば人口激減の危機となります。(それが無くてもこの五年間人口五千の地区で毎年百人の減少が続いていました)次代を担う若者達がどんどん地元を離れていく中、スーパーの進出に地元商店や飲食店は減少の一途をたどっており、農家の後継者が何割くらいいるのかは恐ろしくてとても聞けないような現状です。

ここまで来ると全国的な均衡ある発展等は寝言であり、現実的な地方の有り方・農業の保全・子供達の教育機会、環境の均等などを早急に明確化しないと、荒廃した地方と、勘違いした驕りに満ちた都市だけの国になってしまうのではないでしょうか・・・。

天寿の歴史

(六)ー1

新商品開発‐〔ミルシュ〕‐1

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和三十三年、時の町長佐藤直太郎氏の政策により、鳥海高原の矢島町花立地域が北部鳥海山麓集約酪農地域に指定され、オーストラリアからジャージー種乳牛を導入したのは同三十四年。三十八年には農業構造改善事業により花立畜産センターを設置、牧場としての機能も整備され町の産業として発展を見た。続く茂木、宮塚、佐藤の歴代町長も花立地区を酪農振興の拠点として拡大充実を図り、同時に観光の面でも相乗効果を考えた開発に努めスキー場、キャンプ場の整備を始め、現在第三セクター(株)鳥海高原ユースパークが経営にあたっているコテージ、山荘、レストラン、ラグビー場、宿泊施設ユースプラトー、ゴーカート、パークゴルフ場などが次々にスポーツ・レジャー施設として開設整備された。平成十三年四月には牛乳加工施設ミルジーも導入され、飲料ジャージー牛乳の処理のほかヨーグルト、ソフトクリームの製造販売も行うようになった。花立地域はこのように半世紀に近い開発の継続で町の観光産業の重要な拠点として位置づけられるに至ったが、今後も広く〝面〞としての鳥海山観光の重要な地域として発展することを期待したい。

ジャージー種の牛乳はホルスタイン種に比べて栄養価が高く、コクのある味わいが特徴とされる。牛乳そのものに町の特産品としての価値があっても更に付加価値を高めようと考えるのは当然のこと、特産品開発に力を入れていた宮塚町長は矢島高校に酪農科があった昭和三十五年頃、二種類の乳酸飲料が開発されていた事を引き出し、平成元年その製造特許について県の総合食品研究所・醸造試験場と協議し、試験場で試みに発酵させたところワインか発泡酒になりそうとの感触を得、平成二年から三年間酒類化について研究を依頼した。

平成四年、天寿酒造では商品化について町から依頼があったのを受けて、佐藤俊二(現杜氏)が担当、試験場の基礎研究資料を基に、酒造期を除く日常業務の合間に三年間の苦労の試験醸造を重ね、平成七年十二月に数種類の試作品を完成した。製法は牛乳から乳脂肪成分を分離除去しワイン酵母を加えて発酵させるもので、原乳に含まれるビタミンやミネラルなどはそのまま残され、透き通った淡い黄緑色でヨーグルトのような香りを持つシャンパン風の美容や健康に良い女性や若者向きの酒に仕上がった。町の各層から試飲チームを募り試飲を繰り返して品質を決定、同八年八月発泡性乳酒飲料の製造方法特許申請、同九年一月に酒類製造免許を申請、七月には認可を得て本格的な醸造を開始した。

平成九年十月、着想から七年を費やし遂に発泡酒「ミルシュ」は完成した。ネーミングはすでに八年四月に町が公募決定して商標登録し、ラベルデザインも決定されていたので、直ちに矢島町特産品〝ジャージー牛乳から生まれたヘルシーな発泡酒「ミルシュ」〞のキャッチフレーズで売り出した。

平成九年には県特産品開発コンクール最優秀賞、平成十三年には優良ふるさと食品中央コンクールの国産畜水産品利用部門において農林水産大臣賞を受賞した。

新年おめでとうございます
2007-01-01

新年おめでとうございます

代表取締役社長 大井建史

昨年とは打って変わり、今年の正月は雪も殆んど無く、静かで穏やかな正月を迎えました。昨年中は皆様には大変お世話になり、心より御礼申し上げます。

酒蔵の作業は、暖冬の高温と例年より割れて溶けやすい米ではありますが、その対策も順調に推移しており6日からは出品酒の仕込が始まります。杜氏が見学のお客様に「かえって闘志が湧きます」とお答えしているのを聞いて、苦笑したしだいです。

この酒蔵通信をスタートしたのが 年でしたので、今年で9年目になります。社長になる寸前に所信のつもりで「思い」と言う文章を書き、創刊号の2ページ目に掲載いたしました。また、 年1月「新世紀・新創業の時」を読み返し思いが溢れ、社長になってからのこの8年を振り返り、初心を新たにしなければとしみじみと思う正月となりました。

今更であるのかもしれませんが、毎日のように唱える事によって、沁みてくる言葉と薄れていく言葉があることにも気が付く事が出来ました。

変革とそのスピードの維持を心掛けて参りました。確かに社長になる前の十数年とは比較にならないスピードで変わりましたが、私の非才故に、社会の変化はそれを上回っている事を認めざるを得ません。今の体制が三年前・五年前だったらと私が思ってしまうのですから。自分の尺度が、この間何センチ伸びただろうか、変革の能動者として十分に活動をしただろうかと、青年のように考え込む自分を発見してしまいました。

今年は私も年男、息切れしない範囲で、猪っと猪突猛進してみようと思っております。

今期も12月に農大の研修生を受け入れました。そのレポートに我々の成果とも言える嬉しい事が書かれておりましたので抜粋いたします。

(この蔵は「和醸良酒」という言葉がとても似合う蔵だと思います。

杜氏さんが一人で蔵を引っ張っているのではなく、蔵人さんみんなでお互いを高め合っていて、いつもすごくいい雰囲気です。

この蔵のさらに尊敬するなと思ったことは、蔵人さんの半分以上が酒造検定1級を持っているということです。

みんなが酒造りを熟知しているからいいアイデアがたくさん出ます。

そして出たアイデアをこの蔵はすぐに実行できるところがまたすごいところだと思います。

実行するにはお金もかかるし、機械の改造なんかは逆に壊してしまうというリスクもあるのに、それを許可してくれるこの会社もすばらしいなと思います。

この2週間の実習でこの蔵の発明品をいろいろ教えてもらいましたが、僕が気づけなかった発明品がまだまだある気がします。

また何年たってから来るとさらに進化してそうで楽しみです。 この蔵で実習ができて本当によかったです。)

だから続けていけるのです。気付かせてくれるのは、何時も周りの皆様です。本当にありがたく思います。

今年も精進してまいります。品位を高めてまいります。この蔵人達の心栄えに、今年もご期待ください。

天寿の歴史

(五)ー7

製造場建物の変遷ーⅤ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

壜詰工場火災の時、水利と延焼防止に大きな役割を果たした〝千砂利川〞は市街西北部を貫流し、当社敷地内も横切って流れる小河川で、普段は水量も少なく自然流水の穏やかな川だが、梅雨どきや雪消えのころ大雨が降るとよく洪水を起こし、酒蔵の中にまで水が入りこむことがあった。鳥海山の特殊気象地帯、豪雪地帯である矢島地区は豪雨になることが多く、毎年の降雪量も多い。開発が進むと河川が急速に出水し氾濫するようになるが、当時町の為政者は道路の整備と共に氾濫を繰り返す河川の改修にも力を注いだ。 昭和五十五年〝千砂利川〞の改修が始まった。川巾も広げ川底も舗装し流れをよくする公共工事だが、予想される最大流量に見合う巾と深さを確保しなければならないと言う。そのために当社は川岸ぎりぎりに立つ醸造棟部分の作業場の解体を余儀なくされ、土蔵の入り口前が狭くなって、タンクの出入りが不可能になる設計だった。

幸い昭和四十三年に百石タンクを並べられる貯蔵庫、四十五年には二百石タンクを収納できる貯蔵庫を新築、四十七年には精米所も新築し,すでに仕込蔵も改築してあったので、この際一番古い部分の近代化を図るべく、我が社の歴史を証明する創業時(明治七年)建築の一号蔵は残し、思いきって他の二つの土蔵は解体、木造作業場は移築することを決断、新たに一部二階、鉄骨造陸屋根の製品庫、連結して酒母室、原料処理場の建設に踏み切った。ところが一号蔵が工事中に段差のところから土台が崩れ、その影響で梁も大きくずれて壁も落ちてしまったので、止む無く入り口の観音開きと土戸、格子戸を残こすのみで本体は新しい材料での改築となった。

百年の歴史と伝統を感じさせる建物は住宅部分を除いて殆ど消失してしまうことは実に残念なことであった。人びとはそれを発展の証だと言うが、敷地に余裕があればそれを活かしながら新しい建物に調和さることも出来たと思うが、ぎりぎりの状態では如何ともし難かったのである。 天寿の歴史では未だかつてない大規模な新改築、それに伴う多額の投資であったが、完成後は一日の仕込み量も大きく、作業効率も数段良くなり酒質の向上にもつながり、またコストダウンにも大きく貢献したのである。

その後六十三年に低温貯蔵庫改築、平成一年上槽場改築、平成九年自動製麹棟新築、同十三年独立冷蔵倉庫新築と設備の充実を重ね現在の状態に至っている。改修後の〝千砂利川〞の洪水は一度も起きていない。

「やりがい」
2006-11-01

「やりがい」

代表取締役社長 大井建史

矢島の里もすっかり秋の景色となり、静寂に包まれていた酒蔵も10月25日から百三十三回目の造りが始まり活気が出て参りました。

契約栽培グループである天寿酒米研究会産の米は、平年作をキープした様ですが、春の長雨・日照不足や、夏の高温による障害が無いか慎重に精米している所です。

今年の酒造りでも、一歩前進の為の課題が多々ありますが、定年退職等での減員により、担当が替わり蔵人になった常勤社員の教育が大きなキーポイントになりそうです。彼らの頭の切替え・モチベーションが、ベテラン職人の働きにどれだけ付いて行けるかが試されます。人は自分の物差しが受け入れられなかったり、無理やり伸ばされるときは、その物差しを守ろうと強い反発を持ちやすくなります。新入社員ではないので、社内的な甘えをどれだけ控え、切り替え、挑戦して行けるかは、私や杜氏のリーダーシップももちろんですが、全くその人間の人生に対する姿勢としか言い様が無いのかもしれません。

10月は、まさにお酒のイベントのオンパレードでなかなか家に帰れない日が続きました。どの会も日本酒の啓蒙活動的な物ばかりですが、持ち出しも多く酒蔵同士の根競べの様相も呈してきている感じです。

吟醸酒協会の楽しむ会などはお客様が千名を超え、女性や外国の方も多く、日本酒業界が低迷をきたしていることなど想像も出来ない様な活況でありましたが、製造量の九割を地元で販売している典型的な地酒蔵の弊社としては、地方との格差に頭を抱えてしまう思いにもなります。

しかし、嬉しい事にこの会のなかでも、弊社のお酒三点がお客様の注目を集めておりました。あの数時間の中でも口コミでお客様が集まって来るのです。出品酒レベルでの「鳥海の雫」・食べながら飲みたい吟醸としての「純米大吟醸」・リーズナブルな価格とその品質で「純米吟醸鳥海山」この反応とお客様の笑顔があるから、私たちは挑戦を続ける事が出来ます。

新たな挑戦として、長年参加している八壺会が発起人となり「旬どき・うまいもの自慢会」を始めました。是非ホームページをのぞいて見て下さい。

天寿の歴史

(五)ー7

製造場建物の変遷ーⅣ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

ニ度あることは三度あるの譬え、三度目は昭和五十四年三月二十六日の瓶詰工場火災であった。防火管理体制、意識の欠如としか言いようがないが、当時瓶詰め製品の搬送容器は殆どが木製の桟箱で、修理の効かなくなった廃箱が大量に発生したため、それを燃料とする湯沸し付き焼却炉を瓶詰め工場内に設置していた。その日は作業開始と同時に炊き始めたようだが、焼却炉の過熱が煙突の眼がね石の不完全から木造内壁の燃焼を惹きおこし、火の回りが早く忽ち天井の方へ燃え広がり備えの小型の消化器ではどうにもならなかったと言う。

朝火事で消防署と地域の消防団の駆けつけが早かったのと、工場敷地内を流れる千砂利川の水利、巾がほんの5~6mの小河川だが、この間隔が川向かいの醸造蔵棟への延焼を防ぐ結果となった。また地元と隣の丁内の消防分団が大変な決断でポンプを敷地内、工場内深く曳き入れ消化に当たってくれたことも大きな力となった。

一時は延焼の恐れから駆けつけた多くの人々が事務所の重要帳簿類、家財道具を近所の家々に箪笥の引き出しのまま預けたり、細々した生活用品まで運び出し、また治まってから運び戻して下さったが、何一つ紛失した物もなくまた多くの励ましを頂いた。心から人びとの善意に感銘し情けを有り難く感じたことだった。

事故以来三月二十六日を防災記念日とし、毎年消防署の指導の下に火災報知器を作動させ消火栓のホースから水を出す実際の消火訓練を行い防災意識の高揚を図っているところである。

幸い隣家への延焼は食い止められたが、瓶詰工場は全焼・休憩所や二階研修所、食堂・厨房など社業関連部分半焼、土蔵の文庫倉にも火は防げたが煙が入った。私が社長に就任して最初の大きな試練だった。

たちまち困ったのが在庫製品の欠品である。日頃から品質管理と製品の回転を考え出来るだけ在庫を抑えていたので、間もなく在庫切れになった。社の瓶詰ラインは当然使用不能、他社のラインをお借りするしか方法はない。有難い事に同じ矢島町内近所の佐藤酒造店さんが自社の空き日に使わしていただく便宜をはかって下さり、危機を凌ぐことが出来た。これまた感謝に堪えない次第であった。

早速瓶詰工場の再建に取り掛かった。前の工場はすでに狭くラインも能力不足であったので、思い切って文庫蔵(明治ニ十四年四代目建築の土蔵造り)を解体し床面積616平方メートルの建築面積を確保、ボイラー室とトイレ、一部ニ階に物品倉庫と和室40畳の研修場(一尺角の杉の床柱は当時の大井製材所が納めたもの)を持つ鉄骨造陸屋根の不燃建築とし、ラインも洗壜機を連結1,8リットル壜 時間2000本の能力のものを設置した。完成後飛躍的な能力アップにより効率化が図られたことは勿論のこと、従業員の作業環境も大きく改善された。

建物の設計は山脇健氏、施工は山科建設(株)である。

「コミュニティー」
2006-09-01

「コミュニティー」

代表取締役社長 大井建史

低温で大雨の続いた梅雨でしたが、梅雨明けから順調に晴天が続き、米の受粉期も無事に過ぎ、酒米研究会の田圃は今の所順調です。十八年ぶりに我が母校の本荘高校が甲子園に出場しました。弊社営業土田の長男も出ましたが、一回戦天理高校と対戦。健闘しましたが、初戦を飾る事は出来ませんでした。ザンネン。

その後、お盆過ぎまで真夏日が続いておりましたが、最近は朝夕に少し涼しさが出てまいりました。九月の十日には三百年の伝統がある矢島の八朔祭が執り行われます。前日の宵宮から情緒あるお祭ですが、42歳で若者も卒業ですので、私も祭から離れて5〜6年になってしまいました。祭の運営も高齢化と人口減から、山車を構成する六丁ともメンバー不足で大変なようです。地方のこの様な行事は、同様の理由で本当に大変になってきました。矢島小学校は長女の頃は3クラスでしたが、今では1クラスの学年が出始めました。

阪神の大震災以来その土地のコミュニティーが大事だという事は首相も話していますが、中央がやる事は東京基準でその土地に生きていないので、その破壊を加速する事ばかりです。例えば一月十五日が休日で無くなったことで、どれだけ多くの小正月行事が消えたか、判っているのでしょうか。東京だと成人式の移動しか思い付かなかったのでしょうね。矢島では才の神焼きという行事があります(ある高名な人文学者によると、新潟から秋田南部の地域に残るこの行事は仏教伝来前からのものとの事です)。私の町内も私が子供のころは、小・中学生30人から40人の子供達が集まり準備が全部出来ましたが、今では全員集まっても7人しかおりません。昔から十五日に開催している行事の日にちを変える事に抵抗を感じる方もあるようですが、親はその行事の為に会社を休む事もできず、なかなか解決できない問題となり、町内によっては休止と成った所も有りコミュニティー活動阻害の原因になりました。

この様な問題を考えていると、今の年金問題が浮上してきます。日本で一番出生率の低い県に成ってしまっておりますが、対策で出てくるのは、出産費の補助や、保育園費の補助等ですが、解決策には程遠い状態です。日本の年金は子供の世代が親の世代の年金を払う方式となっております。今の時代に少々の扶養控除だけで子供を育てた人たちがその子供たちから年金を払ってもらうのは判りますが、忙しいとか子供は作らない代わりにゆったりと暮らそう、又は親元から離れず結婚もせず一人で暮らそうと考えた人たちと、子供を一生懸命育て上げた人達が、同じ条件で年金を貰うというのは、おかしいのではないでしょうか?中には子供が出来なかった人もあるでしょうから、不穏当な表現もあったかとは思いますが、客観的に子供を育てる事で、どれ程のお金が掛かるかを考えた場合、年金の為の税金が子供を育てなかった人と平等であるのはおかしいと思うのですが…。(実はある人の考えの受け売りなのですが、まさにその通りであると思いましたので書かせて頂きました)子供を育てない人へ の課税又は年金の減額。まさに結婚・出産促進への決定打ではないでしょうか?

130周年を迎える 天寿の歴史

(五)ー6

製造場建物の変遷ーⅢ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

酒の醸造技術は、容器の大きさに合わせて進歩してきたと言われる。鎌倉時代「甕」と言う大型の土器になったとき、江戸時代「桶」という大型の木製の容器になったとき、そして昭和初期現在の「ホーロータンク」という鉄製の容器になったとき、と大きく分けて三度の容器革命があったと考えてよい。技術の進歩とは、よりよい製品を生み出すための努力の蓄積である。大きな容器が開発されると、それまでの小さな容器による醸造技術をベースに、大きな容器のための酒造技術の開発が進んだ。

昭和三十年代からの日本の産業発展の中で、清酒の需要もしだいに増大し、五十年には一千万石に達したが、大手による生産の大型化とそれに伴う機械器具の発達、技術の進歩 、また、建物も土蔵から鉄筋コンクリート造空調設備の四季醸造工場にすることよって年間の大量生産が可能になった。地方の中小蔵も殆どの作業が手作業であったものが急速に機械化、自動化がすすみ、家業であったものが企業化していった。しかし、生産の集中が過度に進み、販売競争が激化し、大量生産の安酒が大量に出回る結果となり、中小零細蔵は縮小、合併、廃業に追いやられる一方で、昔ながらの手作業による吟醸酒など品格を備えた良酒が市場で力を得ることで、いわゆる二極化がすすんだ。

大量に出回る結果となり、中小零細蔵は縮小、合併、廃業に追いやられる一方で、昔ながらの手作業による吟醸酒など品格を備えた良酒が市場で力を得ることで、いわゆる二極化がすすんだ。

大きな工事(投資)を決断するには、それなりの切っ掛け、転機というものがあるが、天寿の場合工場火災と河川改修がその大きな原因となっている。実は私が物心ついてから現在までに三回の自己失火による火災があった。一回目は私が保育所の頃で、後年伝え聞いた話だが昭和十二年冬、造りの最中であった。その頃は《もろみ》が冷えこまないように木桶の外側に藁菰を巻き、更に極寒には大鉄鍋に灰を入れた火鉢に炭火を熾して仕込庫の温度を保ったようだが、その炭火が撥ねて菰にうつり大事に至ったという。土蔵造りだったので火はその庫内だけでおさまったが、仕込み中の酒は駄目になったと言う。夕方まで残されて帰った六才の私の目に映った興奮鎮まらぬ大人たちの動き、慰労の酒席の消防半纏のひと人の高声、家中の煙の臭いなどが記憶の底に残っている。

二度目は二十六年八月盛夏、私が大学に入学した年の夏休みで、高校時代の友人と川泳ぎに出かけ、終わって田んぼの畦道をぶらぶら近くまで帰って来たときのことだった。サイレンの音に驚いて探した煙の方向があやしい、必死に線路の土手を駆け上ると家の倉庫から火の手が上がっているではないか、その時のショックは今でも忘れることが出来ない。

当時麹室の断熱は藁と土で、毎年解体して天日に干し秋の造り前に新藁を足して床下、四側面、天井にぎっしり詰め込み最上面を土で覆って断熱していた。麹室作りはその年の麹の出来に影響する大切な、しかも難儀な仕事であった。その解体した藁を取り込んでいた裏手の木造倉庫からの失火で、高温、乾燥期であったので火は忽ち隣接の桶の枯らし場を焼きつくし更に別の木造倉庫に移ったが、昼火事で消防団の出動が早かったのと土壁の倉庫だったことがそれ以上の延焼を食い止めたのであった。

その頃は製造、貯蔵とも既にホーロータンクに代わり木桶は殆ど使っていなかったが、大小五十本からの木桶を消失した事は大きな損失であった。

「金賞を受賞しました」
2006-07-01

「金賞を受賞しました」

代表取締役社長 大井建史

全国新酒鑑評会が広島で行われるのは本年度が最後と言う事でしたが、お蔭様で金賞を受賞いたしました。これで杜氏も就任以来四年で三回目の受賞です。造りの方針として今年の大吟醸は、受賞傾向とは異なっても「天寿らしいキレイでふくらみのある物を」と信念の造りをしましたので、受賞の報に佐藤杜氏のほっとした顔は見ものでした。

全国新酒鑑評会は、「地域の特徴が無くなる」「市販酒として良い酒なのか」等々、色々と意見の分かれる所ではあります。過去に多くの受賞暦のある蔵や大手の蔵では「鑑評会の役目は終わった」と言う所もありますが、本当にそうでしょうか?その中に連続受賞によりブランドを確立した蔵が何社有りますか? 今、頑張っている蔵の芽を摘むことになりませんか?そして何よりも各酒蔵での最高の緊張感を持った酒造りの期間を失うことになりませんか?もちろん誰もが酒造り一本一本に心血を注いでいます。しかし、これこそが今年一番の酒と定め、それに全身全霊を込める事が、その年の酒造りにメリハリを付け、ベテランにもよりいっそうの向上に挑む場を与え、士気を高めるものだと私は考えるのですが…。

ホームページ一新

悲しいぐらいに時間がかかってしまいましたが、ホームページのリニューアルが出来ました。これまでのトップページは「すごく暗い」と言われながらも八年近く使い続け、(と書いたとたんに顔に汗が出てきました。)時間が掛かった分内容が良いかどうかは別ですが、これまでよりは大分見やすくはなったかと思います。メールマガジンの配信も通信の郵送回数より、さほど多いとは言えませんが、是非皆様にご批評をいただければと存じます。弊社商品の県外への販売は、全体量の7〜8%しか有りませんので、天寿の買える店・飲める店の情報を充実したいと考えておりますが、恥ずかしながら営業力の不足により、どのお店で天寿の何が買えるのか(飲めるのか)が良く判っておりません。お取引を頂いているお得意さまに於かれましては、ホームページに載せさせていただきますので、メールにて是非情報をお寄せ下さいます様お願い申し上げます。

郵送で、通信をお読み頂いているお客様で、メールニュースの配信でも良いとお考えの方がいらっしゃいましたら、ホームページから天寿プレミア倶楽部にご入会ください。7月20日までにお申し込み頂いた方の中から抽選で十名様に雫取りの金賞受賞大吟醸(これぞ出品酒)720mlをプレゼントさせて頂きます。

イベント参加御礼

最後になりましたが、「落語と天寿を楽しむ会」「雪室氷点熟成酒解禁パーティー」にご参加いただきました皆様。本当にありがとうございました。落語は今年も鳳楽師匠に感謝感謝の100名満員御礼。解禁パーティーもワインのヌーボー感覚の会ですが、四店合計で240名を越えるお客様と楽しく過す事が出来ました。

イベント報告

イベント報告

解禁パーティー

4月28日開催

まだ雪深かった2月11日、弊社の蔵開放イベントで、「しぼりたて純米生酒」をタンクまるごと雪の中に封印する、雪室氷点熟成を行いました。

そのお酒の解禁日を4月28日とし、タンクの呑みを切り、その場で瓶詰めしたお酒を味わい楽しむパーティーを開催いたしました。地元である、「ホテルまさか」「居酒屋三太」「たつみ寛洋ホテル」と、秋田市の「瑠璃亭」の4店に、瓶詰めしたばかりの「雪室氷点熟成純米生酒」を持ち込み、今年の出来をいち速く確かめて頂きました。

当日は、240名を越えるお客様がご参加下さり、氷点熟成の特徴であるトロリとした口当たりのお酒を口に含むと、「美味しい!」との歓声が… 何よりも嬉しい瞬間でした。

今年で2回目のこの企画ですが、より多くのお客様にご参加頂けるように、会場の増加と楽しい内容をと、早くも第三回に向け意欲満々のスッタフです。

第3回 落語と天寿を楽しむ会

5月27日開催

鳳楽師匠は、「昭和最後の名人」と言われた三遊亭円生(故人)の孫弟子にあたり、間もなく円生の名跡を継ぐとも言われている人情話の第一人者で、平成5年には文化庁主催の芸術祭賞を受賞し、約400題というネタを持つ名人。「日本の酒と食の文化を守る会」のご後援により、酒蔵での寄席は全国18の酒蔵で開催されています。「本格的な落語が地方で聞ける」と地元の方々に大変喜ばれ、当日は限定100席がすべて埋まる盛況ぶりでした。 16時より始まりました鳳楽師匠の古典落語2題「味噌蔵」「唐辛子屋」に、笑ったり、ホロリとしたり…師匠の芸を満喫されていました。その後、師匠にもご参加いただき、当日限定の「金賞受賞酒」や、社員が地元の食材にこだわり調理した料理を楽しんで頂きました。

師匠の落語は言うに及ばず、金賞受賞酒・花酵母商品や手作り料理にお褒めと労いの言葉を頂戴し、今後に更なるファイトを燃やしております。ご期待下さい!

「皆造後の酒蔵は」
2006-05-01

「皆造後の酒蔵は」

代表取締役社長 大井建史

今年の酒造りもすっかり終り、四月二十一日には季節の蔵人が皆家路に着きました。

桜のつぼみが今にもほころびそうな気配の中、酒の熟成を見守るように、造り蔵は静寂に包まれています。今年の大雪による雪害は、雪が消えると次々に現れ、屋根や壁の折損等、なんと九箇所に及びました。

酒造りの方は非常に順調で、蒸し米の究極の含有水分の確認や、温度制御の確認、仕込み水の有効活用、洗米・蒸し米の比較試験等々、様々な成果をだして参りました。技術開発投資ですから、せっかく準備した物が不要になる事もあります。経営に当たる人間としては、杜氏や蔵人が酒造りに望む設備環境を作るのが仕事ではありますが、時にぼやきたくなるのも事実です。

前回も少しふれましたが、五月一日に酒税改正が実施されます。天寿商品も一部改定されます。私が天寿に入って二十一年間に何度も価格改定はありましたが、値上げの記憶は一度しかありません。その他は全て酒税の増税、または消費税の改定です(+消費税を最初は内税表示、その後外税表示、なぜかまた内税表示にされました)。これは、あまり知られてないと思いますが、現在課税移出千三百kl (七千二百石)以下の中小酒蔵に対し、経営支援のための酒税軽減処置(租税特別措置法)が有り、これが、昨年まで酒税の30%、今年と来年が25%、再来年からは打ち切りとなります。この法の打ち切りによりかなりの酒蔵が廃業に追込まれるだろうと言われております。

今回の酒税改正はワインとの酒税格差を縮めた事には意義があると思いますが、国会を通って実施までの期間が短く、秋田での改正法の説明会は4月18日でした。流通からの改正後の価格提出は二ヶ月前から求められ、変更の可能性のある、議論中の改正案に対しての検討を始めましたが、議決されない法については監督官庁も質問に答えられず、疑問だらけのままの突入となります。増造酒の廃止にしても、皆造後の実施の為、試験できるのは五月以降も酒を造る三季または四季醸造している大手の酒造会社のみとなり、大変な思いの地方蔵が沢山有ります。

この様な状況の中、各酒造会社から新価格が発表されましたが、大きく三つのタイプの実施になったかと思います。①全製品減税額分値下げ(低アルコール酒は値上げ・大手型)②一部製品変更(特定名称酒・贈答品・小瓶等は据え置き地元レギュラー酒値下げ対応) ③全製品据え置き(据え置く事により酒税減税分の値上げ)となり、弊社は②型を選択させて頂きました。改定により減額される酒税相当額を販売価格から減ずるのが本来でございます。しかし、長年にわたり酒税増税以外の価格変更が出来ず、酒税軽減処置の廃止が目前にせまり、最近の石油関連の高騰を代表とする長年の原価の増大により、価格を据え置き、酒税減税分の値上げをさせて頂く事と致しました。しかし、地元で最も多くご愛顧いただいております、精撰1.8L・酒パック1.8Lの商品は、なんとか努力して下げ対応をさせて頂きました。

今後も益々、製造過程の高度化等に取り組み、品質の向上に努めますので、何卒、事情ご賢察の上、ご高配賜りますようお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史(五)ー5

製造場建物の変遷ーⅡ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和四年十二月十一日の本荘税務署受付印がある製造場図面が保存されている。製造場の新築、増改築等免許場に変化のあった場合には届ける義務があるので、恐らく設備に大きな変化があったのであろう。明治十六年の記録から四十年以上の歴史を刻んで規模も拡大し、酒蔵として必要な施設設備を備えまとまった形が出来上がっている。三代目、四代目の努力の足跡がはっきり判る図面である。五代目の話では戦前で売り上げを二千石まで伸ばしているが、昭和初期、ホーロータンクという当時としては革命的な容器が発明されて単位面積当たりの貯蔵能力も飛躍的に増加しているので、その後戦時を挟んで施設設備の面では終戦までは大きな変化が無かったと思われる。

昔の蔵にまつわる幼少の頃の冬の記憶はあまり無い。酒造期間は仕事の邪魔になるから酒蔵の方に行かないように言われていた為かもしれない。台所の前の通路を隔てた向いが蔵用の流しと釜場になっていて、毎朝、釜屋(蒸米係り)が甑から少量の蒸米を採り、木の棒を使い手のひらで圧しつけるように捏ねて《ひねり餅》をつくり、蒸し具合を判断したものだが、その作業が面白いのと、ひょうたんなどに形づくった《ひねり餅》が欲しくて早起きしてねだったことや、精米所に入り込んで遊んでいるうちに、昇降機の軸の回転に半ズボンの裾が巻きこまれる危うい目に会って、ひどく叱られたことなどが断片的に記憶に残っている。

図面では「桶枯らし場」がかなりのスペースを取っているが、夏期間の閑散とした酒蔵や桶枯らし場は良い遊び場で、近所の友達と走り回ったり、かくれんぼしたりした想い出は多い。枯らし場には十石〜二十石の大きな木桶が何十本も横になって並んでいたものである。

木桶は江戸初期から中期にかけて開発された酒を大量に醸造するための大型容器で、この容器の開発で酒造技術も大いに進歩したと言われている。以後江戸・幕末・はおろか明治、大正、昭和に入っても使われ続けた実に息の長い容器であったが、欠陥もあった。木製であるために雑菌が付着し木目に食い込んで、その殺菌に大いに手間暇がかかった。「湯打場」があり、六尺桶といって横にしても大人の背が立つ大きさだから、横にした桶の中に入り棒の先に藁を括り付けた“もんだら”という今のデッキブラシ状のもので桶に湯を掛けてはどんと当てずうーと引くその長閑なリズムが耳に残っている。そうした洗いの後、和釜の上に真ん中に一寸程の穴の開いた鬼蓋を乗せ、それに桶を伏せて蒸気を強く噴き込み加熱殺菌をするのである。それを今度は天日に干し、柿渋を塗り枯らし場に並べるのだが、何しろ図体がデカイので大変な作業であった。現在、容器は全て鉄製のホーローやグラスライニング、或いはステンレスタンクに代わり、いまでは往時の苦労を知る蔵人は居ない。

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