「やりがい」
代表取締役社長 大井建史
矢島の里もすっかり秋の景色となり、静寂に包まれていた酒蔵も10月25日から百三十三回目の造りが始まり活気が出て参りました。
契約栽培グループである天寿酒米研究会産の米は、平年作をキープした様ですが、春の長雨・日照不足や、夏の高温による障害が無いか慎重に精米している所です。
今年の酒造りでも、一歩前進の為の課題が多々ありますが、定年退職等での減員により、担当が替わり蔵人になった常勤社員の教育が大きなキーポイントになりそうです。彼らの頭の切替え・モチベーションが、ベテラン職人の働きにどれだけ付いて行けるかが試されます。人は自分の物差しが受け入れられなかったり、無理やり伸ばされるときは、その物差しを守ろうと強い反発を持ちやすくなります。新入社員ではないので、社内的な甘えをどれだけ控え、切り替え、挑戦して行けるかは、私や杜氏のリーダーシップももちろんですが、全くその人間の人生に対する姿勢としか言い様が無いのかもしれません。
10月は、まさにお酒のイベントのオンパレードでなかなか家に帰れない日が続きました。どの会も日本酒の啓蒙活動的な物ばかりですが、持ち出しも多く酒蔵同士の根競べの様相も呈してきている感じです。
吟醸酒協会の楽しむ会などはお客様が千名を超え、女性や外国の方も多く、日本酒業界が低迷をきたしていることなど想像も出来ない様な活況でありましたが、製造量の九割を地元で販売している典型的な地酒蔵の弊社としては、地方との格差に頭を抱えてしまう思いにもなります。
しかし、嬉しい事にこの会のなかでも、弊社のお酒三点がお客様の注目を集めておりました。あの数時間の中でも口コミでお客様が集まって来るのです。出品酒レベルでの「鳥海の雫」・食べながら飲みたい吟醸としての「純米大吟醸」・リーズナブルな価格とその品質で「純米吟醸鳥海山」この反応とお客様の笑顔があるから、私たちは挑戦を続ける事が出来ます。
新たな挑戦として、長年参加している八壺会が発起人となり「旬どき・うまいもの自慢会」を始めました。是非ホームページをのぞいて見て下さい。
天寿の歴史
(五)ー7
製造場建物の変遷ーⅣ
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
ニ度あることは三度あるの譬え、三度目は昭和五十四年三月二十六日の瓶詰工場火災であった。防火管理体制、意識の欠如としか言いようがないが、当時瓶詰め製品の搬送容器は殆どが木製の桟箱で、修理の効かなくなった廃箱が大量に発生したため、それを燃料とする湯沸し付き焼却炉を瓶詰め工場内に設置していた。その日は作業開始と同時に炊き始めたようだが、焼却炉の過熱が煙突の眼がね石の不完全から木造内壁の燃焼を惹きおこし、火の回りが早く忽ち天井の方へ燃え広がり備えの小型の消化器ではどうにもならなかったと言う。
朝火事で消防署と地域の消防団の駆けつけが早かったのと、工場敷地内を流れる千砂利川の水利、巾がほんの5~6mの小河川だが、この間隔が川向かいの醸造蔵棟への延焼を防ぐ結果となった。また地元と隣の丁内の消防分団が大変な決断でポンプを敷地内、工場内深く曳き入れ消化に当たってくれたことも大きな力となった。
一時は延焼の恐れから駆けつけた多くの人々が事務所の重要帳簿類、家財道具を近所の家々に箪笥の引き出しのまま預けたり、細々した生活用品まで運び出し、また治まってから運び戻して下さったが、何一つ紛失した物もなくまた多くの励ましを頂いた。心から人びとの善意に感銘し情けを有り難く感じたことだった。
事故以来三月二十六日を防災記念日とし、毎年消防署の指導の下に火災報知器を作動させ消火栓のホースから水を出す実際の消火訓練を行い防災意識の高揚を図っているところである。
幸い隣家への延焼は食い止められたが、瓶詰工場は全焼・休憩所や二階研修所、食堂・厨房など社業関連部分半焼、土蔵の文庫倉にも火は防げたが煙が入った。私が社長に就任して最初の大きな試練だった。
たちまち困ったのが在庫製品の欠品である。日頃から品質管理と製品の回転を考え出来るだけ在庫を抑えていたので、間もなく在庫切れになった。社の瓶詰ラインは当然使用不能、他社のラインをお借りするしか方法はない。有難い事に同じ矢島町内近所の佐藤酒造店さんが自社の空き日に使わしていただく便宜をはかって下さり、危機を凌ぐことが出来た。これまた感謝に堪えない次第であった。
早速瓶詰工場の再建に取り掛かった。前の工場はすでに狭くラインも能力不足であったので、思い切って文庫蔵(明治ニ十四年四代目建築の土蔵造り)を解体し床面積616平方メートルの建築面積を確保、ボイラー室とトイレ、一部ニ階に物品倉庫と和室40畳の研修場(一尺角の杉の床柱は当時の大井製材所が納めたもの)を持つ鉄骨造陸屋根の不燃建築とし、ラインも洗壜機を連結1,8リットル壜 時間2000本の能力のものを設置した。完成後飛躍的な能力アップにより効率化が図られたことは勿論のこと、従業員の作業環境も大きく改善された。
建物の設計は山脇健氏、施工は山科建設(株)である。