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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

「雑 感」
2007-07-01

「雑 感」

代表取締役社長 大井建史

秋田も入梅はしましたが良い天気が続き、緑濃くきれいで生きいきとした季節を迎えています。天寿の無農薬田圃にも矢島小学校三年生により合鴨の雛が放たれ、元気に泳ぎまわっています。小砂川では岩牡蠣が捕れ始め、子吉川の鮎は7月1日から解禁となります。

最近のニュースとしては、全国新酒鑑評会は銀賞に終わり、東京プリンスホテル「和食 清水」でのお酒とお料理を楽しむ会「酒楽活菜」は88回を数え、盛会裏に終えることが出来ました。毎月開催で8年目に入ったという事で、酒楽の会構成6社(天寿・喜楽長・宝寿・八咫烏・八鹿・笹の川)とも大変感慨深いものがありました。来年の6月で100回開催となります。通常の月は2社づつ当番制で、私も三ヶ月に一回は担当しております。皆様も機会が有りましたら是非一度ご参加ください。

酒楽の会は十数年前に、地元を主市場とする小さい酒蔵の跡継ぎが集まり、計画・運営・企画とも会社に担当部署が有る訳も無く、自分の頭で全部やっているのなら、6人集まったら何か出来るのではないかと立ち上げた研究会でした。各社とも毎月東京に集まるのは大変な負担でしたが、不思議とこんなに長く続いた会なのです。「よくもまあ」とこれまた感慨深いのですが、先日滋賀で行った会での移動時の会話はこんな感じでした。「この辺は滋賀の穀倉地帯で、田圃が広いでしょ」「はぁ?すぐそこに家が見えるのに?穀倉地帯の割にはインフラに随分金が掛かってますね。合併前の人口が45000人の駅前じゃないね」「秋田は人口少ないからね」「本荘も合併前は45000人ですけど」「八日市は良い企業の工場が複数あるから内情が良かったんだよ」「… …。大体、関空作って神戸空港作って、伊丹空港も現役っておかしいを通り越してるよね。そんなに金使えるなら元々2500m滑走路で敷地の余裕もある秋田空港を拡幅して、シャトル便飛ばして国際空港にしてしまえば良かったのに。成田も未だに反対運動だし、雪は降るけどそんな空港世界中にあるし…。」「で、そっちの地元の小・中学校何クラスある?」「もうすぐ全部一クラス。大問題だよね。地方の崩壊だ。」「地方行政の予算じゃ人口減ったらおしまいだね。故郷納税の制度が良いかどうかは別にして、このままじゃ地方分権じゃなくて地方切捨てだ。」「その通り。地方でお金と情熱をかけて育てたのに、結果的に全部都会に貢いでいるようなもんだ。育てて出してくれたお礼と、国土保全や食料確保安心料は地方に払わなければいけない。」「しかし、年金問題は頭に来るな。団塊後の俺らが一番損か」「社会保険庁って何あれ。どうすりゃあそこまで腐れるんだ?」「腹を切れ腹を」「腐るといえばミート何とかってなんだありゃ。この時代に食料業界の国賊だ!!お客様をなんだと思って…思って無いか」「何か慎ましく、いじらしく、健気だよね我々は…」 (途中から会話を離れて私の主観に変わった様な… )たった一社の行いが、今までずっと真面目に真剣に丁寧に仕事を続けてきた人達の思いを踏みにじりました。給食にも使われたかもしれない?我が子に毒を盛られた気分になります。広義の食と考えれば私も同業界。日本の食の安全神話がまたも崩れる音に鳥肌を立てています。

天寿の歴史

(六)ー3

新商品開発- 〔鳥海山自然水〕- Ⅰ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

矢島の郷は鳥海山が北東に雄大な裾野を広げ子吉川が東西に貫流する盆地、鳥海山に降る雨は豊かな森林を育み、降り積もった雪は万年雪となり、永い年月を経て大地に濾過され裾野に湧き出る。

清酒の醸造においては、良質且つ豊富な水をしかも容易に得られることが必須条件である。その条件に恵まれた矢島は古くから酒造りの盛んな郷であった。

世界中には数限りないほど多くの民族がいるが、水の味を「甘い」とか「丸い」とかと賞味する民族は日本人だけかも知れないと東京農大の小泉教授は言っている。それは日本が世界の中で最も質の良い水を持つ国であり、この水が日本の様々な文化を創っている根源となっているからだろうと・・・。清酒も日本の優れた文化の一つなのである。

「名酒は良水から」というのは日本ばかりではなく万国共通のようであるが、外国は「水のタイプ、すなわち酒のタイプ」というように、はっきりした形で現れることが多いようだ。日本酒ではそれほどの切実さはない。水質のうちの硬度をとり上げてみても、一番高いとされる灘の宮水でも八〜九に過ぎないが、外国の三十〜七十とかの激しい値から見れば物の数ではない。また、日本の酒造りは、西洋のそれと違って大変複雑で、糖化と発酵が同じタンクの中で同時に進行する並行複発酵という世界でも珍しい醸造方法であるため、水質の影響が端的に現れにくいとも言われている。しかし、灘の男酒、秋田の女酒とも言われるように、硬水の宮水を使う灘は辛口で骨格のしっかりした酒質となり、軟水の多い秋田はやわらかできめ細かい酒質が特徴となっている。

では、良水とはいったいどんな水だろうか。日本酒にとってはまず鉄分が少ないことが一大要件であるが、一般に銘醸地と言われるところの水はカリ分の多いことが特徴である。そのほかの成分も酒の原料に占める成分量は微量である。しかし、酒質に大きな影響をもつ事は長い酒造りの経験から確かなことである。微量分析の進んだ今日でも良水の成分はまだ明確でない。名水にはまだまだ説明し尽くされない何かが残されているのである。ここに水の不思議さがあり、酒造りにおける永遠のテーマでもあろう。

人類は生活が便利になり、文化が発達すると同時にあまりにもたくさんの水を使うようになり、その水を汚し続けるようになった。そして自分たちの汚した水を「浄化」と称して塩素を入れて消毒し、「不自然」な水をつくり出してしまったのである。 日本は水の環境に恵まれていることから「水はタダ」の意識が根強く、ヨーロッパなどに比べ「買う」という感覚は薄かったが、大都市圏の水道水は水源の汚染、自然環境の悪化などで「不味い」「臭い」などから消費者が水に関心を持ち始めグルメブームや健康志向、自然志向なども追い風となって、家庭浄水器の普及と共に飲料用の水の需要が急速に高まった。

日本は水の環境に恵まれていることから「水はタダ」の意識が根強く、ヨーロッパなどに比べ「買う」という感覚は薄かったが、大都市圏の水道水は水源の汚染、自然環境の悪化などで「不味い」「臭い」などから消費者が水に関心を持ち始めグルメブームや健康志向、自然志向なども追い風となって、家庭浄水器の普及と共に飲料用の水の需要が急速に高まった。

昭和六十三年、当社では「天寿」の仕込み水ともなる鳥海山の伏流水を「鳥海山自然水」の商品名で飲料用として一リットルペット容器詰めで発売した。飲料水の商品化は秋田県では最初だったと思う。

基 準
2007-05-01

基 準

代表取締役社長 大井建史

四月も終わりに近づいた今、矢島の里にもようやく桜が咲き始めました。四月二十日には蔵人も家路につき、酒蔵の中は静寂に包まれ熟成の時を刻んでいます。

今年の冬は前年と正反対の暖冬で一月・二月に全く雪がない異常な冬でしたが、もちろんしっかりとした対応をし、万全の体制で色々な取り組みも成果を上げて無事終了致しました。

今期を最後に二人の蔵人が退職致しました。今が蔵の最高の状態と自負しているだけに、誠に残念でありますが、若い年代への技術の伝承・世代交代を考えますと必要な事だと自分に言い聞かせるしかありません。

物事を集団で進める時に「当然」とか「当たり前」「常識」と言う言葉がその集団内で交わされ、それが異なる又は通じない人間がいると混乱が起きます。その言葉を言い換えると「基準」となるのだと思います。

そう思って気を付けて見ると「常識」と言う言葉には本当に色々な基準があるものだなと思いますし、自分たちの思い込みも恥ずかしくなるほどあると痛感してしまいます。

お酒の表示を見ましても新しいものが増えています。「ビン火入れ」「ビン貯蔵」等はある程度のクラスになれば言わば「常識」と思い込み、「自家精米」も品質保持の為に行う秋田の造り酒屋の常識であると思っておりましたが、ある酒販店から「なんで表示しないの?表示しないと判らないでしょ。」と言われるまで、他社の表示を見ても「当然努力する事なのに、ここまで書くか?」位で新奇な表示と軽く考えておりました。その割には、この通信で品質向上のための試みや設備投資の事をご理解頂きたくて執拗に書いておりましたのに…。

「当然」「常識」と考えるものには「思い込み」と言う危険分子も含めて考えなければいけない事を、今更ではありますが実感し、「基準」として洗いなおさなければいけないと思っている所です。そうしませんと、弊社が60%純米吟醸まで「ビン火入れ」冷蔵「ビン貯蔵」している品質が目で見てはご理解頂けない事に成るのです。(飲めば判って頂けるとの思いに頼りすぎ、ある意味逆に傲慢だったのかもしれません)しかし、全体のデザインのバランスもありますので、徐々にではありますが、出来るだけ早く表示をしていきたいと思います。

天寿の歴史

(六)ー2

新商品開発- 〔ミルシュ〕- 2

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

『草原を思わせる、透き通った淡いエメラルドグリーンに微炭酸。さわやかなイメージのアルコール飲料が酒の本場・秋田に新登場―。名前は「ミルシュ」。由来は至って単純で、ミルクが原料の酒。なあんだ、ええっ?そう、想像つきにくいでしょうが、牛乳から酒ができたんです。秋田県矢島町と地元の酒造会社が試行錯誤の末、開発に成功しました。

緑色は牛乳に含まれるビタミン。ほんのりヨーグルト風味で、甘くなくすっきりした飲み口、だそうです。というのも発売一ヶ月で売り切れ状態。十二月初めの第二回発売まで、待たなければならないので・・・』

平成九年十一月七日の河北新報のコラム《みちのく》に掲載された記事だが、発売当初の状況がよくまとめられてある。NHKの取材でテレビの東北版にも紹介され注目された。

十一月、秋田県、県物産振興協会、発明協会県支部主催の平成九年度第十七回《県特産品開発コンクール》に出品、最優秀賞 新開発商品部門(知事賞)を受賞。

このコンクールは新商品の開発を促進し、県特産品への関心を高めようと毎年実施され、この年は一年間に商品化された工芸品や食料品、菓子など百九点が六十三企業から出品された。品質、デザイン、話題性、価格などを基準に審査され、受賞したのであった。

秋田さきがけ新聞でも同賞受賞を記事として取り上げて頂き、『女性向けに開発した。低カロリー、低アルコール(7%以下)、豊富なビタミンB2が売り物だ。黄緑色がかった透明で、発泡酒というよりもシャンパンのイメージに近く、ライト感覚で楽しめる。先月、本荘由利地区で市販したが人気を呼び品薄状態、二回目の仕込み中で、来月から県内各地へ出荷する予定』と紹介され、生産が追い着かないほどに人気を博した。

また、平成13年度には農林水産省と財団法人食品産業センター共催の優良ふるさと食品中央コンクールに於いて農林水産大臣賞を受賞し、平成十四年三月十二日、幕張メッセで開催された「FOODEX JAPAN2002」内で開催された第十七回「ふるさと食品全国フェア」にて授賞式が行われた。

地域と共にの社是のもと、地元の素材を活かした商品開発に成功し、この様に数々の栄誉にも恵まれたのである。

吟醸搾り真っ盛り
2007-03-01

吟醸搾り真っ盛り

代表取締役社長 大井建史

蔵内で大注目の大吟醸の搾りが(2月26日)始まりました。当然もろみの状態に合わせて予定を決めます。弊蔵では今年のもろみ日数が例年より長めに推移しておりましたが、搾り始めたら連続になりそうで、杜氏を初め蔵人は慌しく作業に追われています。

今年は常勤社員を技術継承のため、三名酒造りの工程に参加させております。この頃、杜氏やベテラン蔵人からも「顔つきが変わってきた」と言う言葉が聞かれるようになり、嬉しい事だと思っています。「常に自らの責任でより上を目指す」雰囲気と、個人の作業責任が大きい環境の中で、学習と自身の責任の重さに毎日疲れきっていたようですが、ここに来て意欲とある程度の自信が付いてきたのでしょう。もちろん、これからが修行の始まりなのですが、前向きな姿勢に育ててくれた事を蔵人の皆に感謝したいと思います。

異常気象

大雪の昨年とは正反対のこの冬、一月・二月とも雪が全く有りませんでした。75歳の会長ももちろん初めての経験でした。今から今夏の水不足の心配がされており、大雪に不作なしと言われておりますが、今年の稲作はどうなるのかとの不安もあるわけです。

酒蔵開放(二月十日)はお蔭様で1540名の受付を頂き、大変盛況に終わる事ができました。ご来場頂きました皆様に心からお礼申し上げますと共に、ボランティアスタッフとして運営にご参加頂いた皆様にも重ねて御礼申し上げます。(ボランティアの皆様のお力が無ければ、酒蔵開放は成立しないのです)このイベントで雪室封印を行います。例年ですと蔵の軒の雪で間に合うのですが、今年は純米生酒のタンクを雪で覆うのに、ダンプのレンタカーを借りて二十台分の雪を山から運び、断熱材で外側を最初から厳重に覆いました。もちろん初めてのことですが、四月末の封印開封まで先が思いやられます。蔵内も雪に覆われたかまくら状になっていない為、激しい温度変化に酒造りも息を抜けない状態です。

地方格差

平成の大合併から二年が経とうとしております。一市七町の合併で全国で11番秋田では一番広い市(神奈川県の半分の面積)となりましたが、人口分布・教育・経済等が激変期に入ってきた事を体感しております。市部への一極集中は極端に進む気配があり、エリアの小中学校の三割近くが複式学級(一学級に複数の学年が同居)が必要に成りつつあり、近年中に更にその数が増えるのが目に見えている状態です。我が矢島地区もその例外ではなく、最大規模の工場が旧本荘市の工業団地に集約されるとの噂があり、現実になれば人口激減の危機となります。(それが無くてもこの五年間人口五千の地区で毎年百人の減少が続いていました)次代を担う若者達がどんどん地元を離れていく中、スーパーの進出に地元商店や飲食店は減少の一途をたどっており、農家の後継者が何割くらいいるのかは恐ろしくてとても聞けないような現状です。

ここまで来ると全国的な均衡ある発展等は寝言であり、現実的な地方の有り方・農業の保全・子供達の教育機会、環境の均等などを早急に明確化しないと、荒廃した地方と、勘違いした驕りに満ちた都市だけの国になってしまうのではないでしょうか・・・。

天寿の歴史

(六)ー1

新商品開発‐〔ミルシュ〕‐1

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和三十三年、時の町長佐藤直太郎氏の政策により、鳥海高原の矢島町花立地域が北部鳥海山麓集約酪農地域に指定され、オーストラリアからジャージー種乳牛を導入したのは同三十四年。三十八年には農業構造改善事業により花立畜産センターを設置、牧場としての機能も整備され町の産業として発展を見た。続く茂木、宮塚、佐藤の歴代町長も花立地区を酪農振興の拠点として拡大充実を図り、同時に観光の面でも相乗効果を考えた開発に努めスキー場、キャンプ場の整備を始め、現在第三セクター(株)鳥海高原ユースパークが経営にあたっているコテージ、山荘、レストラン、ラグビー場、宿泊施設ユースプラトー、ゴーカート、パークゴルフ場などが次々にスポーツ・レジャー施設として開設整備された。平成十三年四月には牛乳加工施設ミルジーも導入され、飲料ジャージー牛乳の処理のほかヨーグルト、ソフトクリームの製造販売も行うようになった。花立地域はこのように半世紀に近い開発の継続で町の観光産業の重要な拠点として位置づけられるに至ったが、今後も広く〝面〞としての鳥海山観光の重要な地域として発展することを期待したい。

ジャージー種の牛乳はホルスタイン種に比べて栄養価が高く、コクのある味わいが特徴とされる。牛乳そのものに町の特産品としての価値があっても更に付加価値を高めようと考えるのは当然のこと、特産品開発に力を入れていた宮塚町長は矢島高校に酪農科があった昭和三十五年頃、二種類の乳酸飲料が開発されていた事を引き出し、平成元年その製造特許について県の総合食品研究所・醸造試験場と協議し、試験場で試みに発酵させたところワインか発泡酒になりそうとの感触を得、平成二年から三年間酒類化について研究を依頼した。

平成四年、天寿酒造では商品化について町から依頼があったのを受けて、佐藤俊二(現杜氏)が担当、試験場の基礎研究資料を基に、酒造期を除く日常業務の合間に三年間の苦労の試験醸造を重ね、平成七年十二月に数種類の試作品を完成した。製法は牛乳から乳脂肪成分を分離除去しワイン酵母を加えて発酵させるもので、原乳に含まれるビタミンやミネラルなどはそのまま残され、透き通った淡い黄緑色でヨーグルトのような香りを持つシャンパン風の美容や健康に良い女性や若者向きの酒に仕上がった。町の各層から試飲チームを募り試飲を繰り返して品質を決定、同八年八月発泡性乳酒飲料の製造方法特許申請、同九年一月に酒類製造免許を申請、七月には認可を得て本格的な醸造を開始した。

平成九年十月、着想から七年を費やし遂に発泡酒「ミルシュ」は完成した。ネーミングはすでに八年四月に町が公募決定して商標登録し、ラベルデザインも決定されていたので、直ちに矢島町特産品〝ジャージー牛乳から生まれたヘルシーな発泡酒「ミルシュ」〞のキャッチフレーズで売り出した。

平成九年には県特産品開発コンクール最優秀賞、平成十三年には優良ふるさと食品中央コンクールの国産畜水産品利用部門において農林水産大臣賞を受賞した。

新年おめでとうございます
2007-01-01

新年おめでとうございます

代表取締役社長 大井建史

昨年とは打って変わり、今年の正月は雪も殆んど無く、静かで穏やかな正月を迎えました。昨年中は皆様には大変お世話になり、心より御礼申し上げます。

酒蔵の作業は、暖冬の高温と例年より割れて溶けやすい米ではありますが、その対策も順調に推移しており6日からは出品酒の仕込が始まります。杜氏が見学のお客様に「かえって闘志が湧きます」とお答えしているのを聞いて、苦笑したしだいです。

この酒蔵通信をスタートしたのが 年でしたので、今年で9年目になります。社長になる寸前に所信のつもりで「思い」と言う文章を書き、創刊号の2ページ目に掲載いたしました。また、 年1月「新世紀・新創業の時」を読み返し思いが溢れ、社長になってからのこの8年を振り返り、初心を新たにしなければとしみじみと思う正月となりました。

今更であるのかもしれませんが、毎日のように唱える事によって、沁みてくる言葉と薄れていく言葉があることにも気が付く事が出来ました。

変革とそのスピードの維持を心掛けて参りました。確かに社長になる前の十数年とは比較にならないスピードで変わりましたが、私の非才故に、社会の変化はそれを上回っている事を認めざるを得ません。今の体制が三年前・五年前だったらと私が思ってしまうのですから。自分の尺度が、この間何センチ伸びただろうか、変革の能動者として十分に活動をしただろうかと、青年のように考え込む自分を発見してしまいました。

今年は私も年男、息切れしない範囲で、猪っと猪突猛進してみようと思っております。

今期も12月に農大の研修生を受け入れました。そのレポートに我々の成果とも言える嬉しい事が書かれておりましたので抜粋いたします。

(この蔵は「和醸良酒」という言葉がとても似合う蔵だと思います。

杜氏さんが一人で蔵を引っ張っているのではなく、蔵人さんみんなでお互いを高め合っていて、いつもすごくいい雰囲気です。

この蔵のさらに尊敬するなと思ったことは、蔵人さんの半分以上が酒造検定1級を持っているということです。

みんなが酒造りを熟知しているからいいアイデアがたくさん出ます。

そして出たアイデアをこの蔵はすぐに実行できるところがまたすごいところだと思います。

実行するにはお金もかかるし、機械の改造なんかは逆に壊してしまうというリスクもあるのに、それを許可してくれるこの会社もすばらしいなと思います。

この2週間の実習でこの蔵の発明品をいろいろ教えてもらいましたが、僕が気づけなかった発明品がまだまだある気がします。

また何年たってから来るとさらに進化してそうで楽しみです。 この蔵で実習ができて本当によかったです。)

だから続けていけるのです。気付かせてくれるのは、何時も周りの皆様です。本当にありがたく思います。

今年も精進してまいります。品位を高めてまいります。この蔵人達の心栄えに、今年もご期待ください。

天寿の歴史

(五)ー7

製造場建物の変遷ーⅤ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

壜詰工場火災の時、水利と延焼防止に大きな役割を果たした〝千砂利川〞は市街西北部を貫流し、当社敷地内も横切って流れる小河川で、普段は水量も少なく自然流水の穏やかな川だが、梅雨どきや雪消えのころ大雨が降るとよく洪水を起こし、酒蔵の中にまで水が入りこむことがあった。鳥海山の特殊気象地帯、豪雪地帯である矢島地区は豪雨になることが多く、毎年の降雪量も多い。開発が進むと河川が急速に出水し氾濫するようになるが、当時町の為政者は道路の整備と共に氾濫を繰り返す河川の改修にも力を注いだ。 昭和五十五年〝千砂利川〞の改修が始まった。川巾も広げ川底も舗装し流れをよくする公共工事だが、予想される最大流量に見合う巾と深さを確保しなければならないと言う。そのために当社は川岸ぎりぎりに立つ醸造棟部分の作業場の解体を余儀なくされ、土蔵の入り口前が狭くなって、タンクの出入りが不可能になる設計だった。

幸い昭和四十三年に百石タンクを並べられる貯蔵庫、四十五年には二百石タンクを収納できる貯蔵庫を新築、四十七年には精米所も新築し,すでに仕込蔵も改築してあったので、この際一番古い部分の近代化を図るべく、我が社の歴史を証明する創業時(明治七年)建築の一号蔵は残し、思いきって他の二つの土蔵は解体、木造作業場は移築することを決断、新たに一部二階、鉄骨造陸屋根の製品庫、連結して酒母室、原料処理場の建設に踏み切った。ところが一号蔵が工事中に段差のところから土台が崩れ、その影響で梁も大きくずれて壁も落ちてしまったので、止む無く入り口の観音開きと土戸、格子戸を残こすのみで本体は新しい材料での改築となった。

百年の歴史と伝統を感じさせる建物は住宅部分を除いて殆ど消失してしまうことは実に残念なことであった。人びとはそれを発展の証だと言うが、敷地に余裕があればそれを活かしながら新しい建物に調和さることも出来たと思うが、ぎりぎりの状態では如何ともし難かったのである。 天寿の歴史では未だかつてない大規模な新改築、それに伴う多額の投資であったが、完成後は一日の仕込み量も大きく、作業効率も数段良くなり酒質の向上にもつながり、またコストダウンにも大きく貢献したのである。

その後六十三年に低温貯蔵庫改築、平成一年上槽場改築、平成九年自動製麹棟新築、同十三年独立冷蔵倉庫新築と設備の充実を重ね現在の状態に至っている。改修後の〝千砂利川〞の洪水は一度も起きていない。

「やりがい」
2006-11-01

「やりがい」

代表取締役社長 大井建史

矢島の里もすっかり秋の景色となり、静寂に包まれていた酒蔵も10月25日から百三十三回目の造りが始まり活気が出て参りました。

契約栽培グループである天寿酒米研究会産の米は、平年作をキープした様ですが、春の長雨・日照不足や、夏の高温による障害が無いか慎重に精米している所です。

今年の酒造りでも、一歩前進の為の課題が多々ありますが、定年退職等での減員により、担当が替わり蔵人になった常勤社員の教育が大きなキーポイントになりそうです。彼らの頭の切替え・モチベーションが、ベテラン職人の働きにどれだけ付いて行けるかが試されます。人は自分の物差しが受け入れられなかったり、無理やり伸ばされるときは、その物差しを守ろうと強い反発を持ちやすくなります。新入社員ではないので、社内的な甘えをどれだけ控え、切り替え、挑戦して行けるかは、私や杜氏のリーダーシップももちろんですが、全くその人間の人生に対する姿勢としか言い様が無いのかもしれません。

10月は、まさにお酒のイベントのオンパレードでなかなか家に帰れない日が続きました。どの会も日本酒の啓蒙活動的な物ばかりですが、持ち出しも多く酒蔵同士の根競べの様相も呈してきている感じです。

吟醸酒協会の楽しむ会などはお客様が千名を超え、女性や外国の方も多く、日本酒業界が低迷をきたしていることなど想像も出来ない様な活況でありましたが、製造量の九割を地元で販売している典型的な地酒蔵の弊社としては、地方との格差に頭を抱えてしまう思いにもなります。

しかし、嬉しい事にこの会のなかでも、弊社のお酒三点がお客様の注目を集めておりました。あの数時間の中でも口コミでお客様が集まって来るのです。出品酒レベルでの「鳥海の雫」・食べながら飲みたい吟醸としての「純米大吟醸」・リーズナブルな価格とその品質で「純米吟醸鳥海山」この反応とお客様の笑顔があるから、私たちは挑戦を続ける事が出来ます。

新たな挑戦として、長年参加している八壺会が発起人となり「旬どき・うまいもの自慢会」を始めました。是非ホームページをのぞいて見て下さい。

天寿の歴史

(五)ー7

製造場建物の変遷ーⅣ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

ニ度あることは三度あるの譬え、三度目は昭和五十四年三月二十六日の瓶詰工場火災であった。防火管理体制、意識の欠如としか言いようがないが、当時瓶詰め製品の搬送容器は殆どが木製の桟箱で、修理の効かなくなった廃箱が大量に発生したため、それを燃料とする湯沸し付き焼却炉を瓶詰め工場内に設置していた。その日は作業開始と同時に炊き始めたようだが、焼却炉の過熱が煙突の眼がね石の不完全から木造内壁の燃焼を惹きおこし、火の回りが早く忽ち天井の方へ燃え広がり備えの小型の消化器ではどうにもならなかったと言う。

朝火事で消防署と地域の消防団の駆けつけが早かったのと、工場敷地内を流れる千砂利川の水利、巾がほんの5~6mの小河川だが、この間隔が川向かいの醸造蔵棟への延焼を防ぐ結果となった。また地元と隣の丁内の消防分団が大変な決断でポンプを敷地内、工場内深く曳き入れ消化に当たってくれたことも大きな力となった。

一時は延焼の恐れから駆けつけた多くの人々が事務所の重要帳簿類、家財道具を近所の家々に箪笥の引き出しのまま預けたり、細々した生活用品まで運び出し、また治まってから運び戻して下さったが、何一つ紛失した物もなくまた多くの励ましを頂いた。心から人びとの善意に感銘し情けを有り難く感じたことだった。

事故以来三月二十六日を防災記念日とし、毎年消防署の指導の下に火災報知器を作動させ消火栓のホースから水を出す実際の消火訓練を行い防災意識の高揚を図っているところである。

幸い隣家への延焼は食い止められたが、瓶詰工場は全焼・休憩所や二階研修所、食堂・厨房など社業関連部分半焼、土蔵の文庫倉にも火は防げたが煙が入った。私が社長に就任して最初の大きな試練だった。

たちまち困ったのが在庫製品の欠品である。日頃から品質管理と製品の回転を考え出来るだけ在庫を抑えていたので、間もなく在庫切れになった。社の瓶詰ラインは当然使用不能、他社のラインをお借りするしか方法はない。有難い事に同じ矢島町内近所の佐藤酒造店さんが自社の空き日に使わしていただく便宜をはかって下さり、危機を凌ぐことが出来た。これまた感謝に堪えない次第であった。

早速瓶詰工場の再建に取り掛かった。前の工場はすでに狭くラインも能力不足であったので、思い切って文庫蔵(明治ニ十四年四代目建築の土蔵造り)を解体し床面積616平方メートルの建築面積を確保、ボイラー室とトイレ、一部ニ階に物品倉庫と和室40畳の研修場(一尺角の杉の床柱は当時の大井製材所が納めたもの)を持つ鉄骨造陸屋根の不燃建築とし、ラインも洗壜機を連結1,8リットル壜 時間2000本の能力のものを設置した。完成後飛躍的な能力アップにより効率化が図られたことは勿論のこと、従業員の作業環境も大きく改善された。

建物の設計は山脇健氏、施工は山科建設(株)である。

「コミュニティー」
2006-09-01

「コミュニティー」

代表取締役社長 大井建史

低温で大雨の続いた梅雨でしたが、梅雨明けから順調に晴天が続き、米の受粉期も無事に過ぎ、酒米研究会の田圃は今の所順調です。十八年ぶりに我が母校の本荘高校が甲子園に出場しました。弊社営業土田の長男も出ましたが、一回戦天理高校と対戦。健闘しましたが、初戦を飾る事は出来ませんでした。ザンネン。

その後、お盆過ぎまで真夏日が続いておりましたが、最近は朝夕に少し涼しさが出てまいりました。九月の十日には三百年の伝統がある矢島の八朔祭が執り行われます。前日の宵宮から情緒あるお祭ですが、42歳で若者も卒業ですので、私も祭から離れて5〜6年になってしまいました。祭の運営も高齢化と人口減から、山車を構成する六丁ともメンバー不足で大変なようです。地方のこの様な行事は、同様の理由で本当に大変になってきました。矢島小学校は長女の頃は3クラスでしたが、今では1クラスの学年が出始めました。

阪神の大震災以来その土地のコミュニティーが大事だという事は首相も話していますが、中央がやる事は東京基準でその土地に生きていないので、その破壊を加速する事ばかりです。例えば一月十五日が休日で無くなったことで、どれだけ多くの小正月行事が消えたか、判っているのでしょうか。東京だと成人式の移動しか思い付かなかったのでしょうね。矢島では才の神焼きという行事があります(ある高名な人文学者によると、新潟から秋田南部の地域に残るこの行事は仏教伝来前からのものとの事です)。私の町内も私が子供のころは、小・中学生30人から40人の子供達が集まり準備が全部出来ましたが、今では全員集まっても7人しかおりません。昔から十五日に開催している行事の日にちを変える事に抵抗を感じる方もあるようですが、親はその行事の為に会社を休む事もできず、なかなか解決できない問題となり、町内によっては休止と成った所も有りコミュニティー活動阻害の原因になりました。

この様な問題を考えていると、今の年金問題が浮上してきます。日本で一番出生率の低い県に成ってしまっておりますが、対策で出てくるのは、出産費の補助や、保育園費の補助等ですが、解決策には程遠い状態です。日本の年金は子供の世代が親の世代の年金を払う方式となっております。今の時代に少々の扶養控除だけで子供を育てた人たちがその子供たちから年金を払ってもらうのは判りますが、忙しいとか子供は作らない代わりにゆったりと暮らそう、又は親元から離れず結婚もせず一人で暮らそうと考えた人たちと、子供を一生懸命育て上げた人達が、同じ条件で年金を貰うというのは、おかしいのではないでしょうか?中には子供が出来なかった人もあるでしょうから、不穏当な表現もあったかとは思いますが、客観的に子供を育てる事で、どれ程のお金が掛かるかを考えた場合、年金の為の税金が子供を育てなかった人と平等であるのはおかしいと思うのですが…。(実はある人の考えの受け売りなのですが、まさにその通りであると思いましたので書かせて頂きました)子供を育てない人へ の課税又は年金の減額。まさに結婚・出産促進への決定打ではないでしょうか?

130周年を迎える 天寿の歴史

(五)ー6

製造場建物の変遷ーⅢ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

酒の醸造技術は、容器の大きさに合わせて進歩してきたと言われる。鎌倉時代「甕」と言う大型の土器になったとき、江戸時代「桶」という大型の木製の容器になったとき、そして昭和初期現在の「ホーロータンク」という鉄製の容器になったとき、と大きく分けて三度の容器革命があったと考えてよい。技術の進歩とは、よりよい製品を生み出すための努力の蓄積である。大きな容器が開発されると、それまでの小さな容器による醸造技術をベースに、大きな容器のための酒造技術の開発が進んだ。

昭和三十年代からの日本の産業発展の中で、清酒の需要もしだいに増大し、五十年には一千万石に達したが、大手による生産の大型化とそれに伴う機械器具の発達、技術の進歩 、また、建物も土蔵から鉄筋コンクリート造空調設備の四季醸造工場にすることよって年間の大量生産が可能になった。地方の中小蔵も殆どの作業が手作業であったものが急速に機械化、自動化がすすみ、家業であったものが企業化していった。しかし、生産の集中が過度に進み、販売競争が激化し、大量生産の安酒が大量に出回る結果となり、中小零細蔵は縮小、合併、廃業に追いやられる一方で、昔ながらの手作業による吟醸酒など品格を備えた良酒が市場で力を得ることで、いわゆる二極化がすすんだ。

大量に出回る結果となり、中小零細蔵は縮小、合併、廃業に追いやられる一方で、昔ながらの手作業による吟醸酒など品格を備えた良酒が市場で力を得ることで、いわゆる二極化がすすんだ。

大きな工事(投資)を決断するには、それなりの切っ掛け、転機というものがあるが、天寿の場合工場火災と河川改修がその大きな原因となっている。実は私が物心ついてから現在までに三回の自己失火による火災があった。一回目は私が保育所の頃で、後年伝え聞いた話だが昭和十二年冬、造りの最中であった。その頃は《もろみ》が冷えこまないように木桶の外側に藁菰を巻き、更に極寒には大鉄鍋に灰を入れた火鉢に炭火を熾して仕込庫の温度を保ったようだが、その炭火が撥ねて菰にうつり大事に至ったという。土蔵造りだったので火はその庫内だけでおさまったが、仕込み中の酒は駄目になったと言う。夕方まで残されて帰った六才の私の目に映った興奮鎮まらぬ大人たちの動き、慰労の酒席の消防半纏のひと人の高声、家中の煙の臭いなどが記憶の底に残っている。

二度目は二十六年八月盛夏、私が大学に入学した年の夏休みで、高校時代の友人と川泳ぎに出かけ、終わって田んぼの畦道をぶらぶら近くまで帰って来たときのことだった。サイレンの音に驚いて探した煙の方向があやしい、必死に線路の土手を駆け上ると家の倉庫から火の手が上がっているではないか、その時のショックは今でも忘れることが出来ない。

当時麹室の断熱は藁と土で、毎年解体して天日に干し秋の造り前に新藁を足して床下、四側面、天井にぎっしり詰め込み最上面を土で覆って断熱していた。麹室作りはその年の麹の出来に影響する大切な、しかも難儀な仕事であった。その解体した藁を取り込んでいた裏手の木造倉庫からの失火で、高温、乾燥期であったので火は忽ち隣接の桶の枯らし場を焼きつくし更に別の木造倉庫に移ったが、昼火事で消防団の出動が早かったのと土壁の倉庫だったことがそれ以上の延焼を食い止めたのであった。

その頃は製造、貯蔵とも既にホーロータンクに代わり木桶は殆ど使っていなかったが、大小五十本からの木桶を消失した事は大きな損失であった。

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