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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

132回目の酒造り
2005-11-01

132回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

まれに見る不作の昨年とは異なり、今年の米は順調で安心して造りに入りました。矢島の里は秋も深まり落葉が始まり、暖房の必要な気候となっております。

原料処理の改善は相変わらずに、最初から試行錯誤の上の実践に挑戦中です。今年は、60%精米以下のお酒の質的改善にご注目頂きたいと思います。これまで以上に理想給水歩合に持っていければどの様に酒質が向上できるか、私も楽しみにしている所です。

さて、話は変わりますが瀬戸内寂聴さんが、「人生は出会いである」「無常とは常なるものは無しと言うこと」と言うお話をしておりました。出会いとは言っても幅が広く、男女の出会いはもちろん・友との出会い・師との出会い・宗教・仕事・趣味・食べ物・そしてもちろん酒との出会いもあります。そして、それぞれとの感動・経験によって人生が構成されて行く。又、それは常成らざるものとして移り変わっていくと言う事でした。

まさにそのとおりとは思います。だからこそ人間は拠所を求めてもがくのだとも思います。

だからと言って日本の文化には、原理主義的な疑う事のない絶対正義・情状の余地のない絶対悪的な考え方は合いません。性悪説ではなく性善説に寄るのが日本ではないかと思っております。盗むなかれ、殺すなかれではなく、人間としての基本的な倫理に関しては、人の道として当然の事とする道徳感があり、徳を積み忠孝に励み道義を守るのが日本の理想だったのではないでしょうか?戦後の60年間で如何に多くの高邁な文化が失われたのか?日本に国籍を持つ一個人として、戦後60年の文化的荒廃と国家と国民としての尊厳が失われた事に、残念ではすまないものがあると考えております。

浅学な者が何を言い出したのかと失笑を買うような飛躍をしてしまったかもしれませんが、個人的には自分を右翼的だとはさらさら思っておりません。しかし、昨今の靖国神社参拝問題や歴史教科書問題、さらには改憲問題等聞くに耐えないような議論や報道(他国の利益代表のような政党や国会議員。どこの国の新聞か判らないような報道もありますね?)に国民の一人として大きな失望を味合わされているからです。敗戦や東京裁判の頚木からはなれ、堂々と歴史を紐解き、根本からの議論を展開してほしいものだと思います。

「昔は教育勅語なんていう変なものがあった」とは聞いておりましたが、その内容を実際に読んだのはつい最近で、現代語訳でしたが特に変なものとは思えず、戦後教育を受けた私には意外な感じがいたしました。教育の指針もゆとり教育などではなく、根本は国の方針の建て直しから始まるのではないでしょうか。

最近棘が刺さったように気になり、書いてしまいました。失礼いたしました。

130周年を迎える 天寿の歴史(五)ー2

六代目永吉 そのⅡ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五十年代〜六十年代日本は高度成長の下、農村から都市への出稼ぎが盛んで、地元からも毎年多くの農家が出稼ぎに出たが、必ずと言っていいほど土産には地酒を持って行ってくれた。また集団で行った人たちは、箱単位で職場に送らせるほど地元の酒を愛飲してくれたものである。その酒はすべて旧二級酒で、東京では一級酒で通るほど美味いと言われ地元も圧倒的に二級酒市場だった。

しかし、灘、伏見の大手は量産体制をさらに進め消費者の低価格もあって二級市場に参入所謂棲み分けが崩れ、更に五十七年には大手各社が一斉に生酒、生貯蔵酒を発売、五十八年には低濃度・低価格の紙パックが続々登場、二級市場の激しい競争が始まった。

我社の「しぼりたて生酒」や低温流通「生酒」への取り組みは県内では最も早く、五十八年から発売、保冷箱入り6本セットには、保冷材として当社商品鳥海山自然水の氷結袋を封入し,当時の流通革命の旗手「宅配便」の機動力を活用、いち早く全国直送のシステムに乗せた。この直送システムは今でこそ当たり前になったが、地酒の持つ宿命的な販売領域の狭さを全国に広げる結果にもなっている。

高品質酒の商品化が酒質と共に評価され、地方の名のある地酒を主力商品として扱う中央の問屋「日本名門酒会」から引き合いがあり、初めて県外に出荷されたのもその頃である。高度成長のなか消費者の嗜好の変化は、広く食生活全般の変化に及んで次第に高級本物志向を強めていった。清酒の場合も例外でなく吟醸酒や純米酒、本醸造酒など高級多様化商品の伸びが著しく、また「生酒」は《フレッシュ》《冷やして飲む》《夏場も飲める》《小ボトル》などの点で革新性をもつ新しいタイプの清酒として人気も高まり、これらの商材が全国レベルでピーク時から20%も落ち込んでいた清酒需要を一時期だが回復に導いたのである。

「経済のソフト化、サービス化が進むにつれ、三次産業のソフトウエアで武装した物づくりが必要になってくる。伝統の上にファッション性、デザイン性を加味し、地方の特性を生かした付加価値の高い商品を創りだしていく事が地酒蔵のサバイバルの道でないか」とは「あきた経済」誌六十二年六月号へ載った拙文の一部だが、今でもその考えに変わりはない。「古酒大吟醸」(昭和47年)、玲瓏天寿(昭和54年)、しぼりたて生酒(昭和55年)一級純米酒(昭和56年)、「大吟醸」(昭和61年)、本醸造「あきたこまち」(昭和62)年)等次々に新商品を市場に送り出した。

「あきたこまち」は秋田県が誇る食味銘柄米《あきたこまち》を原料米として仕込んだもので米の旨みをだした酒だが、昭和六十二年、孫長女が誕生した慶びに、小野小町にあやかって美しく賢く成長するように願って付けた登録銘柄である。

秋が来た!!
2005-09-01

秋が来た!!

代表取締役社長 大井建史

残暑お見舞い申し上げます。

暑い日々が続いておりますが、皆様におかれましてはご健勝でお過しの事とお喜び申し上げます。また、日頃のご愛顧に厚く感謝申し上げます。

今年の夏は、お蔭様をもちまして天災も今の所無く、酒米も順調に生育しております。しかし、酒蔵の保全作業は相変わらずで、今年は鉄骨蔵部分の防水が老朽化し、屋根の防水シートの交換と外壁のシーリングの打ち直しで脂汗を?流しております。

さて、いよいよ美食の秋、日本酒の秋となって参りました。サンマ漁のニュースも聞こえ始めましたが、酒蔵の中でもお酒の熟成が進み、飲み頃となっております。

天寿は、もともと超地元型で現在も県外への出荷量は7%に過ぎません。最近の私どもからの情報が、香り吟醸型の物が多かったので、今回は主力である純米酒のお勧めをさせていただきます。

社長に成り早々に純米酒の比率を50%以上にと目標を定めましたがまだまだです。現在、特別純米雪の詩・天寿純米酒・旨口純米酒の三種類があります。

特別純米「雪の詩」

このお酒は天寿の旧一級純米酒で、昭和50年代後半の日本酒ブームの時にかなり取り上げられました。純米吟醸がほとんど無い頃に、精米歩合は60%ですが吟造りで、酒造好適米と言う言葉が流通に浸透していない頃に美山錦100%で醸されていたお酒です。味の重い純米が多かった頃ですから、吟系のキレが光っていました。常温・冷や・ぬる燗でどうぞ。

天寿「純米酒」

このお酒は天寿の旧二級純米酒。日本名門酒会に勧誘され最初に取り上げられたのがこの酒です。当初は地元米のヨネシロで造られていました。(地元山間部で作られたヨネシロは一般米の掛け米として評価が高く、山形の庄内地区からも最近まで買われていましたが、奨励品種から外され作られなくなってしまいました。)10年程前から全量弊社自慢の天寿酒米研究会産の美山錦を使用し、精米歩合は酒母60%・掛米65%、協会7号酵母仕込み。米の味をしっかりと、冷や・常温・燗と味わいの幅も広い、じっくり味わえる旨口を目指した純米酒です。個人的には50度位の燗が好きです。

旨口純米酒

昨年暮れに発売した新商品の純米酒です。日本名門酒会とのお値打ち純米企画で、販売価格二千円以内を目標に、その条件下の最高を目指しました。決め手は「農大花酵母マリーゴールド分離株」の使用。一番の特徴はリンゴ酸。秋田県産米の70%精米ですが、しっかりしたキレのあるお酒です。冷や・常温・ぬる燗(40度位)がお勧めです。

味覚の秋、旬の料理と共に、天寿の純米酒をお楽しみください。

130周年を迎える 天寿の歴史(五)ー1

六代目永吉 そのⅠ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和五十年九月二十三日丁度彼岸の中日、五代目永吉(勲五等瑞宝章)は八十二歳で天寿を全うした。専務の私〔建徳(二男)〕が直ちに代表取締役となり、相続その他派生する諸問題の処理に当たった。十一月三十日の定時株主総会で社長に就任したが、永吉を襲名したのは五十六年九月先代の七回忌を済ませた後である。先代は生前「永吉はいい名前だから襲名した方がいい。」と言っていたが、世の中がどんどん近代化されていく時代であって伝統的なものが今ほど尊重される世相でなく、当時町議会議員で選挙にも出ていたことで何となく古臭いイメージに感じて気後れしていたのであった。

しかし、先代の遺志でもあり「永吉酒」の伝統は守り継いでいかなければならないとの想いも強く、また六代目を継ぐべくして果たせずに戦死した兄(勲六等瑞宝章)の志も代わって果たすべく、先代の七回忌に合わせて新しく墓も立て、決意も新たにして襲名したのであった。

手続きは、家庭裁判所に申請するのであるが、役者の襲名と違って芸名とか通称ではなく戸籍上の名前を変えるのであるからそれなりの理由と覚悟も要るし、前科があれば却下される。私の場合先代の没後五年以上も経っていたので必要性を問われ、「永吉酒」のイメージを守る商売上の理由としたのである。今でも偶に幼名で呼ばれることもあるが、却って違和感を覚えるくらいで、祖先の心を心としすっかり永吉になりきっている現在である。

昭和五十年、清酒業界全体では販売高一千万石に迫ろうかという「わが世の春」の頂点にあった。地方の中小蔵も、この年発足した日本名門酒会(後に我社も会員となる)を始めとする流通業界の強力な意欲を得て、地方酒ブームのはしりをみせる。しかし秋田の酒はスケールメリットを持つ灘、伏見などの大手の進出で、徐々に押されていき同業者間の競争も激化していった。業界の清酒生産の完全自由化(四十九年七月)は、それまで酒造業界に長年浸透していた販路拡大の意識を強め生産過剰を生む結果となった。大手が次々と増量体制を整え台頭するに従い、小規模メーカーは廃業或いは合併へと追い込まれていった。五十年代前半は民間設備投資が極めて低い水準で推移し、特に個人消費の落ち込みで不況感が一層強まっていった。こうした社会背景も影響しピーク時である五十二年以降の出荷量は減少の一途を辿る事になる。だがこのころはまだ「灘、伏見の上級酒」、「秋田の二級酒」というように、所謂棲み分けがなされていた。

この頃天寿の販売量のうち九十九%は県内で消費され、その中でも本荘・由利地区の地場消費が九十%を占める典型的な地酒メーカーで、伝統ある品質のよい酒造りを推し進めるとともに、地元第一主義を前面に打ち出していた。地元で喜ばれるものを念頭に置き販売も問屋に任せるのでなく、自ら積極的に小売店回りを行い、小売店からの要望、消費者のニーズをくみ上げることに務めた。「積み重ね主義」の実践がその頃の方針、背伸びはせず、毎年着実に販売量を伸ばして行った。五十七、八年頃の低迷期に、全国の大手メーカーや県内各メーカーが軒並み前年実績を割り込む中にあっても、販売数量を落とすことなく業績を伸ばし続けたのである。これは地元重視を貫いた結果地元の人たちが支えてくれた事によるものと思っている。

台湾日本酒事情
2005-07-01

台湾日本酒事情

代表取締役社長 大井建史

清々しい春の気候も過ぎ、六月半ばから矢島の里も大分暑くなって参りました。

「落語と天寿を楽しむ会」は今年も三遊亭鳳楽師匠をお迎えし、満席のお客様に最初から笑いの渦でご満足をいただき、大変ありがたく、師匠にもご来場頂いたお客様にも、心から感謝申し上げます。

先日、台湾の取引先であります「シティ・スーパー台湾」と日本酒評論家の松崎晴雄氏の酒の会が台北で開かれ行って参りました。世界最高の101ビル(101階建て)の市庁舎が立ち、パソコン輸出量世界一等大きく変化している台北ですが、全体的な経済の状況は決して良くはなく、上海等中国本土への投資が続いてきたとの事でした。日本酒の消費量はアメリカに次ぎ現在二位の国です。これまで大手メーカーの商品しか輸出が許されませんでしたが、台湾がWTOに加盟し、一挙に地酒メーカーの取り扱いが増えたようです。松崎氏の会へ参加した日本のメーカーはなんと40社に登りました。

関税は40%とかなりの高率であり、現地では日本国内価格の三倍近くとなりますが、日本人の経営店だけでなく、現地の方の経営される和食レストランも相当なレベルとなり、日本酒も品質を吟味して使うお店が増えてきたとの事です。その中で、お蔭様で天寿もやっと輸出が動き出した感を持てるようになりました。選んで頂いた理由は、「高くてもお客様の選択が、大手メーカーのものより多かったから。」銘柄で選べない現地の方が圧倒的に多いお店で、一合につき百円高いお酒の方が売れるからだというのです。感動しました。

お燗の酒も良く飲まれるのだそうです。日本でもお燗の事を「熱燗」と習慣だけで言う人が非常に多いわけですが、これは本来熱い燗の事を言います。海外では特に「ハッとするほど熱い酒」が多く、この間違いを正すのは大変です。「Hot」ではなく「Warm」なのです。普通は40度から50度の間でしょう。68度を超えますとお酒が焦げてきます。等々を一生懸命お話をさせて頂きました。

皆様も、台北へご旅行の際に和食を食べたくなりましたら、是非お立ち寄りください。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー8

五代目永吉 そのⅧ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

清酒の醸造において、良質な原料米を豊富に且つ容易に確保する事に勝るとも劣らない必須条件は良質な醸造用水を豊富に且つ容易に得ることである。たとえ原料米は他県から購入運搬するとしても、醸造用水を多量に遠くから運ぶことは生産コストからみて困難で事実上不可能といっていい。従って旧藩時代において、湯沢、六郷、矢島、新屋、増田その他良水のよく湧出する所には酒造業者が多かったことをみても、いかに酒質と水とに密接な関係があるかが察知されよう。

秋田、山形の日本海側県境にある鳥海山、および秋田、山形、岩手との県境を走る奥羽山脈とこれを結び起伏する出羽丘陵に水源を発して直流または伏流して県内諸所に湧出する井水は清冽で、その水質は酒造に好適である事が、本県に優れた酒が多く生産された重要な要因である。

(以上秋田県酒造史)

酒造りにとって水は命である。昔から「良い酒をつくるなら良い水を探せ」といわれていて、全国に良水探しの苦心談は枚挙に暇がないほどである。

矢島の里は鳥海山が雄大な裾野を広げる北東の盆地、鳥海山に降り積もった雪は万年雪となり、やがて永い年月を経て大地に濾過され湧き出る湧水や豊富な井水があり、水質も酒造りに適していたので、藩政時代から御用酒屋があり、院内銀山の盛んな頃は、笹子の松ノ木峠(現在は国道108号でトンネルが通っているが昔は難所だった)を越えて運ばれた記録がある。

清酒創業の二代目永吉は、政治手腕でお城の堀から直接蔵に水を引いて洗米や雑用水に用いたが、仕込水は井水を使っていた。矢島に昔から良水の湧出する「森屋」といわれる一画があり、五、六軒あった蔵元も殆どその近辺に存在していた(現存二社も同)。かってそこに「そうりんじの井戸」と呼ばれた良い井戸があり、各蔵もその水を汲んでいた。昔は水汲みは難儀な仕事で、大きな水桶を天秤棒で担ぐか、雪道は大きな橇に積んで運んだものだった。造りの作業時間が大体同じなので各蔵の水汲みの時間も同じころになってしまう。造石数が増えてくると湧出量に限度があるから先を争うようになり、元気のいい若勢達故に喧嘩になることもしばしばあったという。そこで話し合いの結果、湧出量を多くするには深く掘り下げればいいと言うことになり早速掘り下げたところ、すっかり水質が変わってしまい酒造りには使えぬ水になってしまったという笑えぬ事実があったことを五代目から聞いている。

五代目はよく水脈の大切さを説き、自分でも「森屋」の地域に難儀をして土地を買い求め三つの井戸を掘った。幸い質、量共に良い井戸で、水質は硬度2025 mg/Lの軟水で秋田流の「低温長期醸造」に適しており、きめ細かくまろやかな旨口の酒質を生んでいる。

五代目は醸造用水の面でも大きな功績を残しているのである。

春が来た…。
2005-05-01

春が来た…。

代表取締役社長 大井建史

三月二十二日に由利本荘市となった矢島の里も、例年より一週間遅れと言うことで今週になって桜が咲き始めました。庭の雪が全て消えたのも昨日で、気温も今日(4月27日)は一挙に上がって二十度です。ふきのとうや水仙・こぶしの花なども一斉に咲き始め、雪どけの増水以外にも明るく体感できるまさに春です。

三月末に皆造(上槽まで全て終わる事)となり、四月十五日には季節工の蔵人は家路につきました。貯蔵蔵も壜貯蔵用冷蔵倉庫も満タンで、静かに熟成しながら皆様にお楽しみ頂ける時を待っております。

この酒造りで困ったのは、一般掛米の確保でした。昨年の塩害で、秋田県としては大変珍しく米が不足したのです。又、減反により作付け面積がかなり減少したため、高額で売れる可能性のある銘柄の飯米に集中している事も一因です。

こういう場合、原料米を探す先は米の商社に成る訳ですが、これがまあ色々出て来ます。東北より南では、各地で山田錦が作られていますが、その品質と価格の様々な事といったら大変な物がありました。弊社の美山錦より遥かに安い物が沢山あるのです。(酷い物はくず米に近い様な三等米も有りました。道理で山田錦一〇〇%の安い酒が増えるはずですね)

お酒の値段

最近のお酒の市場を考えると、十年前に比べて特定名称のお酒の価格がかなり安くなってきています。「この品質でこの価格」と言う看板商品で有名になり、それからその酒蔵全体の商品を紹介して行くのがブランド確立への道との考え方もあり、(実際にその成功例も有りますよね)判る気もします。三年位前までは純米吟醸の50%精米クラスで一升瓶三千円以下の酒でないと市場性が弱いと言われていましたが、最近では異なるものではあるのですが焼酎との比較から、二千五百円位にならないかとの話が出てきております。専門店での市場動向による要望ですが、酷い話だということも良く理解している方々なのです。本格焼酎のブームの中で如何に日本酒の販売が厳しいかと言う悲鳴でもある訳です。当然造り酒屋の私共からは、重いため息と脂汗が出て眩暈がする訳ですが…。

純米吟醸「鳥海山」(美山錦50%精米・1800ml 三千円)を生み出すために、大吟醸の750kg仕込に負けないクォリティーを実現しようと、米洗い・限定吸水・蒸し・もろみ管理にどれだけの研究と設備投資を行ったかを思うと、情けなく思えてしまうのは、造り手の我侭な自己満足から来るのかも知れませんが…。

ピーク時に900万石だった日本酒が500万石割る事が一昨年話題となり、昨年焼酎に製造量で超され、早くも400万石を割るのも時間の問題となって来たようです。一方、海外では日本酒が和食と共に日本の食文化を担う物として認められ、順調な伸びを示しております。また、フランスのワインやドイツのビールはその国での消費量が減少していないとの話も出てきました。日本酒の価値や有り方が益々問われる時代となりました。

精進いたします。皆様のご支援よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー7

五代目永吉 その七

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五代目の功績の一つにラベルの更新に着目したことが挙げられると思う。「天寿」の酒名も酒質の評判も上がり、売り上げも順調に伸びていたが、統制時代の企業整備会社、製造もままにならない頃である。五代目は時代の先を読み、企業整備会社からの分離操業そして独立自由化を見透しそれに備えたのか、昭和二十七年に旧二級酒(現精撰)一級酒(現本醸造)のラベルを一新している。そのデザインを取引の印刷会社ではなく郷土矢島町出身の当時著名な芸術家であった「斉藤佳三」に委嘱したのである。

「斉藤佳三は明治二十年生まれ。県立第一中学(現秋田高校)から早稲田中に転校、さらに順天中に編入、卒業した後、音楽の道を志し東京音楽学校師範科に入学した。大正二年渡欧し、モダニズムの影響を受けた。帰国後は「総合美術」を目指し、家具、工芸のインテリア、服飾デザイン、作詞、作曲と音楽、さらには舞踊劇、舞台美術と多彩な分野で才能を発揮。また日本で最初に商業デザインを説き、日本の近代美術史の一時代を築いた。」

(秋田魁新報)

斬新で優れたデザインのラベルは評判となり、「天寿」の蔵元のイメージも高め、その後の躍進の原動力にもなったのである。

旧一級(現本醸造)

斎藤の着想は日本海の夕日だったが、五代目は社運の上昇を願い旭日に変えた。

斎藤の着想は日本海の夕日だったが、五代目は社運の上昇を願い旭日に変えた。

五代目の希望で鶴・亀・鳥海山・松竹梅と目出度いもの尽くしの図案である。

デザイナーのサイン入りのラベルは今でも珍しい。

「合併直前の矢島から」
2005-03-01

「合併直前の矢島から」

代表取締役社長 大井建史

暖冬と思われた今年の冬は、一月半ばから数十年ぶりの大豪雪となり、酒蔵の圧壊防止のための除排雪に、大変な労力を費やしております。農家の作業小屋や建設会社の車庫の圧壊のニュースの中、本日(三月二日)も危険な個所が増えた為、今年三度目となる全社員での重機も使用する除排雪作業となりました。(もちろん毎日除雪作業はしておりますが…)三月にこの様な作業を行わなければならないのは、いくら雪国秋田でも異常な事ですし、これで気温が上がりますと一挙に雪が重くなり、建物の圧壊や屋根の軒の損壊につながります。

二月二十七日には花酵母研究会の酒蔵見学研修で、中田先生を始めとする会員の皆さんが弊蔵にいらっしゃいましたが、その際も夕方から大雪で視界不良となり、雪の多さと猛威に度胆を抜かれた様でした。

そんな中、二月の四週目から昨日にかけて今年の大吟醸の上槽が無事終了致しました。杜氏曰く「ねらい通りに行きました。」との事ですが、今年の杜氏のねらいは当たっているのか外しているのか?皆様にご評価頂きたいと思います。

確かに原料処理に関するこの3年間の努力の結果、私共の理想とする蒸米に限りなく近づいてきたとは思っております。杜氏と釜屋の研究により甑肌も完全に出なくなり、その目標水分も誤差の範囲に収まるようになりました。結果、味に幅とふくらみが増したと思います。また、花酵母の仕込みの研究や中田先生のお教えにより、弊社は汲水歩合が少ない造りですが、追水の使い方が上手くなりました。したがって、定番商品の質的向上がかなり図られたと思っております。

二月十二日の蔵開放へご参加頂きました皆様、ボランティアスタッフとしてお手伝い頂きました皆様本当にありがとうございました。お蔭様で千四百人を超える方々にお越し頂きました。何かと対応不足や不手際・失礼があったかと存じますが、日頃の感謝の気持ちと、天寿の思いをお伝えしたいという熱意で精一杯の対応をさせて頂きました。その熱意に免じてご容赦頂ければと存じます。

平成の大合併の嵐の中、矢島藩、矢島県、矢島町となって以来百十六年独立独歩の町として頑張って参りましたが、三月二十二日から一市七町合併による新市「由利本荘市」となります。(私は市名「鳥海市」推進派でしたが、いまだに残念でなりません)住所は由利郡を由利本荘市に変えるだけで郵便番号等他に変更箇所はありませんが、ラベルや裏張りダンボール箱等全ての住所表示を変更しなければならず、大変な状態になっております。(在庫のラベルや変更経費は誰が…誰も心配してくれませんよね…)

まだ次女の受験が終わっておりませんので、もうしばらく緊張の日々が続きますが…?益々精進して参ります。今後ともご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー6

五代目永吉の飛躍その六

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五代目は旧制本荘中学校の六期卒業生だが、スポーツは柔道、剣道(撃剣と父は言っていた)野球と、なんでもやったようだ。特にボートは対校試合の選手で、当時(明冶四十年代)は秋田中学との定期戦のみだったようだが、レースに勝った時の記念か優勝旗を立てたクルーの誇らしげな顔の写真が残っている。

本荘高校のボートは学校創立と共に端艇部として創部された校技と言われる伝統スポーツで、全国優勝も数多く全国にその名が知られている。私も本荘高校でオールを握り、京都国体に出場、私の三男仁史(現天寿酒造常務)もまた本荘高校で艇に乗り国体、インターハイに出場した三代に亘るボートマン家系である。その故で、本荘高校ボート百周年の式典で親子三代表彰の栄誉を受けている。

五代目はまたリーダーの資質に富み、中学時代軍事教練で全校が二つに別れての模擬戦争で一方の大将となり、作戦から攻撃までを指揮して勝利した話や、家業についてからは消防の小頭をやるなど、若いころから地域のリーダーであったことを聞かされている。昭和十二年、四十四歳で推されて町議会議員に当選、以来連続八期三十年間総務委員長、副議長などを歴任、最後の二期は議長として、国鉄矢島線開通、矢島中学校創立、矢島町消防団常備部設置、鳥海山国定公園指定、上水道の設置、県立矢島高校の誘致や国道108号線の実現などに携わり町の発展、近代化に貢献した。「町が発展しなければ会社の発展もない」が信条だった。

五代目は戦後、極端な食糧難で酒造も規制・減石された時期、酒造業だけでは生活も苦しく、また復員してくる従業員のためにも、他に事業を求めて悩んだ末、地域から原料を調達でき、初期投資が少なくて始められる製造業として製材業を選び、昭和二十四年隣接の敷地に工場を建て、大井製材所を創業(三十二年株式に改組、社長に就任、専務に私が就任)した。最初は自分の持ち山から木を切り出して製材技術を向上させながら次第に販路も広げていった。

時代は戦後復興期であり、木材の需要はうなぎ昇りに上がった。東京木場の秋田材の問屋からの引き合いも始まり、度々の設備投資に伴い生産量も急速に増え、四十年代のピーク時には杉専門の一般製材として年間二万五千石をこなす迄になった。その頃は本業の酒造業も成長期にあり、工場建物の増改築建築材の提供、資金面や人的な応援などは本業の発展に大きな力となったのである。しかしその後、製材業を囲む経済環境は急速に変化、外材の輸入拡大、建築の非木質化などによる需要の減退は、容赦なく零細工場を窮地に追い込んだ。最盛期には矢島町だけでも十指を超える製材所があり、木材産地を形成していたが、次々に撤退、平成十年には当社ともう一社の二社のみとなっていた。当社も市場悪化に耐え切れず、工場を任せていた役員の老齢化もあって遂に十月一日をもって撤退を決議、丁度五十年に亘る営業を閉じたのである。

五代目は酒造業のみならず地域の政治経済に大きな足跡を刻み、子孫の我々にも強い影響を及ぼしている。

「和醸良酒」への思い
2005-01-01

「和醸良酒」への思い

代表取締役社長 大井建史

明けましておめでとうございます。平素のご愛顧に心より御礼申し上げます。

天寿では現在、杜氏の威信をかけた大吟醸仕込みの真っ最中で、造り蔵全体に清々しい緊張感が満ちております。

今年も、全てを見直しており、精米・洗米・酵母選定・麹・酒質タイプなどをより鮮明に、さらに向上させながらもあくまでも天寿らしいお酒をと、蔵を上げ頑張っております。

昨年は天変地異の年でした。連続して襲い来る台風・新潟の地震・最後には広島の原爆以来の、一瞬にして莫大な死傷者を出したスマトラの大地震と大津波。自然の脅威と言うには余りにも恐ろしく、地球の上で生かされている事を改めて実感させられる年でした。(それに比べてイラクの戦争や北朝鮮問題等、なんと悲しく愚かしい事か…)

社長を受け継いで六年目となりました。百三十一度目の酒造りをさせてもらえる有り難さを噛締めて、是非「これこそ」と言われる酒を目指したいと思います。 ご案内のとおり、この5年間で色々な設備の更新・「社員一丸体制」を目指した組織改革等行って参りましたが、これも私を含めて天寿社員全員の方向性の統一と資質の向上、そして何よりも全員が同じ目標を追い求められる社員一丸体制、つまり柔軟で強靭な「和」を全員で作り上げる事を目指しております。そして、これこそが「世界に通用する銘醸蔵」になれる道、和醸良酒だと思います。

私の未熟・非才ゆえに遅々としておりますが、世界に通用する名醸蔵を目指し、お客様は常に正しいと認識し、会社の、或いは自分の有るべき姿を求め、自信と誇りの持てる仕事をするために、現在の天寿の歴史を担う一人として「今」自分に何が出来るのか良く見つめ、新年にあたり四股を踏みなおして精進して参ります。

本年もご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史ー5

五代目永吉 その五

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和四十九年九月二十三日矢島高校の体育館を会場に、創業百周年の記念式典と祝賀会が盛大に行われた。来賓、地元本荘由利、秋田市の卸・小売の得意先、併せて三百人余、祝賀会は本荘芸妓連の舞台や、民謡、手踊り、その頃企業竿灯で参加していた「天寿」の竿灯を入れた秋田竿灯会の妙技など、賑やかに、華やかにとり行なわれ、会社の勢いを示す創業以来の一大イベントであった。

五代目は社長挨拶で「我社では、皆様に良い酒《天寿》を飲んで、大いに天寿を楽しんでいただくようにと、常に研究を怠らず業に励んで参ったのでありまして、戦前より全国品評会において優等賞、東北や県の品評会でも常に上位入賞の栄を得ております。

今、創業一世紀を終え、二世紀に向かって歩みを進める時、あたかも酒造業界は完全自由化の時代を迎えようとしております。激動する将来に思いを致し全社員一本となって益々技術の研鑽に励み、経営の近代化、合理化に努め、サービスの一層の向上を図って皆様の日頃のご好意とご支援に報いたい所存でございます。」と感謝と今後の決意を述べ、永年勤続社員二十名の表彰を行った。

また、百周年を記念して、郡市内の八十八才以上の方々の長寿をお祝いし、一升徳利入り「天寿百年」をそれぞれのご自宅にお届けし、大変喜ばれた。このサービスはいろいろ変化しながらも百三十周年の現在まで続けられている。

時を同じくして、清酒生産の完全自由化が四十九年七月にスタートし、業界はまさに自由競争の時代に突入したのであった。酒造業界には四十年代前半のいざなぎ景気もあって拡大路線をとる会社が多く、全国の出荷量は一気に一千万石に迫った。

当社は販売量の増加に伴い、毎年のように設備投資を行い、製造能力も飛躍的に向上、昭和五十一年に課税移出数量のピークを迎えることとなるが、その前年の昭和五十年、百周年の式典の日から丁度一年後の九月二十三日、五代目は天寿の歴史に大きな足跡を残して八十二才の生涯を閉じたのである。

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