「酒税改正」
代表取締役社長 大井建史
二月の酒蔵開放には、今年も沢山のお客様においでいただき、心から感謝申し上げます。弊社の日頃のご愛顧への感謝と酒造りに対する「思い」をお伝えする事が出来たのであれば、これに勝る喜びはありません。また、お手伝い頂いた弊社社員の人数を越えるボランティアスタッフの皆様には、「見る」側から「踊る」側に来て「思い」を共有して頂き、重ねて御礼申し上げます。
二月の四週目は輸出の関係で香港・台湾へ行って参りました。香港では十二月に弊社の蔵で研修し、蔵人と一緒に酒を酌み交わしたイボンヌ・沼田両女性バイヤーと再会し、彼女達が企画した日本酒祭りに参加。台湾では大変お世話になっている前園バイヤーと天寿取り扱いの飲食店を回って参りました。結果として和食レストランだけで、楽しみにしていた現地の料理はほとんど味わう事が出来なくなってしまいました。
今、世界中で日本食流行りの感がありますが、ご存知のように現地では高級レストランかそれに近いものが多く、非常に高くつきます。日本酒も現地のレストランで飲みますと、安くても日本での小売価格の四倍以上となります。
私ども酒蔵の人間が仕事でとはいえ気合の必要な価格となります。判ってはいるつもりでおりましたが、五代目がよく言っていた「酒の一滴は血の一滴」を実感する所でありました。高くても良いとは決して思いませんが、海外で日本酒の高い価値観を見るにつけ、国内における清酒の当り前過ぎる存在感。ワインの三千円は普通でも、清酒の三千円は「高〜い」と言う存在価値の低さの打破が重要だと感じてしまいます。神代の時代に遡る積りはありませんが、晴の物(目出度いもの・神につながるもの)との認識は持って頂きたいものと思います。
酒税改正が五月に行われます。なぜ「改正」と言われるのかよく判りません。三増酒は清酒ではなくリキュールとなり税金が高くなるとの事。非常に性急で時期尚早な結論であるが良く思い切ったものと最初は思いました。元来三増酒は戦中・戦後の米不足の時代に清酒の不足を補うために国の指導で造られました。誤解を恐れず単純に言いますと、アルコール・糖・酸味料(コハク酸・乳酸等)を使用して同じ米の量で三倍の清酒を造る方法です。三増酒その物の販売ではなく、清酒に二割前後混和しているのが地方の常識でした。米は世界相場の十倍近い価格ではありますがかなり前から余っており、遅ればせながら清酒の糖・酸味料の使用を禁止するのかと思いきや、二増酒(便宜的造語)は良いとの事。三増酒を清酒でなくする意味が判りません。三増酒より二増酒の方が良いのか?混和率を高めれば一緒ですよね?原材料表示も今までと変わらず、お客様には何の変化も無い訳です。…理由が判りました。三増酒その物の販売が清酒としては出来なくなるそうです。三増酒その物ですか…ハハー成る程。それでは合成酒は?え!残るのですか!へ〜そうですか…。アッ!表示の変更はありませんよね?去年の住所変更と一昨年の精米歩合の表示で毎年ラベル印刷のし直しで使えなくなったラベルの山なんですが…?無い!ホッ!助かります〜。てな感じです。
130周年を迎える 天寿の歴史(五)ー4
製造場建物の変遷そのⅠ
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
天寿の歴史は今年で創業百三十一年を数えるが、その製造設備について、我が家に残されている古文書や資料により変遷を辿ってみる。
初代永吉は本家五代目大井光曙の時代に分家されているが、その際頂いた漢詩の書の掛け軸の裏面に、自分の二篇の漢詩と共に次の文言が記されている。
【文政第十三年改元天保元庚寅秋八月十有六日分家而于仝栄吉居新街 同第四癸巳春三月三日応需前掛一幅】
天保元年(1830年)に分家して新街(現在通称新町)に居住しているから、その年に家を建てたとしても最初の建物は今年で百七十六年を経ているのである。 初代永吉は麹と濁酒を営んでいたから、麹室や釜場、酒蔵とまではいかなくとも仕込み桶の何本かは並べられる建物はあったと思われる。それが二代目に受け継がれ約四十年後の明治七年清酒製造の免許を得て新しく土蔵が建てられたのか、濁酒時代にすでに建てられていたのかは定かでない。
明治十六年十月に三代目が「酒造関係建物書上げ」を簡単な図面と共に届け出している。
【区域総坪参百壱坪、右絵図面之棟数相違無之、前後増減及変換之節者更ニ取調御引替可仕候也
由利郡城内村酒造営業人
大井与四郎】
相続前の三代目だが仕事はすでに受け継いでいたのだろう、二年前の明治十四年九月「清酒醸造引継営業願」を時の郡長蒔田広孝に出し、直ちに聞き届けられている。そして同年に出した「酒造見込石御届」には玄米百弐拾石 白米百八石但、玄米壱石ニ付一割減 此清酒百二十石とある。本宅の坪数も入れての三百坪の建物設備で、百二十石の酒造りをしていたわけだが、「建物書上げ」を出したのは増改築か新築があったための届けであったかも知れない。
操業時に建築されたと言われ、今も「壱号蔵」と名づけている蔵の入り口部分、土蔵造りの観音開きと漆喰の引き戸、その内側の木の格子戸に当時の名残を遺しているが、残念ながら永い歴史を感じさせる古い建物はあまり残っていない。ただ現在我々家族が住んでいる住居部は部分改築しながらも歴史が偲ばれる築百七十余年の姿をのこしており、酒蔵開放イベント時抹茶接待の場などで来客に喜ばれている。