「皆造後の酒蔵は」
代表取締役社長 大井建史
今年の酒造りもすっかり終り、四月二十一日には季節の蔵人が皆家路に着きました。
桜のつぼみが今にもほころびそうな気配の中、酒の熟成を見守るように、造り蔵は静寂に包まれています。今年の大雪による雪害は、雪が消えると次々に現れ、屋根や壁の折損等、なんと九箇所に及びました。
酒造りの方は非常に順調で、蒸し米の究極の含有水分の確認や、温度制御の確認、仕込み水の有効活用、洗米・蒸し米の比較試験等々、様々な成果をだして参りました。技術開発投資ですから、せっかく準備した物が不要になる事もあります。経営に当たる人間としては、杜氏や蔵人が酒造りに望む設備環境を作るのが仕事ではありますが、時にぼやきたくなるのも事実です。
前回も少しふれましたが、五月一日に酒税改正が実施されます。天寿商品も一部改定されます。私が天寿に入って二十一年間に何度も価格改定はありましたが、値上げの記憶は一度しかありません。その他は全て酒税の増税、または消費税の改定です(+消費税を最初は内税表示、その後外税表示、なぜかまた内税表示にされました)。これは、あまり知られてないと思いますが、現在課税移出千三百kl (七千二百石)以下の中小酒蔵に対し、経営支援のための酒税軽減処置(租税特別措置法)が有り、これが、昨年まで酒税の30%、今年と来年が25%、再来年からは打ち切りとなります。この法の打ち切りによりかなりの酒蔵が廃業に追込まれるだろうと言われております。
今回の酒税改正はワインとの酒税格差を縮めた事には意義があると思いますが、国会を通って実施までの期間が短く、秋田での改正法の説明会は4月18日でした。流通からの改正後の価格提出は二ヶ月前から求められ、変更の可能性のある、議論中の改正案に対しての検討を始めましたが、議決されない法については監督官庁も質問に答えられず、疑問だらけのままの突入となります。増造酒の廃止にしても、皆造後の実施の為、試験できるのは五月以降も酒を造る三季または四季醸造している大手の酒造会社のみとなり、大変な思いの地方蔵が沢山有ります。
この様な状況の中、各酒造会社から新価格が発表されましたが、大きく三つのタイプの実施になったかと思います。①全製品減税額分値下げ(低アルコール酒は値上げ・大手型)②一部製品変更(特定名称酒・贈答品・小瓶等は据え置き地元レギュラー酒値下げ対応) ③全製品据え置き(据え置く事により酒税減税分の値上げ)となり、弊社は②型を選択させて頂きました。改定により減額される酒税相当額を販売価格から減ずるのが本来でございます。しかし、長年にわたり酒税増税以外の価格変更が出来ず、酒税軽減処置の廃止が目前にせまり、最近の石油関連の高騰を代表とする長年の原価の増大により、価格を据え置き、酒税減税分の値上げをさせて頂く事と致しました。しかし、地元で最も多くご愛顧いただいております、精撰1.8L・酒パック1.8Lの商品は、なんとか努力して下げ対応をさせて頂きました。
今後も益々、製造過程の高度化等に取り組み、品質の向上に努めますので、何卒、事情ご賢察の上、ご高配賜りますようお願い申し上げます。
130周年を迎える 天寿の歴史(五)ー5
製造場建物の変遷ーⅡ
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
昭和四年十二月十一日の本荘税務署受付印がある製造場図面が保存されている。製造場の新築、増改築等免許場に変化のあった場合には届ける義務があるので、恐らく設備に大きな変化があったのであろう。明治十六年の記録から四十年以上の歴史を刻んで規模も拡大し、酒蔵として必要な施設設備を備えまとまった形が出来上がっている。三代目、四代目の努力の足跡がはっきり判る図面である。五代目の話では戦前で売り上げを二千石まで伸ばしているが、昭和初期、ホーロータンクという当時としては革命的な容器が発明されて単位面積当たりの貯蔵能力も飛躍的に増加しているので、その後戦時を挟んで施設設備の面では終戦までは大きな変化が無かったと思われる。
昔の蔵にまつわる幼少の頃の冬の記憶はあまり無い。酒造期間は仕事の邪魔になるから酒蔵の方に行かないように言われていた為かもしれない。台所の前の通路を隔てた向いが蔵用の流しと釜場になっていて、毎朝、釜屋(蒸米係り)が甑から少量の蒸米を採り、木の棒を使い手のひらで圧しつけるように捏ねて《ひねり餅》をつくり、蒸し具合を判断したものだが、その作業が面白いのと、ひょうたんなどに形づくった《ひねり餅》が欲しくて早起きしてねだったことや、精米所に入り込んで遊んでいるうちに、昇降機の軸の回転に半ズボンの裾が巻きこまれる危うい目に会って、ひどく叱られたことなどが断片的に記憶に残っている。
図面では「桶枯らし場」がかなりのスペースを取っているが、夏期間の閑散とした酒蔵や桶枯らし場は良い遊び場で、近所の友達と走り回ったり、かくれんぼしたりした想い出は多い。枯らし場には十石〜二十石の大きな木桶が何十本も横になって並んでいたものである。
木桶は江戸初期から中期にかけて開発された酒を大量に醸造するための大型容器で、この容器の開発で酒造技術も大いに進歩したと言われている。以後江戸・幕末・はおろか明治、大正、昭和に入っても使われ続けた実に息の長い容器であったが、欠陥もあった。木製であるために雑菌が付着し木目に食い込んで、その殺菌に大いに手間暇がかかった。「湯打場」があり、六尺桶といって横にしても大人の背が立つ大きさだから、横にした桶の中に入り棒の先に藁を括り付けた“もんだら”という今のデッキブラシ状のもので桶に湯を掛けてはどんと当てずうーと引くその長閑なリズムが耳に残っている。そうした洗いの後、和釜の上に真ん中に一寸程の穴の開いた鬼蓋を乗せ、それに桶を伏せて蒸気を強く噴き込み加熱殺菌をするのである。それを今度は天日に干し、柿渋を塗り枯らし場に並べるのだが、何しろ図体がデカイので大変な作業であった。現在、容器は全て鉄製のホーローやグラスライニング、或いはステンレスタンクに代わり、いまでは往時の苦労を知る蔵人は居ない。