「コミュニティー」
代表取締役社長 大井建史
低温で大雨の続いた梅雨でしたが、梅雨明けから順調に晴天が続き、米の受粉期も無事に過ぎ、酒米研究会の田圃は今の所順調です。十八年ぶりに我が母校の本荘高校が甲子園に出場しました。弊社営業土田の長男も出ましたが、一回戦天理高校と対戦。健闘しましたが、初戦を飾る事は出来ませんでした。ザンネン。
その後、お盆過ぎまで真夏日が続いておりましたが、最近は朝夕に少し涼しさが出てまいりました。九月の十日には三百年の伝統がある矢島の八朔祭が執り行われます。前日の宵宮から情緒あるお祭ですが、42歳で若者も卒業ですので、私も祭から離れて5〜6年になってしまいました。祭の運営も高齢化と人口減から、山車を構成する六丁ともメンバー不足で大変なようです。地方のこの様な行事は、同様の理由で本当に大変になってきました。矢島小学校は長女の頃は3クラスでしたが、今では1クラスの学年が出始めました。
阪神の大震災以来その土地のコミュニティーが大事だという事は首相も話していますが、中央がやる事は東京基準でその土地に生きていないので、その破壊を加速する事ばかりです。例えば一月十五日が休日で無くなったことで、どれだけ多くの小正月行事が消えたか、判っているのでしょうか。東京だと成人式の移動しか思い付かなかったのでしょうね。矢島では才の神焼きという行事があります(ある高名な人文学者によると、新潟から秋田南部の地域に残るこの行事は仏教伝来前からのものとの事です)。私の町内も私が子供のころは、小・中学生30人から40人の子供達が集まり準備が全部出来ましたが、今では全員集まっても7人しかおりません。昔から十五日に開催している行事の日にちを変える事に抵抗を感じる方もあるようですが、親はその行事の為に会社を休む事もできず、なかなか解決できない問題となり、町内によっては休止と成った所も有りコミュニティー活動阻害の原因になりました。
この様な問題を考えていると、今の年金問題が浮上してきます。日本で一番出生率の低い県に成ってしまっておりますが、対策で出てくるのは、出産費の補助や、保育園費の補助等ですが、解決策には程遠い状態です。日本の年金は子供の世代が親の世代の年金を払う方式となっております。今の時代に少々の扶養控除だけで子供を育てた人たちがその子供たちから年金を払ってもらうのは判りますが、忙しいとか子供は作らない代わりにゆったりと暮らそう、又は親元から離れず結婚もせず一人で暮らそうと考えた人たちと、子供を一生懸命育て上げた人達が、同じ条件で年金を貰うというのは、おかしいのではないでしょうか?中には子供が出来なかった人もあるでしょうから、不穏当な表現もあったかとは思いますが、客観的に子供を育てる事で、どれ程のお金が掛かるかを考えた場合、年金の為の税金が子供を育てなかった人と平等であるのはおかしいと思うのですが…。(実はある人の考えの受け売りなのですが、まさにその通りであると思いましたので書かせて頂きました)子供を育てない人へ の課税又は年金の減額。まさに結婚・出産促進への決定打ではないでしょうか?
130周年を迎える 天寿の歴史
(五)ー6
製造場建物の変遷ーⅢ
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
酒の醸造技術は、容器の大きさに合わせて進歩してきたと言われる。鎌倉時代「甕」と言う大型の土器になったとき、江戸時代「桶」という大型の木製の容器になったとき、そして昭和初期現在の「ホーロータンク」という鉄製の容器になったとき、と大きく分けて三度の容器革命があったと考えてよい。技術の進歩とは、よりよい製品を生み出すための努力の蓄積である。大きな容器が開発されると、それまでの小さな容器による醸造技術をベースに、大きな容器のための酒造技術の開発が進んだ。
昭和三十年代からの日本の産業発展の中で、清酒の需要もしだいに増大し、五十年には一千万石に達したが、大手による生産の大型化とそれに伴う機械器具の発達、技術の進歩 、また、建物も土蔵から鉄筋コンクリート造空調設備の四季醸造工場にすることよって年間の大量生産が可能になった。地方の中小蔵も殆どの作業が手作業であったものが急速に機械化、自動化がすすみ、家業であったものが企業化していった。しかし、生産の集中が過度に進み、販売競争が激化し、大量生産の安酒が大量に出回る結果となり、中小零細蔵は縮小、合併、廃業に追いやられる一方で、昔ながらの手作業による吟醸酒など品格を備えた良酒が市場で力を得ることで、いわゆる二極化がすすんだ。
大量に出回る結果となり、中小零細蔵は縮小、合併、廃業に追いやられる一方で、昔ながらの手作業による吟醸酒など品格を備えた良酒が市場で力を得ることで、いわゆる二極化がすすんだ。
大きな工事(投資)を決断するには、それなりの切っ掛け、転機というものがあるが、天寿の場合工場火災と河川改修がその大きな原因となっている。実は私が物心ついてから現在までに三回の自己失火による火災があった。一回目は私が保育所の頃で、後年伝え聞いた話だが昭和十二年冬、造りの最中であった。その頃は《もろみ》が冷えこまないように木桶の外側に藁菰を巻き、更に極寒には大鉄鍋に灰を入れた火鉢に炭火を熾して仕込庫の温度を保ったようだが、その炭火が撥ねて菰にうつり大事に至ったという。土蔵造りだったので火はその庫内だけでおさまったが、仕込み中の酒は駄目になったと言う。夕方まで残されて帰った六才の私の目に映った興奮鎮まらぬ大人たちの動き、慰労の酒席の消防半纏のひと人の高声、家中の煙の臭いなどが記憶の底に残っている。
二度目は二十六年八月盛夏、私が大学に入学した年の夏休みで、高校時代の友人と川泳ぎに出かけ、終わって田んぼの畦道をぶらぶら近くまで帰って来たときのことだった。サイレンの音に驚いて探した煙の方向があやしい、必死に線路の土手を駆け上ると家の倉庫から火の手が上がっているではないか、その時のショックは今でも忘れることが出来ない。
当時麹室の断熱は藁と土で、毎年解体して天日に干し秋の造り前に新藁を足して床下、四側面、天井にぎっしり詰め込み最上面を土で覆って断熱していた。麹室作りはその年の麹の出来に影響する大切な、しかも難儀な仕事であった。その解体した藁を取り込んでいた裏手の木造倉庫からの失火で、高温、乾燥期であったので火は忽ち隣接の桶の枯らし場を焼きつくし更に別の木造倉庫に移ったが、昼火事で消防団の出動が早かったのと土壁の倉庫だったことがそれ以上の延焼を食い止めたのであった。
その頃は製造、貯蔵とも既にホーロータンクに代わり木桶は殆ど使っていなかったが、大小五十本からの木桶を消失した事は大きな損失であった。