山の緑は今年も元気です
代表取締役社長 大井建史
毎年水源探索イベントで立ち寄る「法体の滝」は日本名瀑百選に選ばれている景勝地ですが、今年は「おくりびと」でアカデミー賞を取った滝田洋二郎監督の「釣りキチ三平」の夜泣谷ロケ地としてにぎわっています。
満員御礼
6月6日に第6回の天寿酒蔵寄席を開催いたしました。もちろん今年も圓生の大名跡を継ぐのも近いと言われる三遊亭鳳楽師匠をお迎えすることが出来、席亭を名乗らせて頂いている私も鼻高々でした。その日の落語は「大山詣り」と「文七元結」。いよいよ円熟されてきた師匠の人情話「文七もっとい」は、一時間以上も聴衆を釘付けにされ、独演会ならではの大変な迫力でした。
酒蔵寄席は元々三遊亭鳳楽師匠と日本の酒と食の文化を守る会会長の村田淳一様が、「日本酒の酒蔵に元気になってもらおう」と企画されました。
「落語の三分の一は酒がらみ」と師匠。「酒の文化は酒蔵が有ってこそ」と村田会長。現在全国二十数社で行なわれております。
その中でも天寿の「落語と天寿を楽しむ会」は一から会場設営する蔵のメンバーの頑張りや、社員が手作りする料理に心が篭っていて一番良いと何時も仰って頂き、毎回精一杯の努力をしております私共にとって何よりも嬉しくありがたい言葉です。(何しろお話の上手なお二人ですので…)
来年の開催も5月の29日(土)とお約束頂きました。まだ見ておられない方、すごく損をしてますよ。今から予定に入れてみてください。
全国新酒鑑評会銀賞
今年広島の全国新酒鑑評会には参加できず、6月17日にサンシャインで行われた日本酒フェアで入賞酒を見て参りました。今年も残念ながら銀賞に留まりました。
全体に見て行きますと、一時期より受賞酒にバラエティが出てきた感があり少し安心致しました。かなりの数は、まだ香り高・甘・ニガシブパターンが多かったのですが、飲みやすいキレのあるスッキリタイプも入賞し始め、うちのは何故入らなかったのか悩みつつ、派手な酒の後ろに並び身薄に取られたかな等と想像しつつも、その広がりを嬉しく思いました。
この十年間で金賞3銀賞5空振り2と言う成績です。蔵人全員が一生懸命になっての成績です。これが天寿の酒の良し悪しだとはもちろん思っておりません。しかし、毎年、総力を結集する事。緊張する事。油断しない事。を素直に突っ走れるこの機会は、酒蔵の蔵人の技術レベル維持・向上に大変役に立つ機会だとありがたく思っております。
今年の大吟醸も大変よい出来だと私は思っております。夏の贈答時期がもう直ぐです。
ご用命頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。
天寿の歴史
(六)ー15
杜氏の系譜 ( 11 )
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
佐藤広作杜氏が勇退を申し出たとき、通年・季節労務を問わず後継者とするべき人材が育っていなかったと言うべきか、残念ながら従業員のなかにはいなかった。
五代目永吉は止む無く即戦力となる人を頼むこととし、その当時秋田銘醸株式会社の取締役をしていた縁で、同社取締役で山内杜氏の大先輩高橋菊治氏にお願いし、山内杜氏の中から推薦してもらった人が中野恭一杜氏である。わが社での矢島杜氏はここで切れることになるが、当時県内で行政としても事業として助成し、毎年講習会を開催し技術の向上を図り杜氏を養成している組織は山内杜氏組合しかなかった。
山内(現横手市山内)村史に「山内若勢が酒造業に多く出稼ぎするようになったのは、村に冬季間の働く場所が少なかったこと、農業より酒屋の方が労働条件・賃金がよいこと、それに明治末期から大正にかけて湯沢酒造業の発展期に入り、冬季出稼ぎ者を必要としたためである。大正時代には、山内村の酒造出稼ぎ者が三百人前後いたといわれているが、これが『酒屋若勢』と称されるようになって「山内杜氏」の発生につながった」と記されている。
大正十一年山内杜氏養成組合を結成、講習会規定に従って毎年夏季酒造講習会を開催し、後には杜氏試験を行い杜氏に任用してきた。「山内杜氏組合杜氏試験に関する規定」(昭和三十六年八月一日制定)は杜氏としてその職務を遂行する能力を有するかどうかを判定するため実施するもので、①受験資格は組合員として十年を経たもの。②副杜氏・頭・又は麹師・酛師の経験を有する者。③現職杜氏、二名以上の推選による者。試験委員は仙台国税局鑑定官、秋田県醸造試験場長及び技師、横手税務署関税課長、など十三条からなる権威ある規定である。
彼は県内外の酒造場で十年以上の経験を積み当然杜氏試験の合格者でもあった。前年まで東洋醸造の清酒工場に勤め雇用条件等は良かったと思われるが、高橋菊治氏の勧めで当社に決めたようであった。
当社の造り事情や慣行等に慣れてもらうため三十七酒造年度は頭(かしら‐蔵人の№2)として勤めてもらうこととし、佐藤広作杜氏にはもう一造り頑張って引き継ぎをしてもらうこととしたのである。昭和三十七年十一月一日より勤務、チームではなく彼単独での蔵入りであった。