百三十一回目の酒造り
代表取締役社長 大井建史
このところ、大変な災害の連続ですが、被災された皆様には心からお見舞いを申し上げます。
秋田県は連続する台風も去る事ながら、お盆の風台風による塩害による被害が一番でした。米作の秋田県平均は三割以上の減収となりましたが、天寿酒米研究会の美山錦の収量は、内陸の為、平年に比べ平均4〜5%の減で済みました。秋の長雨と台風の影響でしょうか、未登熟米の比率がやや高く、米質はやや脆い様ですが、まあまあの出来の様です。
弊社は9月決算ですが、前期の結果は大変厳しいものとなりました。秋田にも本格焼酎の大波が6月頃から押し寄せ、大変な苦戦を強いられております。しかし、小さな船では有りますが、その大波も上手く乗り越えたいものと、社員一丸体制を益々強固にして行きたいと思います。
今年は10月25日から実際の酒造り作業が始まりました。今年も洗米分離機・甑・放冷機の更なる改善加工を行いました。
弊社の酒質は現在のところ、従来型と花酵母の物の二本立てに成っているかのように見えます。(私はそれでも、それぞれの酒に天寿らしさがしっかり有ると思っていますが)これは別物ではなく、最終的には一本の流れの中に統合される酒質を目指す途中経過とお考え頂きたいと思います。
花酵母について
これまでも何度か花酵母の説明をさせて頂きました。しかし、「香りが強い…。今までの物とタイプが違う…。」と言う事で、何か変な物を使っていると、強く偏見を持っている方が散見されます。これは大変な誤解ですし、これまでの各県で開発された新酵母とされる協会酵母のセルレニン耐性株と混同されているところだと思います。解り辛い表現になったと思います。ただ、ご理解頂きたいのは、以下に説明がありますように、花酵母には色々なタイプがあり、香りを出す為の物では有りませんし、大正時代に協会酵母が分離されて以来、初めて自然界から分離された新しい清酒酵母ですので、タイプが違って当たり前で、だからこそ面白いのだとお考え頂きたいのです。農大花酵母研究会のメンバーは、最初に個性的な撫子分離酵母NDー4から使い始めますので、香りの強い物との印象があるかと思いますが、色々な酵母を、長年使用した協会酵母に負けぬよう使いこなせる様努力して参ります。ご理解とご支援のほどよろしくお願いいたします。
花酵母の種類
☆カプロン酸エチル系
・なでしこ分離酵母
NDー4カプロン酸系の香りが高く酢酸イソアミル系が低い。アミノ酸多めで、フルーティな香りの中に、ふくよかな味わい。
・アベリア分離酵母
ABー2カプロン酸系の香りが高く酢酸イソアミル系が低い。甘くフルーティな香りとバランスの良い味わい。リンゴ酸高く飲んだ後に爽やかなキレを感じさせる
☆ 酢酸イソアミル系
・ベゴニア分離酵母 BKー1
酢酸イソアミル系の香りが高くカプロン酸系が低い コハク酸高く男性的どっしりタイプ
・しゃくなげ分離酵母 SNー3
酢酸イソアミル系の香りが高くカプロン酸系が低いスッキリ系
☆ 酢酸イソアミル系高リンゴ酸タイプ(香りの強くないタイプ)
・マリーゴールド分離酵母MRー4
酢酸イソアミル系の香りがやや酢酸イソアミル系の香りがやや快で冷・燗OK
・カトレア分離酵母 KAFー2
優美な香りとしっかりした味わいの中に、爽やかさを感じさせる
・月下美人分離酵母 GEー1
リンゴ酸を含め、酸がやや多くでリンゴ酸を含め、酸がやや多くで
☆ カプロン酸エチル、酢酸イソアミル双方系
ミル双方系
・蔓バラ分離酵母 HNGー5含み香が有り、ふくらみのあるタイプ
・日々草分離酵母 NIー2
しっかりした味わいがありながらすべりが良く、飲み飽きしならすべりが良く、飲み飽きしな
☆ 双方系高リンゴ酸タイプ
(開発 されたばかりの新酵母)
・カーネーション分離酵母CARー1
・コスモス分離酵母 KSー3
等があり、今後が期待されます。
(注) カプロン酸エチル 洋ナシの様な香りの物質。アルプス酵母系の香り。
酢酸イソアミル バナナ・デリシャスリンゴの様な香りの物質。協会9号系の香り。
前記二つの香りのバランスによって、香りのタイプが変わる。
130周年を迎える 天寿の歴史ー4
五代目永吉の飛躍その四
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
戦後の日本経済が占領軍の指揮命令で自由自在に解体、改組されたなか、酒造業界も解体団体のリストに載った。再起の改組に手間取ったが、昭和二十八年戦後新たな秋田県酒造組合が誕生し復元復活の道が開けた。企業整備の苦難の道を歩むこと実に十一年、遂に昭和三十一年十二月二十日、由利酒類製造株式会社から天寿工場は分離し、独立操業の新スタートを切ったのである。
私は昭和三十年広島大学発酵工学科を卒業し、国税庁醸造試験所に助手として勤めていたが、独立操業のこともあってか父の強い要請で三十一年春に帰郷、直ちに入社した。
その頃は完全な売り手市場ではあったが、五代目永吉の良心的な酒造りの姿勢と酒質で、「天寿」の銘柄に対する評価は高まり、売り上げは年ごとに順調に伸びを示し、昭和三十七年には生産数量約千七百石、販売数量約二千五百石を見るに至り、ここでやっと戦前の販売量を超えることが出来たのだった。
しかし当時は、製造数量が戦時統制時の「基本石数」によって制限されていて思うに任せず、止むを得ず一部を未納税酒の買い入れ(桶買)で補完せざるを得なかった。入社早々桶買を担当させられた私は当然経験も無く、「天寿」としての品質維持、またブレンドできる酒質を探すこと、買い入れ量をまとめることなどでいろいろ苦労したが、酒質の見極めや取引の交渉など後の経営にとっていい経験になったと思っている。
四十年代に入り製造数量が三千石にも近づいたので、従来の家業的経営から脱皮し、企業としての酒造業を目指して経営の合理化を図るべく、個人経営の大井酒造店から法人組織に改め、昭和四十三年八月一日、天寿酒造株式会社を設立した。代表取締役社長に五代目永吉、専務には私が就任した。
当時販売先のほとんどが本荘由利の市場に限られていたが、その壁を破り県都秋田に進出したのもこの時期からである。時代の進展に伴い秋田市との経済交流、転勤等人の交流も活発になり、本荘、由利で「天寿」の味を覚えた人々が秋田で愛飲、購買して下さり、その口コミと、TV・CMをはじめネオン看板など積極的な宣伝も効果を挙げて、秋田市場のみで千石をこえ、昭和四十五年には販売数量1、290キロリットル(七千百七十石)。四十八年には販売数量1、454キロリットル(八千百石)と八千石台に乗る大きな躍進の中で、昭和四十九年創業百周年を迎えたのである。