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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

「合併直前の矢島から」
2005-03-01

「合併直前の矢島から」

代表取締役社長 大井建史

暖冬と思われた今年の冬は、一月半ばから数十年ぶりの大豪雪となり、酒蔵の圧壊防止のための除排雪に、大変な労力を費やしております。農家の作業小屋や建設会社の車庫の圧壊のニュースの中、本日(三月二日)も危険な個所が増えた為、今年三度目となる全社員での重機も使用する除排雪作業となりました。(もちろん毎日除雪作業はしておりますが…)三月にこの様な作業を行わなければならないのは、いくら雪国秋田でも異常な事ですし、これで気温が上がりますと一挙に雪が重くなり、建物の圧壊や屋根の軒の損壊につながります。

二月二十七日には花酵母研究会の酒蔵見学研修で、中田先生を始めとする会員の皆さんが弊蔵にいらっしゃいましたが、その際も夕方から大雪で視界不良となり、雪の多さと猛威に度胆を抜かれた様でした。

そんな中、二月の四週目から昨日にかけて今年の大吟醸の上槽が無事終了致しました。杜氏曰く「ねらい通りに行きました。」との事ですが、今年の杜氏のねらいは当たっているのか外しているのか?皆様にご評価頂きたいと思います。

確かに原料処理に関するこの3年間の努力の結果、私共の理想とする蒸米に限りなく近づいてきたとは思っております。杜氏と釜屋の研究により甑肌も完全に出なくなり、その目標水分も誤差の範囲に収まるようになりました。結果、味に幅とふくらみが増したと思います。また、花酵母の仕込みの研究や中田先生のお教えにより、弊社は汲水歩合が少ない造りですが、追水の使い方が上手くなりました。したがって、定番商品の質的向上がかなり図られたと思っております。

二月十二日の蔵開放へご参加頂きました皆様、ボランティアスタッフとしてお手伝い頂きました皆様本当にありがとうございました。お蔭様で千四百人を超える方々にお越し頂きました。何かと対応不足や不手際・失礼があったかと存じますが、日頃の感謝の気持ちと、天寿の思いをお伝えしたいという熱意で精一杯の対応をさせて頂きました。その熱意に免じてご容赦頂ければと存じます。

平成の大合併の嵐の中、矢島藩、矢島県、矢島町となって以来百十六年独立独歩の町として頑張って参りましたが、三月二十二日から一市七町合併による新市「由利本荘市」となります。(私は市名「鳥海市」推進派でしたが、いまだに残念でなりません)住所は由利郡を由利本荘市に変えるだけで郵便番号等他に変更箇所はありませんが、ラベルや裏張りダンボール箱等全ての住所表示を変更しなければならず、大変な状態になっております。(在庫のラベルや変更経費は誰が…誰も心配してくれませんよね…)

まだ次女の受験が終わっておりませんので、もうしばらく緊張の日々が続きますが…?益々精進して参ります。今後ともご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー6

五代目永吉の飛躍その六

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五代目は旧制本荘中学校の六期卒業生だが、スポーツは柔道、剣道(撃剣と父は言っていた)野球と、なんでもやったようだ。特にボートは対校試合の選手で、当時(明冶四十年代)は秋田中学との定期戦のみだったようだが、レースに勝った時の記念か優勝旗を立てたクルーの誇らしげな顔の写真が残っている。

本荘高校のボートは学校創立と共に端艇部として創部された校技と言われる伝統スポーツで、全国優勝も数多く全国にその名が知られている。私も本荘高校でオールを握り、京都国体に出場、私の三男仁史(現天寿酒造常務)もまた本荘高校で艇に乗り国体、インターハイに出場した三代に亘るボートマン家系である。その故で、本荘高校ボート百周年の式典で親子三代表彰の栄誉を受けている。

五代目はまたリーダーの資質に富み、中学時代軍事教練で全校が二つに別れての模擬戦争で一方の大将となり、作戦から攻撃までを指揮して勝利した話や、家業についてからは消防の小頭をやるなど、若いころから地域のリーダーであったことを聞かされている。昭和十二年、四十四歳で推されて町議会議員に当選、以来連続八期三十年間総務委員長、副議長などを歴任、最後の二期は議長として、国鉄矢島線開通、矢島中学校創立、矢島町消防団常備部設置、鳥海山国定公園指定、上水道の設置、県立矢島高校の誘致や国道108号線の実現などに携わり町の発展、近代化に貢献した。「町が発展しなければ会社の発展もない」が信条だった。

五代目は戦後、極端な食糧難で酒造も規制・減石された時期、酒造業だけでは生活も苦しく、また復員してくる従業員のためにも、他に事業を求めて悩んだ末、地域から原料を調達でき、初期投資が少なくて始められる製造業として製材業を選び、昭和二十四年隣接の敷地に工場を建て、大井製材所を創業(三十二年株式に改組、社長に就任、専務に私が就任)した。最初は自分の持ち山から木を切り出して製材技術を向上させながら次第に販路も広げていった。

時代は戦後復興期であり、木材の需要はうなぎ昇りに上がった。東京木場の秋田材の問屋からの引き合いも始まり、度々の設備投資に伴い生産量も急速に増え、四十年代のピーク時には杉専門の一般製材として年間二万五千石をこなす迄になった。その頃は本業の酒造業も成長期にあり、工場建物の増改築建築材の提供、資金面や人的な応援などは本業の発展に大きな力となったのである。しかしその後、製材業を囲む経済環境は急速に変化、外材の輸入拡大、建築の非木質化などによる需要の減退は、容赦なく零細工場を窮地に追い込んだ。最盛期には矢島町だけでも十指を超える製材所があり、木材産地を形成していたが、次々に撤退、平成十年には当社ともう一社の二社のみとなっていた。当社も市場悪化に耐え切れず、工場を任せていた役員の老齢化もあって遂に十月一日をもって撤退を決議、丁度五十年に亘る営業を閉じたのである。

五代目は酒造業のみならず地域の政治経済に大きな足跡を刻み、子孫の我々にも強い影響を及ぼしている。

「和醸良酒」への思い
2005-01-01

「和醸良酒」への思い

代表取締役社長 大井建史

明けましておめでとうございます。平素のご愛顧に心より御礼申し上げます。

天寿では現在、杜氏の威信をかけた大吟醸仕込みの真っ最中で、造り蔵全体に清々しい緊張感が満ちております。

今年も、全てを見直しており、精米・洗米・酵母選定・麹・酒質タイプなどをより鮮明に、さらに向上させながらもあくまでも天寿らしいお酒をと、蔵を上げ頑張っております。

昨年は天変地異の年でした。連続して襲い来る台風・新潟の地震・最後には広島の原爆以来の、一瞬にして莫大な死傷者を出したスマトラの大地震と大津波。自然の脅威と言うには余りにも恐ろしく、地球の上で生かされている事を改めて実感させられる年でした。(それに比べてイラクの戦争や北朝鮮問題等、なんと悲しく愚かしい事か…)

社長を受け継いで六年目となりました。百三十一度目の酒造りをさせてもらえる有り難さを噛締めて、是非「これこそ」と言われる酒を目指したいと思います。 ご案内のとおり、この5年間で色々な設備の更新・「社員一丸体制」を目指した組織改革等行って参りましたが、これも私を含めて天寿社員全員の方向性の統一と資質の向上、そして何よりも全員が同じ目標を追い求められる社員一丸体制、つまり柔軟で強靭な「和」を全員で作り上げる事を目指しております。そして、これこそが「世界に通用する銘醸蔵」になれる道、和醸良酒だと思います。

私の未熟・非才ゆえに遅々としておりますが、世界に通用する名醸蔵を目指し、お客様は常に正しいと認識し、会社の、或いは自分の有るべき姿を求め、自信と誇りの持てる仕事をするために、現在の天寿の歴史を担う一人として「今」自分に何が出来るのか良く見つめ、新年にあたり四股を踏みなおして精進して参ります。

本年もご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史ー5

五代目永吉 その五

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和四十九年九月二十三日矢島高校の体育館を会場に、創業百周年の記念式典と祝賀会が盛大に行われた。来賓、地元本荘由利、秋田市の卸・小売の得意先、併せて三百人余、祝賀会は本荘芸妓連の舞台や、民謡、手踊り、その頃企業竿灯で参加していた「天寿」の竿灯を入れた秋田竿灯会の妙技など、賑やかに、華やかにとり行なわれ、会社の勢いを示す創業以来の一大イベントであった。

五代目は社長挨拶で「我社では、皆様に良い酒《天寿》を飲んで、大いに天寿を楽しんでいただくようにと、常に研究を怠らず業に励んで参ったのでありまして、戦前より全国品評会において優等賞、東北や県の品評会でも常に上位入賞の栄を得ております。

今、創業一世紀を終え、二世紀に向かって歩みを進める時、あたかも酒造業界は完全自由化の時代を迎えようとしております。激動する将来に思いを致し全社員一本となって益々技術の研鑽に励み、経営の近代化、合理化に努め、サービスの一層の向上を図って皆様の日頃のご好意とご支援に報いたい所存でございます。」と感謝と今後の決意を述べ、永年勤続社員二十名の表彰を行った。

また、百周年を記念して、郡市内の八十八才以上の方々の長寿をお祝いし、一升徳利入り「天寿百年」をそれぞれのご自宅にお届けし、大変喜ばれた。このサービスはいろいろ変化しながらも百三十周年の現在まで続けられている。

時を同じくして、清酒生産の完全自由化が四十九年七月にスタートし、業界はまさに自由競争の時代に突入したのであった。酒造業界には四十年代前半のいざなぎ景気もあって拡大路線をとる会社が多く、全国の出荷量は一気に一千万石に迫った。

当社は販売量の増加に伴い、毎年のように設備投資を行い、製造能力も飛躍的に向上、昭和五十一年に課税移出数量のピークを迎えることとなるが、その前年の昭和五十年、百周年の式典の日から丁度一年後の九月二十三日、五代目は天寿の歴史に大きな足跡を残して八十二才の生涯を閉じたのである。

百三十一回目の酒造り
2004-11-01

百三十一回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

このところ、大変な災害の連続ですが、被災された皆様には心からお見舞いを申し上げます。

秋田県は連続する台風も去る事ながら、お盆の風台風による塩害による被害が一番でした。米作の秋田県平均は三割以上の減収となりましたが、天寿酒米研究会の美山錦の収量は、内陸の為、平年に比べ平均4〜5%の減で済みました。秋の長雨と台風の影響でしょうか、未登熟米の比率がやや高く、米質はやや脆い様ですが、まあまあの出来の様です。

弊社は9月決算ですが、前期の結果は大変厳しいものとなりました。秋田にも本格焼酎の大波が6月頃から押し寄せ、大変な苦戦を強いられております。しかし、小さな船では有りますが、その大波も上手く乗り越えたいものと、社員一丸体制を益々強固にして行きたいと思います。

今年は10月25日から実際の酒造り作業が始まりました。今年も洗米分離機・甑・放冷機の更なる改善加工を行いました。

弊社の酒質は現在のところ、従来型と花酵母の物の二本立てに成っているかのように見えます。(私はそれでも、それぞれの酒に天寿らしさがしっかり有ると思っていますが)これは別物ではなく、最終的には一本の流れの中に統合される酒質を目指す途中経過とお考え頂きたいと思います。

花酵母について

これまでも何度か花酵母の説明をさせて頂きました。しかし、「香りが強い…。今までの物とタイプが違う…。」と言う事で、何か変な物を使っていると、強く偏見を持っている方が散見されます。これは大変な誤解ですし、これまでの各県で開発された新酵母とされる協会酵母のセルレニン耐性株と混同されているところだと思います。解り辛い表現になったと思います。ただ、ご理解頂きたいのは、以下に説明がありますように、花酵母には色々なタイプがあり、香りを出す為の物では有りませんし、大正時代に協会酵母が分離されて以来、初めて自然界から分離された新しい清酒酵母ですので、タイプが違って当たり前で、だからこそ面白いのだとお考え頂きたいのです。農大花酵母研究会のメンバーは、最初に個性的な撫子分離酵母NDー4から使い始めますので、香りの強い物との印象があるかと思いますが、色々な酵母を、長年使用した協会酵母に負けぬよう使いこなせる様努力して参ります。ご理解とご支援のほどよろしくお願いいたします。

花酵母の種類

☆カプロン酸エチル系

・なでしこ分離酵母

NDー4カプロン酸系の香りが高く酢酸イソアミル系が低い。アミノ酸多めで、フルーティな香りの中に、ふくよかな味わい。

・アベリア分離酵母

ABー2カプロン酸系の香りが高く酢酸イソアミル系が低い。甘くフルーティな香りとバランスの良い味わい。リンゴ酸高く飲んだ後に爽やかなキレを感じさせる

☆ 酢酸イソアミル系

・ベゴニア分離酵母 BKー1

酢酸イソアミル系の香りが高くカプロン酸系が低い コハク酸高く男性的どっしりタイプ

・しゃくなげ分離酵母 SNー3

酢酸イソアミル系の香りが高くカプロン酸系が低いスッキリ系

☆ 酢酸イソアミル系高リンゴ酸タイプ(香りの強くないタイプ)

・マリーゴールド分離酵母MRー4

酢酸イソアミル系の香りがやや酢酸イソアミル系の香りがやや快で冷・燗OK

・カトレア分離酵母 KAFー2

優美な香りとしっかりした味わいの中に、爽やかさを感じさせる

・月下美人分離酵母 GEー1

リンゴ酸を含め、酸がやや多くでリンゴ酸を含め、酸がやや多くで

☆ カプロン酸エチル、酢酸イソアミル双方系

ミル双方系

・蔓バラ分離酵母 HNGー5含み香が有り、ふくらみのあるタイプ

・日々草分離酵母 NIー2

しっかりした味わいがありながらすべりが良く、飲み飽きしならすべりが良く、飲み飽きしな

☆ 双方系高リンゴ酸タイプ

(開発 されたばかりの新酵母)

・カーネーション分離酵母CARー1

・コスモス分離酵母 KSー3

等があり、今後が期待されます。

(注) カプロン酸エチル 洋ナシの様な香りの物質。アルプス酵母系の香り。

酢酸イソアミル バナナ・デリシャスリンゴの様な香りの物質。協会9号系の香り。

前記二つの香りのバランスによって、香りのタイプが変わる。

130周年を迎える 天寿の歴史ー4

五代目永吉の飛躍その四

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

戦後の日本経済が占領軍の指揮命令で自由自在に解体、改組されたなか、酒造業界も解体団体のリストに載った。再起の改組に手間取ったが、昭和二十八年戦後新たな秋田県酒造組合が誕生し復元復活の道が開けた。企業整備の苦難の道を歩むこと実に十一年、遂に昭和三十一年十二月二十日、由利酒類製造株式会社から天寿工場は分離し、独立操業の新スタートを切ったのである。

私は昭和三十年広島大学発酵工学科を卒業し、国税庁醸造試験所に助手として勤めていたが、独立操業のこともあってか父の強い要請で三十一年春に帰郷、直ちに入社した。

その頃は完全な売り手市場ではあったが、五代目永吉の良心的な酒造りの姿勢と酒質で、「天寿」の銘柄に対する評価は高まり、売り上げは年ごとに順調に伸びを示し、昭和三十七年には生産数量約千七百石、販売数量約二千五百石を見るに至り、ここでやっと戦前の販売量を超えることが出来たのだった。

しかし当時は、製造数量が戦時統制時の「基本石数」によって制限されていて思うに任せず、止むを得ず一部を未納税酒の買い入れ(桶買)で補完せざるを得なかった。入社早々桶買を担当させられた私は当然経験も無く、「天寿」としての品質維持、またブレンドできる酒質を探すこと、買い入れ量をまとめることなどでいろいろ苦労したが、酒質の見極めや取引の交渉など後の経営にとっていい経験になったと思っている。

四十年代に入り製造数量が三千石にも近づいたので、従来の家業的経営から脱皮し、企業としての酒造業を目指して経営の合理化を図るべく、個人経営の大井酒造店から法人組織に改め、昭和四十三年八月一日、天寿酒造株式会社を設立した。代表取締役社長に五代目永吉、専務には私が就任した。

当時販売先のほとんどが本荘由利の市場に限られていたが、その壁を破り県都秋田に進出したのもこの時期からである。時代の進展に伴い秋田市との経済交流、転勤等人の交流も活発になり、本荘、由利で「天寿」の味を覚えた人々が秋田で愛飲、購買して下さり、その口コミと、TV・CMをはじめネオン看板など積極的な宣伝も効果を挙げて、秋田市場のみで千石をこえ、昭和四十五年には販売数量1、290キロリットル(七千百七十石)。四十八年には販売数量1、454キロリットル(八千百石)と八千石台に乗る大きな躍進の中で、昭和四十九年創業百周年を迎えたのである。

感動
2004-09-01

感動

代表取締役社長 大井建史

アテネオリンピック。皆さんもテレビの中継に夢中になった事だろうと思いますがいかがでしたか?日の丸・君が代がこんなに感動的な時はありません。子供達が祖国日本を最初に実感し誇りとするのは、こんな時なのかもしれません。

水泳・女子柔道・体操・女子マラソン等々すごかったですね。沢山の名勝負に私の血は騒ぎ、思わず目頭の熱くなる感動シーンを見ながら、ふと思った事があります。自分の子供の時代は「熱血漢」は「良い人」だったよな!と…。熱血・気合・感動・感涙・全力・積極果敢・突撃…!と最後は違うような気もしますが、なんだか最近身の回りではあまり聞かなくなった言葉であることに、とても寂しい思いがしました。

私共も、及ばずながらお酒でお客様に「感動して頂けるものを醸し上げたい」と何時も考えています。

この九月十日が131回目の創業記念日です。私が社長に就任してから、この冬が六回目の酒造りとなります。酒造計画ももちろんですが、その一本・一本にどのような目標を持たせるのかこれが大きな課題なのです。「熱血」と「気合」を込めて、「積極果敢」に「感動」の酒質を求めて「成せば成る」事を信じてがんばります。

これまでも、目標を定め、一つ一つ課題を越えて来たつもりではありますが、頂上到達には、まだまだ道のりは遥かな様です。

水源探索トレッキング

9月4・5日は水源探索イベントを実施致しました。ご参加頂きました皆様誠にありがとうございました。今回はほとんどが女性で東京からのご参加が多かったのですが、天候に恵まれ絶好のトレッキング日和でした。

最高齢は80歳の女性を先頭に、70代の方も3名いらっしゃいました。ゆっくり2時間のトレッキングコースですがコース整備されているとはいえ舗装はされておりません。石や木の根など沢山あり、上り下りももちろん有りますのでスタッフは心配しておりましたが、全員最後まで歩かれ、夜の天寿を楽しむ会でもしっかり楽しんでおられました。

私共はひたすら感心し、シルバー世代の実力を見せ付けられた思いが致しました。まさに「天寿」の百歳まで幸せに生きる意を体現されているのだと感動させられました。

秋田県は台風で、日本海沿岸部がかなりひどい塩害が出ました。山の広葉樹も茶色に成り田んぼの惨状には目を覆うばかりですが、幸い矢島町は内陸で、天寿酒米研究会のメンバーには被害がありません。今年の米には大変期待しているところです。

さて、秋の味覚の季節がやってきました。秋風や月の美しさが、お酒や料理のうまさを益々引き立てます。

天寿 ぬる燗 旨いですよ!

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー3

五代目永吉の飛躍その三

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五代目は原料統制・生産制限の時代にも酒質の維持改良に力を尽くしたが、近代酒造の技術的進歩は花岡正庸先生に負うところが大変多い。先生は秋田県醸造試験場退官後、昭和十八年から二十八年までの十年間ほとんど隔月に来社して醸造指導に当たられたが、二十八年二月十二日、天寿工場で指導中病に斃れ、不帰の客となられたのである。

「酒の秋田」と謳われるまで、わが県を全国有数の名醸地に育て上げられた花岡先生の偉大な功績は広く世人の知るところだが、五代目が如何に先生を敬慕していたか、秋田県酒造組合が二十九年に刊行した「花岡先生を偲ぶ」に登載された五代目の手記から伺い知られるので、その一部を抜粋する。

「先生は、ただに偉大なる技術者に止まらず、実に天分豊かな高度の文化人で、政治、経済、芸術、あらゆる方面に深い造詣と広い識見をお持ちで、私は醸造のご指導の外に社会各般のことをお聞かせいただくことをこよなく楽しみとし、常に先生のご光来を鶴首してお待ちしておったのであります。…

酒造については、毎秋、本年の醸造は斯く斯くの方針と一つのプランを立て、その方針に基づいて実に詳しく教えてゆかれたのであります。…

先生は、真に醸造界の巨匠でありました。打てば響くていの、この巨匠の胸の敲きかた如何によってわれわれの成否が分かれるので、此方の敲き方が拙いと、結局良い教えをうけられないという結果が生まれ、敲き方によっては如何なる難問も解決されたのでありまして、今更ながら先生の偉大さを感ずるしだいであります。…拙店の屋上の大看板(銘酒天寿醸造元青陽山人書)を仰ぐとき、ことさらに強く先生を想い、わが工場に立てば、在りし日の先生の面影がまざまざと浮かび、お教えの数々が思い出されるのであります。先生の尊霊が永久にわが工場に鎮まっている気が致すのであります。わたくしは勿論蔵人一同、尊霊を汚さぬよう一層努め励み、年毎に良い酒をつくって先生の御霊に供える覚悟でございます。…」

私はその時期学生だったので残念ながら警咳に接する機会はなかったが、父から間接的に先生についての話を聞いて、結果的に父による巨匠の胸の敲き方の真剣さ、上手さが天寿の酒質を向上させたのだと推測している。

実に因縁浅からぬ先生の教えは直伝として今に受け継がれ酒質に生かされているのである。

そして創業以来代々品質向上に真摯にとり組んできた姿勢は伝統となり、現在の「品質に誇りを、顧客に感謝を」の社是となっている。

一笑懸命
2004-07-01

一笑懸命

代表取締役社長 大井建史

連続金賞受賞

東北の麗峰鳥海山の麓矢島の里も梅雨に入り、蒸し暑い日が続いております。

創業百三十年目も後半に差し掛かりました。五月の末に全国新酒鑑評会金賞受賞のニュースが入り、一同大変喜びました。お祝いの言葉をお寄せ頂いた皆様、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

品質向上の計画から実行に移行したこの二年間でしたが、その結果が随所に現れご評価を頂く機会が増え本当に嬉しい限りです。ご協力頂いた皆様に心から感謝申し上げます。杜氏との今年の改善計画にも力が入ります。

地元販売比率が90%を超える弊社と致しましては、県内の焼酎ブームが本格化し、残念ながら地元での売上維持が厳しく、全体的にはマイナスの為手放しに喜べる状態ではございませんが、世界に通用する名醸蔵になる事を目標に、益々真剣に取り組んで参りたいと思います。

天寿酒蔵寄席

六月十二日には創業百三十年を記念して、三遊亭鳳楽師匠をお迎えし「落語と天寿を楽しむ会」を行いました。開催に際しましては、日本の酒と食の文化を守る会の村田会長やプロデュース役の花梨工房の井田さん等色々な方にご助力頂き、いつもとは一味違った、笑いの中にも落ち着いた雰囲気のあるイベントとする事が出来ました。百名近いお客様にご来場頂きましたが、師匠の落語はもちろんですが、日本の食文化を標榜しているのだからと、地元の旬の素材にこだわりお出しした手料理を、お客様にご評価頂けホッと胸を撫で下ろした次第です。

上海清酒事情

ここ数年香港のシティ・スーパーやボルドーのヴィネクスポ等、輸出の活動も続けて参りましたが、実績的には全くこれからと言う状態です。弊社も日本酒輸出機構(SEA)のメンバーですが、一番市場のアメリカには行った事がありません。今、世界中で日本食のレストランが急激に増えており、外国人のヘビィーユーザーも激増しているそうです。ワインがフランス料理と一緒に世界に広まった様に、日本酒も正しい知識・評価と共に和食と一緒に広まって欲しいという思いは、日本の酒蔵共通のものだと思います。海外通の日本人がワインの薀蓄を語られる事は良くありますが、この方達の中で日本の美味しい文化として日本酒を語る事の出来る方の少なさに、非常に悲しい思いを致します。

さて、初めての中国訪問、それも三千万商圏の上海でしたが、そのエネルギーに圧倒される思いでした。現地の日本の方は「中国が資本主義、日本は社会主義」と口をそろえておっしゃいます。中心部のビルのデザインに、私の共産国のイメージはあえなく壊れるかと思いましたが、ベットタウンの地平線まで続く同じ形の団地に、「アーやっぱり」とは思いつつ、昔初めて見た高島平の団地など比較する事も出来ない物量に、やはり恐怖に近い感覚を持ってしまいました。中国の食料輸入国化をすぐに思い出し、自分の子供たちの時代の食料事情を(自分も含まるかな?)ただただ心配してしまいました。

和食レストランは、定額食べ放題・飲み放題が主流との事で、中国現地法人産や日本国内大手メーカーのお酒が、断然多く見うけられました。

食の充実と消費の成熟・安定にはまだどうかなとは思いましたが、ごく少数とは言われながらも極端な富裕層があり、その食事情には触れられる機会はありませんでしたが、誰もがその巨大さに将来性を高く評価されているようです。

さて、わが社はどうするか?厳しい舵取りが続きそうです。鳳楽師匠の色紙にあります「一笑懸命」にがんばって参ります。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー2

五代目永吉の飛躍その二

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

創業のころは造石数わずかに八十石にすぎない蔵だったが、大正初期には三百五十石と日飛躍的な伸びを示している。販売先のほとんどは矢島を中心に由利郡内と限られていたが、昭和十五・六年ころには生産石数千八百石、販売石数では二千石を突破するまでになった。この発展は東京の醸造試験所での研鑚を基礎に、その後も熱心に県内外の先進の蔵元を訪ね研究するなど、酒質の改良に力を注ぐとともに、本荘の支店に力を入れるなど販売に努力した五代目の手腕によるものである。

そうした事業発展途上での太平洋戦争勃発であった。加えて昭和十八年の戦時企業整備の嵐はすべての希望を奪い去るに充分だった。食糧難から原料米は極端に制限され、すべての醸造場は操業中止、そして統制で生まれた由利酒類製造株式会社の矢島第一工場としてかろうじて操業を続けることになった。糠を原料とする合成酒の製造、こうりゃんを原料とする焼酎の製造等そうした事業発展途上での太平洋戦争勃発であった。加えて昭和十八年の戦時企業整備の嵐はすべての希望を奪い去るに充分だった。食糧難から原料米は極端に制限され、すべての醸造場は操業中止、そして統制で生まれた由利酒類製造株式会社の矢島第一工場としてかろうじて操業を続けることになった。糠を原料とする合成酒の製造、こうりゃんを原料とする焼酎の製造等

五代目には大正十一年生まれの長男、私の兄である泰蔵がいた。旧制秋田中学、広島高等工業醸造科を卒業後西条にあった広島県醸造試験所に一年間技手として勤め、まさにこれから家業に就けるという時期が不運にも軍隊に現役で入隊の時と一致したのであった。泰蔵は弘前の十九連隊戦車隊に入隊し渡満、ソ満国境警備に就いたが、幹部候補生となり現地で戦車学校を卒業フィリピンに渡って少尉に任官後間もなく、昭和二十年の一月に壮烈な戦死をとげた。(特進で中尉・従七位勲六等)

中学一年から下宿で家を離れ広島、西条と学校の長期休暇以外は家に帰ることなく、やっとこれからという時の期待の跡取りの死は、戦死とはいえ五代目にとっては大きな人生の番狂わせであり、痛恨事だったと思う。その時十歳年下のまだ中学二年の私にとっても、天寿酒造の将来を背負う運命になろうとは考えてもいないことだった。

戦争による苛烈な運命は日本中いたるところに圧しつけられたが、五代目にとってもこの頃が一番つらい時期だったと思う。戦後も原料米事情は食糧難のため極端に悪化、当然精米歩合も制限された。止むをえない結果として酒質劣化を来たしたが(「金魚酒」と言われ金魚が泳げるほど薄い酒が出回ったのもこの頃である)、五代目はこれをできるだけ防ぐために、夜具布団等と物々交換で原料米を買い入れ酒質を維持、良心的な酒の醸出に努めた・このことが後に「天寿」の名声を高め、販売躍進の大きな要因となったのである。

積善家必有餘慶
2004-05-01

積善家必有餘慶

代表取締役社長 大井建史

矢島の里は、今桜が満開です。蔵人はそれぞれの自宅に帰り、田植えの準備に勤しんでいる頃でしょう。蔵の中は片付け掃除が終わり、 静寂の中で熟成を待つ体制となりました。冷蔵倉庫の中は、壜貯蔵されたお酒で満杯状況です。

私共の蔵は、 私が大学一年の時の壜詰め工場火災と、蔵内を流れる千砂利川の改修工事で創業以来の建物は本宅だけとなっております。その築百七十年を超える仏間の仏壇横の柱に、「積善家必有餘慶」と書かれた木の札が掛かっております。くすんで文字も分からない様な状態ですが、三代目与四郎の書いた物だそうです。初めてそれに気付いて父に聞いたのは、私が家業に入って直ぐの二十年近く前の事ですが、妙に心に残りました。

先日、 七十代後半の創業社長と知り合い、 戦前のエピソードを聞く機会が有りました。 その方がかなり小さい頃、 ご祖父が弊社に来られて土下座をしてお願いしていたのを覚えていると言われました。 土下座と聞いて大変驚きました。しかし、良く内容を聞いて見ると、 その方はその時受け入れられた事への感謝を伝えたかったのでした。 この様名私の知らないエピソードがどれほど有るのか想像もつきません。

五代目と六代目は地元の為に、町議会議長や大部落 (財産区に近いもの)の総代等、様々な役を勤めてきました。 私も青年会議所や商工会青年部 ・ 消防団等、自分成りに一生懸命やって来てはおりますが・・・。

善とは何を指すのでしょう。人間の価値観はその人間が経験してきた人生の中で形成された物差し(価値観)でしか計る事は出来ません。自分の物差しの長さでしか物事は計れず、その長さは必ずしも年齢には比例しないと思います。

近年の経済状況等の厳しさの中で、ゆとりと言う言葉は遥か遠い目標のような気がしてしまう今日この頃ですが、今の自分が出来る「善を積む」とはどんな事なのか?酒造りをしながら出来る事はどんな事なのか?天寿酒造の社長として出来る事はどんなことなのか?自分の短い物差しで「積善家必有餘慶」と書かれた書に向かって考えてしまいました。

静寂を迎えた蔵で桜咲く中、ささやかな自省の時を持つ事が出来ましたが、文字にすると赤面するばかりです。

今後とも精進して参りますので、ご支援の程よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える天寿の歴史

五代目永吉の飛躍その一

代表取締役会長 大井 永吉

五代目は明治二十六年一月一日に生まれ幼名を昌助といった。旧制本荘中学在学中は、特待生として授業料を免除される文武に優れた生徒だった。

若くして (十五歳) 四代目と死別し苦労したが、 免除された授業料を貯めておいて妹の嫁入りの餞にコートを贈るなど家族思いの人でもあったと、 贈られた叔母本人から聞いたことがある。

大正元年東京滝の川醸造試験所に長期講習生として酒造技術を研鑽、矢部偵造、江田鎌治郎、鹿又親など科学的近代清酒製造技術の先覚、偉大な先生方の教えを受け、 当時の最新技術を身につけて帰郷、 その後酒質は飛躍的に進歩向上しり上げ増進の原因となった。

創業当時の小規模な製造場では間に合わなくなり、 隣地を買収して増改築、また昭和三年に従来の銘柄、 「玉の井」 「稲の花」 「大井川」「天寿」 の中から上等酒に付けていた 「天寿」 一本にしぼって世に問うた。 この酒名が愛飲家に喜ばれ、 「天寿」 の名が酒質の良さと相俟って広く知れ渡った。

ここで代表銘柄 「天寿」 の由来について述べてみる。

人生わずか五十年といった時代の七十才といえば、まさに「古来稀なり」であったと思われる。今でも「古希の祝」として祝福する。七十七歳は「喜寿」、八十八歳は「米寿」その上になると「白寿」である。白寿とは九十九歳のこと、百から上部の一画をとると白になる。百から一をとって九十九、即ち「白寿」と洒落たわけだろう。この白寿以上の齢を即ち「天寿」という。

五代目永吉の祖母ノブの喜寿のお祝いのとき、当時中国の青島にいた甥の遠藤文哉氏から喜寿を祝福して六枚の拓本を贈られた。一枚の大きさが一尺余、その中の「天」であえい「寿」であった。その二枚を「天寿」に組み扁額にして居間にかけてあったが、良い新種ができ新しい銘柄を考えていて、ハタと膝を打ち「これだ・・・」といったという。

この拓本は中国の山東省にある泰山の頂上に近い磨崖に、古く後魏の時代に刻まれたといわれる千余文字の金剛経の中の二字なのである。

「泰山の安きに...。」といわれるように天下第一を誇る中国の名山で地質学上、古生代、寒武利亜紀の片麻岩といわれ、地球最古の岩の山とされている。

治乱興亡幾万年、 西は黄河の流れる広漠たる大平原、 東は雲海斗置く旭日を迎える大自然の中に、泰山はそそり立っており、 有史この方泰の始皇帝の時代から数々の名跡を残されている。この文字も二千年の昔を物語る目出度い「天寿」なのである。

顧客の百の齢まで幸せに生きることを願い、歳月だけが刻む込むことのできる風格を込めて酒名に戴いたものである。

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