秋が来た!!
代表取締役社長 大井建史
残暑お見舞い申し上げます。
暑い日々が続いておりますが、皆様におかれましてはご健勝でお過しの事とお喜び申し上げます。また、日頃のご愛顧に厚く感謝申し上げます。
今年の夏は、お蔭様をもちまして天災も今の所無く、酒米も順調に生育しております。しかし、酒蔵の保全作業は相変わらずで、今年は鉄骨蔵部分の防水が老朽化し、屋根の防水シートの交換と外壁のシーリングの打ち直しで脂汗を?流しております。
さて、いよいよ美食の秋、日本酒の秋となって参りました。サンマ漁のニュースも聞こえ始めましたが、酒蔵の中でもお酒の熟成が進み、飲み頃となっております。
天寿は、もともと超地元型で現在も県外への出荷量は7%に過ぎません。最近の私どもからの情報が、香り吟醸型の物が多かったので、今回は主力である純米酒のお勧めをさせていただきます。
社長に成り早々に純米酒の比率を50%以上にと目標を定めましたがまだまだです。現在、特別純米雪の詩・天寿純米酒・旨口純米酒の三種類があります。
特別純米「雪の詩」
このお酒は天寿の旧一級純米酒で、昭和50年代後半の日本酒ブームの時にかなり取り上げられました。純米吟醸がほとんど無い頃に、精米歩合は60%ですが吟造りで、酒造好適米と言う言葉が流通に浸透していない頃に美山錦100%で醸されていたお酒です。味の重い純米が多かった頃ですから、吟系のキレが光っていました。常温・冷や・ぬる燗でどうぞ。
天寿「純米酒」
このお酒は天寿の旧二級純米酒。日本名門酒会に勧誘され最初に取り上げられたのがこの酒です。当初は地元米のヨネシロで造られていました。(地元山間部で作られたヨネシロは一般米の掛け米として評価が高く、山形の庄内地区からも最近まで買われていましたが、奨励品種から外され作られなくなってしまいました。)10年程前から全量弊社自慢の天寿酒米研究会産の美山錦を使用し、精米歩合は酒母60%・掛米65%、協会7号酵母仕込み。米の味をしっかりと、冷や・常温・燗と味わいの幅も広い、じっくり味わえる旨口を目指した純米酒です。個人的には50度位の燗が好きです。
旨口純米酒
昨年暮れに発売した新商品の純米酒です。日本名門酒会とのお値打ち純米企画で、販売価格二千円以内を目標に、その条件下の最高を目指しました。決め手は「農大花酵母マリーゴールド分離株」の使用。一番の特徴はリンゴ酸。秋田県産米の70%精米ですが、しっかりしたキレのあるお酒です。冷や・常温・ぬる燗(40度位)がお勧めです。
味覚の秋、旬の料理と共に、天寿の純米酒をお楽しみください。
130周年を迎える 天寿の歴史(五)ー1
六代目永吉 そのⅠ
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
昭和五十年九月二十三日丁度彼岸の中日、五代目永吉(勲五等瑞宝章)は八十二歳で天寿を全うした。専務の私〔建徳(二男)〕が直ちに代表取締役となり、相続その他派生する諸問題の処理に当たった。十一月三十日の定時株主総会で社長に就任したが、永吉を襲名したのは五十六年九月先代の七回忌を済ませた後である。先代は生前「永吉はいい名前だから襲名した方がいい。」と言っていたが、世の中がどんどん近代化されていく時代であって伝統的なものが今ほど尊重される世相でなく、当時町議会議員で選挙にも出ていたことで何となく古臭いイメージに感じて気後れしていたのであった。
しかし、先代の遺志でもあり「永吉酒」の伝統は守り継いでいかなければならないとの想いも強く、また六代目を継ぐべくして果たせずに戦死した兄(勲六等瑞宝章)の志も代わって果たすべく、先代の七回忌に合わせて新しく墓も立て、決意も新たにして襲名したのであった。
手続きは、家庭裁判所に申請するのであるが、役者の襲名と違って芸名とか通称ではなく戸籍上の名前を変えるのであるからそれなりの理由と覚悟も要るし、前科があれば却下される。私の場合先代の没後五年以上も経っていたので必要性を問われ、「永吉酒」のイメージを守る商売上の理由としたのである。今でも偶に幼名で呼ばれることもあるが、却って違和感を覚えるくらいで、祖先の心を心としすっかり永吉になりきっている現在である。
昭和五十年、清酒業界全体では販売高一千万石に迫ろうかという「わが世の春」の頂点にあった。地方の中小蔵も、この年発足した日本名門酒会(後に我社も会員となる)を始めとする流通業界の強力な意欲を得て、地方酒ブームのはしりをみせる。しかし秋田の酒はスケールメリットを持つ灘、伏見などの大手の進出で、徐々に押されていき同業者間の競争も激化していった。業界の清酒生産の完全自由化(四十九年七月)は、それまで酒造業界に長年浸透していた販路拡大の意識を強め生産過剰を生む結果となった。大手が次々と増量体制を整え台頭するに従い、小規模メーカーは廃業或いは合併へと追い込まれていった。五十年代前半は民間設備投資が極めて低い水準で推移し、特に個人消費の落ち込みで不況感が一層強まっていった。こうした社会背景も影響しピーク時である五十二年以降の出荷量は減少の一途を辿る事になる。だがこのころはまだ「灘、伏見の上級酒」、「秋田の二級酒」というように、所謂棲み分けがなされていた。
この頃天寿の販売量のうち九十九%は県内で消費され、その中でも本荘・由利地区の地場消費が九十%を占める典型的な地酒メーカーで、伝統ある品質のよい酒造りを推し進めるとともに、地元第一主義を前面に打ち出していた。地元で喜ばれるものを念頭に置き販売も問屋に任せるのでなく、自ら積極的に小売店回りを行い、小売店からの要望、消費者のニーズをくみ上げることに務めた。「積み重ね主義」の実践がその頃の方針、背伸びはせず、毎年着実に販売量を伸ばして行った。五十七、八年頃の低迷期に、全国の大手メーカーや県内各メーカーが軒並み前年実績を割り込む中にあっても、販売数量を落とすことなく業績を伸ばし続けたのである。これは地元重視を貫いた結果地元の人たちが支えてくれた事によるものと思っている。