「合併直前の矢島から」
代表取締役社長 大井建史
暖冬と思われた今年の冬は、一月半ばから数十年ぶりの大豪雪となり、酒蔵の圧壊防止のための除排雪に、大変な労力を費やしております。農家の作業小屋や建設会社の車庫の圧壊のニュースの中、本日(三月二日)も危険な個所が増えた為、今年三度目となる全社員での重機も使用する除排雪作業となりました。(もちろん毎日除雪作業はしておりますが…)三月にこの様な作業を行わなければならないのは、いくら雪国秋田でも異常な事ですし、これで気温が上がりますと一挙に雪が重くなり、建物の圧壊や屋根の軒の損壊につながります。
二月二十七日には花酵母研究会の酒蔵見学研修で、中田先生を始めとする会員の皆さんが弊蔵にいらっしゃいましたが、その際も夕方から大雪で視界不良となり、雪の多さと猛威に度胆を抜かれた様でした。
そんな中、二月の四週目から昨日にかけて今年の大吟醸の上槽が無事終了致しました。杜氏曰く「ねらい通りに行きました。」との事ですが、今年の杜氏のねらいは当たっているのか外しているのか?皆様にご評価頂きたいと思います。
確かに原料処理に関するこの3年間の努力の結果、私共の理想とする蒸米に限りなく近づいてきたとは思っております。杜氏と釜屋の研究により甑肌も完全に出なくなり、その目標水分も誤差の範囲に収まるようになりました。結果、味に幅とふくらみが増したと思います。また、花酵母の仕込みの研究や中田先生のお教えにより、弊社は汲水歩合が少ない造りですが、追水の使い方が上手くなりました。したがって、定番商品の質的向上がかなり図られたと思っております。
二月十二日の蔵開放へご参加頂きました皆様、ボランティアスタッフとしてお手伝い頂きました皆様本当にありがとうございました。お蔭様で千四百人を超える方々にお越し頂きました。何かと対応不足や不手際・失礼があったかと存じますが、日頃の感謝の気持ちと、天寿の思いをお伝えしたいという熱意で精一杯の対応をさせて頂きました。その熱意に免じてご容赦頂ければと存じます。
平成の大合併の嵐の中、矢島藩、矢島県、矢島町となって以来百十六年独立独歩の町として頑張って参りましたが、三月二十二日から一市七町合併による新市「由利本荘市」となります。(私は市名「鳥海市」推進派でしたが、いまだに残念でなりません)住所は由利郡を由利本荘市に変えるだけで郵便番号等他に変更箇所はありませんが、ラベルや裏張りダンボール箱等全ての住所表示を変更しなければならず、大変な状態になっております。(在庫のラベルや変更経費は誰が…誰も心配してくれませんよね…)
まだ次女の受験が終わっておりませんので、もうしばらく緊張の日々が続きますが…?益々精進して参ります。今後ともご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。
130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー6
五代目永吉の飛躍その六
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
五代目は旧制本荘中学校の六期卒業生だが、スポーツは柔道、剣道(撃剣と父は言っていた)野球と、なんでもやったようだ。特にボートは対校試合の選手で、当時(明冶四十年代)は秋田中学との定期戦のみだったようだが、レースに勝った時の記念か優勝旗を立てたクルーの誇らしげな顔の写真が残っている。
本荘高校のボートは学校創立と共に端艇部として創部された校技と言われる伝統スポーツで、全国優勝も数多く全国にその名が知られている。私も本荘高校でオールを握り、京都国体に出場、私の三男仁史(現天寿酒造常務)もまた本荘高校で艇に乗り国体、インターハイに出場した三代に亘るボートマン家系である。その故で、本荘高校ボート百周年の式典で親子三代表彰の栄誉を受けている。
五代目はまたリーダーの資質に富み、中学時代軍事教練で全校が二つに別れての模擬戦争で一方の大将となり、作戦から攻撃までを指揮して勝利した話や、家業についてからは消防の小頭をやるなど、若いころから地域のリーダーであったことを聞かされている。昭和十二年、四十四歳で推されて町議会議員に当選、以来連続八期三十年間総務委員長、副議長などを歴任、最後の二期は議長として、国鉄矢島線開通、矢島中学校創立、矢島町消防団常備部設置、鳥海山国定公園指定、上水道の設置、県立矢島高校の誘致や国道108号線の実現などに携わり町の発展、近代化に貢献した。「町が発展しなければ会社の発展もない」が信条だった。
五代目は戦後、極端な食糧難で酒造も規制・減石された時期、酒造業だけでは生活も苦しく、また復員してくる従業員のためにも、他に事業を求めて悩んだ末、地域から原料を調達でき、初期投資が少なくて始められる製造業として製材業を選び、昭和二十四年隣接の敷地に工場を建て、大井製材所を創業(三十二年株式に改組、社長に就任、専務に私が就任)した。最初は自分の持ち山から木を切り出して製材技術を向上させながら次第に販路も広げていった。
時代は戦後復興期であり、木材の需要はうなぎ昇りに上がった。東京木場の秋田材の問屋からの引き合いも始まり、度々の設備投資に伴い生産量も急速に増え、四十年代のピーク時には杉専門の一般製材として年間二万五千石をこなす迄になった。その頃は本業の酒造業も成長期にあり、工場建物の増改築建築材の提供、資金面や人的な応援などは本業の発展に大きな力となったのである。しかしその後、製材業を囲む経済環境は急速に変化、外材の輸入拡大、建築の非木質化などによる需要の減退は、容赦なく零細工場を窮地に追い込んだ。最盛期には矢島町だけでも十指を超える製材所があり、木材産地を形成していたが、次々に撤退、平成十年には当社ともう一社の二社のみとなっていた。当社も市場悪化に耐え切れず、工場を任せていた役員の老齢化もあって遂に十月一日をもって撤退を決議、丁度五十年に亘る営業を閉じたのである。
五代目は酒造業のみならず地域の政治経済に大きな足跡を刻み、子孫の我々にも強い影響を及ぼしている。