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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

台湾日本酒事情
2005-07-01

台湾日本酒事情

代表取締役社長 大井建史

清々しい春の気候も過ぎ、六月半ばから矢島の里も大分暑くなって参りました。

「落語と天寿を楽しむ会」は今年も三遊亭鳳楽師匠をお迎えし、満席のお客様に最初から笑いの渦でご満足をいただき、大変ありがたく、師匠にもご来場頂いたお客様にも、心から感謝申し上げます。

先日、台湾の取引先であります「シティ・スーパー台湾」と日本酒評論家の松崎晴雄氏の酒の会が台北で開かれ行って参りました。世界最高の101ビル(101階建て)の市庁舎が立ち、パソコン輸出量世界一等大きく変化している台北ですが、全体的な経済の状況は決して良くはなく、上海等中国本土への投資が続いてきたとの事でした。日本酒の消費量はアメリカに次ぎ現在二位の国です。これまで大手メーカーの商品しか輸出が許されませんでしたが、台湾がWTOに加盟し、一挙に地酒メーカーの取り扱いが増えたようです。松崎氏の会へ参加した日本のメーカーはなんと40社に登りました。

関税は40%とかなりの高率であり、現地では日本国内価格の三倍近くとなりますが、日本人の経営店だけでなく、現地の方の経営される和食レストランも相当なレベルとなり、日本酒も品質を吟味して使うお店が増えてきたとの事です。その中で、お蔭様で天寿もやっと輸出が動き出した感を持てるようになりました。選んで頂いた理由は、「高くてもお客様の選択が、大手メーカーのものより多かったから。」銘柄で選べない現地の方が圧倒的に多いお店で、一合につき百円高いお酒の方が売れるからだというのです。感動しました。

お燗の酒も良く飲まれるのだそうです。日本でもお燗の事を「熱燗」と習慣だけで言う人が非常に多いわけですが、これは本来熱い燗の事を言います。海外では特に「ハッとするほど熱い酒」が多く、この間違いを正すのは大変です。「Hot」ではなく「Warm」なのです。普通は40度から50度の間でしょう。68度を超えますとお酒が焦げてきます。等々を一生懸命お話をさせて頂きました。

皆様も、台北へご旅行の際に和食を食べたくなりましたら、是非お立ち寄りください。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー8

五代目永吉 そのⅧ

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

清酒の醸造において、良質な原料米を豊富に且つ容易に確保する事に勝るとも劣らない必須条件は良質な醸造用水を豊富に且つ容易に得ることである。たとえ原料米は他県から購入運搬するとしても、醸造用水を多量に遠くから運ぶことは生産コストからみて困難で事実上不可能といっていい。従って旧藩時代において、湯沢、六郷、矢島、新屋、増田その他良水のよく湧出する所には酒造業者が多かったことをみても、いかに酒質と水とに密接な関係があるかが察知されよう。

秋田、山形の日本海側県境にある鳥海山、および秋田、山形、岩手との県境を走る奥羽山脈とこれを結び起伏する出羽丘陵に水源を発して直流または伏流して県内諸所に湧出する井水は清冽で、その水質は酒造に好適である事が、本県に優れた酒が多く生産された重要な要因である。

(以上秋田県酒造史)

酒造りにとって水は命である。昔から「良い酒をつくるなら良い水を探せ」といわれていて、全国に良水探しの苦心談は枚挙に暇がないほどである。

矢島の里は鳥海山が雄大な裾野を広げる北東の盆地、鳥海山に降り積もった雪は万年雪となり、やがて永い年月を経て大地に濾過され湧き出る湧水や豊富な井水があり、水質も酒造りに適していたので、藩政時代から御用酒屋があり、院内銀山の盛んな頃は、笹子の松ノ木峠(現在は国道108号でトンネルが通っているが昔は難所だった)を越えて運ばれた記録がある。

清酒創業の二代目永吉は、政治手腕でお城の堀から直接蔵に水を引いて洗米や雑用水に用いたが、仕込水は井水を使っていた。矢島に昔から良水の湧出する「森屋」といわれる一画があり、五、六軒あった蔵元も殆どその近辺に存在していた(現存二社も同)。かってそこに「そうりんじの井戸」と呼ばれた良い井戸があり、各蔵もその水を汲んでいた。昔は水汲みは難儀な仕事で、大きな水桶を天秤棒で担ぐか、雪道は大きな橇に積んで運んだものだった。造りの作業時間が大体同じなので各蔵の水汲みの時間も同じころになってしまう。造石数が増えてくると湧出量に限度があるから先を争うようになり、元気のいい若勢達故に喧嘩になることもしばしばあったという。そこで話し合いの結果、湧出量を多くするには深く掘り下げればいいと言うことになり早速掘り下げたところ、すっかり水質が変わってしまい酒造りには使えぬ水になってしまったという笑えぬ事実があったことを五代目から聞いている。

五代目はよく水脈の大切さを説き、自分でも「森屋」の地域に難儀をして土地を買い求め三つの井戸を掘った。幸い質、量共に良い井戸で、水質は硬度2025 mg/Lの軟水で秋田流の「低温長期醸造」に適しており、きめ細かくまろやかな旨口の酒質を生んでいる。

五代目は醸造用水の面でも大きな功績を残しているのである。

春が来た…。
2005-05-01

春が来た…。

代表取締役社長 大井建史

三月二十二日に由利本荘市となった矢島の里も、例年より一週間遅れと言うことで今週になって桜が咲き始めました。庭の雪が全て消えたのも昨日で、気温も今日(4月27日)は一挙に上がって二十度です。ふきのとうや水仙・こぶしの花なども一斉に咲き始め、雪どけの増水以外にも明るく体感できるまさに春です。

三月末に皆造(上槽まで全て終わる事)となり、四月十五日には季節工の蔵人は家路につきました。貯蔵蔵も壜貯蔵用冷蔵倉庫も満タンで、静かに熟成しながら皆様にお楽しみ頂ける時を待っております。

この酒造りで困ったのは、一般掛米の確保でした。昨年の塩害で、秋田県としては大変珍しく米が不足したのです。又、減反により作付け面積がかなり減少したため、高額で売れる可能性のある銘柄の飯米に集中している事も一因です。

こういう場合、原料米を探す先は米の商社に成る訳ですが、これがまあ色々出て来ます。東北より南では、各地で山田錦が作られていますが、その品質と価格の様々な事といったら大変な物がありました。弊社の美山錦より遥かに安い物が沢山あるのです。(酷い物はくず米に近い様な三等米も有りました。道理で山田錦一〇〇%の安い酒が増えるはずですね)

お酒の値段

最近のお酒の市場を考えると、十年前に比べて特定名称のお酒の価格がかなり安くなってきています。「この品質でこの価格」と言う看板商品で有名になり、それからその酒蔵全体の商品を紹介して行くのがブランド確立への道との考え方もあり、(実際にその成功例も有りますよね)判る気もします。三年位前までは純米吟醸の50%精米クラスで一升瓶三千円以下の酒でないと市場性が弱いと言われていましたが、最近では異なるものではあるのですが焼酎との比較から、二千五百円位にならないかとの話が出てきております。専門店での市場動向による要望ですが、酷い話だということも良く理解している方々なのです。本格焼酎のブームの中で如何に日本酒の販売が厳しいかと言う悲鳴でもある訳です。当然造り酒屋の私共からは、重いため息と脂汗が出て眩暈がする訳ですが…。

純米吟醸「鳥海山」(美山錦50%精米・1800ml 三千円)を生み出すために、大吟醸の750kg仕込に負けないクォリティーを実現しようと、米洗い・限定吸水・蒸し・もろみ管理にどれだけの研究と設備投資を行ったかを思うと、情けなく思えてしまうのは、造り手の我侭な自己満足から来るのかも知れませんが…。

ピーク時に900万石だった日本酒が500万石割る事が一昨年話題となり、昨年焼酎に製造量で超され、早くも400万石を割るのも時間の問題となって来たようです。一方、海外では日本酒が和食と共に日本の食文化を担う物として認められ、順調な伸びを示しております。また、フランスのワインやドイツのビールはその国での消費量が減少していないとの話も出てきました。日本酒の価値や有り方が益々問われる時代となりました。

精進いたします。皆様のご支援よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー7

五代目永吉 その七

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五代目の功績の一つにラベルの更新に着目したことが挙げられると思う。「天寿」の酒名も酒質の評判も上がり、売り上げも順調に伸びていたが、統制時代の企業整備会社、製造もままにならない頃である。五代目は時代の先を読み、企業整備会社からの分離操業そして独立自由化を見透しそれに備えたのか、昭和二十七年に旧二級酒(現精撰)一級酒(現本醸造)のラベルを一新している。そのデザインを取引の印刷会社ではなく郷土矢島町出身の当時著名な芸術家であった「斉藤佳三」に委嘱したのである。

「斉藤佳三は明治二十年生まれ。県立第一中学(現秋田高校)から早稲田中に転校、さらに順天中に編入、卒業した後、音楽の道を志し東京音楽学校師範科に入学した。大正二年渡欧し、モダニズムの影響を受けた。帰国後は「総合美術」を目指し、家具、工芸のインテリア、服飾デザイン、作詞、作曲と音楽、さらには舞踊劇、舞台美術と多彩な分野で才能を発揮。また日本で最初に商業デザインを説き、日本の近代美術史の一時代を築いた。」

(秋田魁新報)

斬新で優れたデザインのラベルは評判となり、「天寿」の蔵元のイメージも高め、その後の躍進の原動力にもなったのである。

旧一級(現本醸造)

斎藤の着想は日本海の夕日だったが、五代目は社運の上昇を願い旭日に変えた。

斎藤の着想は日本海の夕日だったが、五代目は社運の上昇を願い旭日に変えた。

五代目の希望で鶴・亀・鳥海山・松竹梅と目出度いもの尽くしの図案である。

デザイナーのサイン入りのラベルは今でも珍しい。

「合併直前の矢島から」
2005-03-01

「合併直前の矢島から」

代表取締役社長 大井建史

暖冬と思われた今年の冬は、一月半ばから数十年ぶりの大豪雪となり、酒蔵の圧壊防止のための除排雪に、大変な労力を費やしております。農家の作業小屋や建設会社の車庫の圧壊のニュースの中、本日(三月二日)も危険な個所が増えた為、今年三度目となる全社員での重機も使用する除排雪作業となりました。(もちろん毎日除雪作業はしておりますが…)三月にこの様な作業を行わなければならないのは、いくら雪国秋田でも異常な事ですし、これで気温が上がりますと一挙に雪が重くなり、建物の圧壊や屋根の軒の損壊につながります。

二月二十七日には花酵母研究会の酒蔵見学研修で、中田先生を始めとする会員の皆さんが弊蔵にいらっしゃいましたが、その際も夕方から大雪で視界不良となり、雪の多さと猛威に度胆を抜かれた様でした。

そんな中、二月の四週目から昨日にかけて今年の大吟醸の上槽が無事終了致しました。杜氏曰く「ねらい通りに行きました。」との事ですが、今年の杜氏のねらいは当たっているのか外しているのか?皆様にご評価頂きたいと思います。

確かに原料処理に関するこの3年間の努力の結果、私共の理想とする蒸米に限りなく近づいてきたとは思っております。杜氏と釜屋の研究により甑肌も完全に出なくなり、その目標水分も誤差の範囲に収まるようになりました。結果、味に幅とふくらみが増したと思います。また、花酵母の仕込みの研究や中田先生のお教えにより、弊社は汲水歩合が少ない造りですが、追水の使い方が上手くなりました。したがって、定番商品の質的向上がかなり図られたと思っております。

二月十二日の蔵開放へご参加頂きました皆様、ボランティアスタッフとしてお手伝い頂きました皆様本当にありがとうございました。お蔭様で千四百人を超える方々にお越し頂きました。何かと対応不足や不手際・失礼があったかと存じますが、日頃の感謝の気持ちと、天寿の思いをお伝えしたいという熱意で精一杯の対応をさせて頂きました。その熱意に免じてご容赦頂ければと存じます。

平成の大合併の嵐の中、矢島藩、矢島県、矢島町となって以来百十六年独立独歩の町として頑張って参りましたが、三月二十二日から一市七町合併による新市「由利本荘市」となります。(私は市名「鳥海市」推進派でしたが、いまだに残念でなりません)住所は由利郡を由利本荘市に変えるだけで郵便番号等他に変更箇所はありませんが、ラベルや裏張りダンボール箱等全ての住所表示を変更しなければならず、大変な状態になっております。(在庫のラベルや変更経費は誰が…誰も心配してくれませんよね…)

まだ次女の受験が終わっておりませんので、もうしばらく緊張の日々が続きますが…?益々精進して参ります。今後ともご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー6

五代目永吉の飛躍その六

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五代目は旧制本荘中学校の六期卒業生だが、スポーツは柔道、剣道(撃剣と父は言っていた)野球と、なんでもやったようだ。特にボートは対校試合の選手で、当時(明冶四十年代)は秋田中学との定期戦のみだったようだが、レースに勝った時の記念か優勝旗を立てたクルーの誇らしげな顔の写真が残っている。

本荘高校のボートは学校創立と共に端艇部として創部された校技と言われる伝統スポーツで、全国優勝も数多く全国にその名が知られている。私も本荘高校でオールを握り、京都国体に出場、私の三男仁史(現天寿酒造常務)もまた本荘高校で艇に乗り国体、インターハイに出場した三代に亘るボートマン家系である。その故で、本荘高校ボート百周年の式典で親子三代表彰の栄誉を受けている。

五代目はまたリーダーの資質に富み、中学時代軍事教練で全校が二つに別れての模擬戦争で一方の大将となり、作戦から攻撃までを指揮して勝利した話や、家業についてからは消防の小頭をやるなど、若いころから地域のリーダーであったことを聞かされている。昭和十二年、四十四歳で推されて町議会議員に当選、以来連続八期三十年間総務委員長、副議長などを歴任、最後の二期は議長として、国鉄矢島線開通、矢島中学校創立、矢島町消防団常備部設置、鳥海山国定公園指定、上水道の設置、県立矢島高校の誘致や国道108号線の実現などに携わり町の発展、近代化に貢献した。「町が発展しなければ会社の発展もない」が信条だった。

五代目は戦後、極端な食糧難で酒造も規制・減石された時期、酒造業だけでは生活も苦しく、また復員してくる従業員のためにも、他に事業を求めて悩んだ末、地域から原料を調達でき、初期投資が少なくて始められる製造業として製材業を選び、昭和二十四年隣接の敷地に工場を建て、大井製材所を創業(三十二年株式に改組、社長に就任、専務に私が就任)した。最初は自分の持ち山から木を切り出して製材技術を向上させながら次第に販路も広げていった。

時代は戦後復興期であり、木材の需要はうなぎ昇りに上がった。東京木場の秋田材の問屋からの引き合いも始まり、度々の設備投資に伴い生産量も急速に増え、四十年代のピーク時には杉専門の一般製材として年間二万五千石をこなす迄になった。その頃は本業の酒造業も成長期にあり、工場建物の増改築建築材の提供、資金面や人的な応援などは本業の発展に大きな力となったのである。しかしその後、製材業を囲む経済環境は急速に変化、外材の輸入拡大、建築の非木質化などによる需要の減退は、容赦なく零細工場を窮地に追い込んだ。最盛期には矢島町だけでも十指を超える製材所があり、木材産地を形成していたが、次々に撤退、平成十年には当社ともう一社の二社のみとなっていた。当社も市場悪化に耐え切れず、工場を任せていた役員の老齢化もあって遂に十月一日をもって撤退を決議、丁度五十年に亘る営業を閉じたのである。

五代目は酒造業のみならず地域の政治経済に大きな足跡を刻み、子孫の我々にも強い影響を及ぼしている。

「和醸良酒」への思い
2005-01-01

「和醸良酒」への思い

代表取締役社長 大井建史

明けましておめでとうございます。平素のご愛顧に心より御礼申し上げます。

天寿では現在、杜氏の威信をかけた大吟醸仕込みの真っ最中で、造り蔵全体に清々しい緊張感が満ちております。

今年も、全てを見直しており、精米・洗米・酵母選定・麹・酒質タイプなどをより鮮明に、さらに向上させながらもあくまでも天寿らしいお酒をと、蔵を上げ頑張っております。

昨年は天変地異の年でした。連続して襲い来る台風・新潟の地震・最後には広島の原爆以来の、一瞬にして莫大な死傷者を出したスマトラの大地震と大津波。自然の脅威と言うには余りにも恐ろしく、地球の上で生かされている事を改めて実感させられる年でした。(それに比べてイラクの戦争や北朝鮮問題等、なんと悲しく愚かしい事か…)

社長を受け継いで六年目となりました。百三十一度目の酒造りをさせてもらえる有り難さを噛締めて、是非「これこそ」と言われる酒を目指したいと思います。 ご案内のとおり、この5年間で色々な設備の更新・「社員一丸体制」を目指した組織改革等行って参りましたが、これも私を含めて天寿社員全員の方向性の統一と資質の向上、そして何よりも全員が同じ目標を追い求められる社員一丸体制、つまり柔軟で強靭な「和」を全員で作り上げる事を目指しております。そして、これこそが「世界に通用する銘醸蔵」になれる道、和醸良酒だと思います。

私の未熟・非才ゆえに遅々としておりますが、世界に通用する名醸蔵を目指し、お客様は常に正しいと認識し、会社の、或いは自分の有るべき姿を求め、自信と誇りの持てる仕事をするために、現在の天寿の歴史を担う一人として「今」自分に何が出来るのか良く見つめ、新年にあたり四股を踏みなおして精進して参ります。

本年もご愛顧の程、よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史ー5

五代目永吉 その五

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

昭和四十九年九月二十三日矢島高校の体育館を会場に、創業百周年の記念式典と祝賀会が盛大に行われた。来賓、地元本荘由利、秋田市の卸・小売の得意先、併せて三百人余、祝賀会は本荘芸妓連の舞台や、民謡、手踊り、その頃企業竿灯で参加していた「天寿」の竿灯を入れた秋田竿灯会の妙技など、賑やかに、華やかにとり行なわれ、会社の勢いを示す創業以来の一大イベントであった。

五代目は社長挨拶で「我社では、皆様に良い酒《天寿》を飲んで、大いに天寿を楽しんでいただくようにと、常に研究を怠らず業に励んで参ったのでありまして、戦前より全国品評会において優等賞、東北や県の品評会でも常に上位入賞の栄を得ております。

今、創業一世紀を終え、二世紀に向かって歩みを進める時、あたかも酒造業界は完全自由化の時代を迎えようとしております。激動する将来に思いを致し全社員一本となって益々技術の研鑽に励み、経営の近代化、合理化に努め、サービスの一層の向上を図って皆様の日頃のご好意とご支援に報いたい所存でございます。」と感謝と今後の決意を述べ、永年勤続社員二十名の表彰を行った。

また、百周年を記念して、郡市内の八十八才以上の方々の長寿をお祝いし、一升徳利入り「天寿百年」をそれぞれのご自宅にお届けし、大変喜ばれた。このサービスはいろいろ変化しながらも百三十周年の現在まで続けられている。

時を同じくして、清酒生産の完全自由化が四十九年七月にスタートし、業界はまさに自由競争の時代に突入したのであった。酒造業界には四十年代前半のいざなぎ景気もあって拡大路線をとる会社が多く、全国の出荷量は一気に一千万石に迫った。

当社は販売量の増加に伴い、毎年のように設備投資を行い、製造能力も飛躍的に向上、昭和五十一年に課税移出数量のピークを迎えることとなるが、その前年の昭和五十年、百周年の式典の日から丁度一年後の九月二十三日、五代目は天寿の歴史に大きな足跡を残して八十二才の生涯を閉じたのである。

百三十一回目の酒造り
2004-11-01

百三十一回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

このところ、大変な災害の連続ですが、被災された皆様には心からお見舞いを申し上げます。

秋田県は連続する台風も去る事ながら、お盆の風台風による塩害による被害が一番でした。米作の秋田県平均は三割以上の減収となりましたが、天寿酒米研究会の美山錦の収量は、内陸の為、平年に比べ平均4〜5%の減で済みました。秋の長雨と台風の影響でしょうか、未登熟米の比率がやや高く、米質はやや脆い様ですが、まあまあの出来の様です。

弊社は9月決算ですが、前期の結果は大変厳しいものとなりました。秋田にも本格焼酎の大波が6月頃から押し寄せ、大変な苦戦を強いられております。しかし、小さな船では有りますが、その大波も上手く乗り越えたいものと、社員一丸体制を益々強固にして行きたいと思います。

今年は10月25日から実際の酒造り作業が始まりました。今年も洗米分離機・甑・放冷機の更なる改善加工を行いました。

弊社の酒質は現在のところ、従来型と花酵母の物の二本立てに成っているかのように見えます。(私はそれでも、それぞれの酒に天寿らしさがしっかり有ると思っていますが)これは別物ではなく、最終的には一本の流れの中に統合される酒質を目指す途中経過とお考え頂きたいと思います。

花酵母について

これまでも何度か花酵母の説明をさせて頂きました。しかし、「香りが強い…。今までの物とタイプが違う…。」と言う事で、何か変な物を使っていると、強く偏見を持っている方が散見されます。これは大変な誤解ですし、これまでの各県で開発された新酵母とされる協会酵母のセルレニン耐性株と混同されているところだと思います。解り辛い表現になったと思います。ただ、ご理解頂きたいのは、以下に説明がありますように、花酵母には色々なタイプがあり、香りを出す為の物では有りませんし、大正時代に協会酵母が分離されて以来、初めて自然界から分離された新しい清酒酵母ですので、タイプが違って当たり前で、だからこそ面白いのだとお考え頂きたいのです。農大花酵母研究会のメンバーは、最初に個性的な撫子分離酵母NDー4から使い始めますので、香りの強い物との印象があるかと思いますが、色々な酵母を、長年使用した協会酵母に負けぬよう使いこなせる様努力して参ります。ご理解とご支援のほどよろしくお願いいたします。

花酵母の種類

☆カプロン酸エチル系

・なでしこ分離酵母

NDー4カプロン酸系の香りが高く酢酸イソアミル系が低い。アミノ酸多めで、フルーティな香りの中に、ふくよかな味わい。

・アベリア分離酵母

ABー2カプロン酸系の香りが高く酢酸イソアミル系が低い。甘くフルーティな香りとバランスの良い味わい。リンゴ酸高く飲んだ後に爽やかなキレを感じさせる

☆ 酢酸イソアミル系

・ベゴニア分離酵母 BKー1

酢酸イソアミル系の香りが高くカプロン酸系が低い コハク酸高く男性的どっしりタイプ

・しゃくなげ分離酵母 SNー3

酢酸イソアミル系の香りが高くカプロン酸系が低いスッキリ系

☆ 酢酸イソアミル系高リンゴ酸タイプ(香りの強くないタイプ)

・マリーゴールド分離酵母MRー4

酢酸イソアミル系の香りがやや酢酸イソアミル系の香りがやや快で冷・燗OK

・カトレア分離酵母 KAFー2

優美な香りとしっかりした味わいの中に、爽やかさを感じさせる

・月下美人分離酵母 GEー1

リンゴ酸を含め、酸がやや多くでリンゴ酸を含め、酸がやや多くで

☆ カプロン酸エチル、酢酸イソアミル双方系

ミル双方系

・蔓バラ分離酵母 HNGー5含み香が有り、ふくらみのあるタイプ

・日々草分離酵母 NIー2

しっかりした味わいがありながらすべりが良く、飲み飽きしならすべりが良く、飲み飽きしな

☆ 双方系高リンゴ酸タイプ

(開発 されたばかりの新酵母)

・カーネーション分離酵母CARー1

・コスモス分離酵母 KSー3

等があり、今後が期待されます。

(注) カプロン酸エチル 洋ナシの様な香りの物質。アルプス酵母系の香り。

酢酸イソアミル バナナ・デリシャスリンゴの様な香りの物質。協会9号系の香り。

前記二つの香りのバランスによって、香りのタイプが変わる。

130周年を迎える 天寿の歴史ー4

五代目永吉の飛躍その四

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

戦後の日本経済が占領軍の指揮命令で自由自在に解体、改組されたなか、酒造業界も解体団体のリストに載った。再起の改組に手間取ったが、昭和二十八年戦後新たな秋田県酒造組合が誕生し復元復活の道が開けた。企業整備の苦難の道を歩むこと実に十一年、遂に昭和三十一年十二月二十日、由利酒類製造株式会社から天寿工場は分離し、独立操業の新スタートを切ったのである。

私は昭和三十年広島大学発酵工学科を卒業し、国税庁醸造試験所に助手として勤めていたが、独立操業のこともあってか父の強い要請で三十一年春に帰郷、直ちに入社した。

その頃は完全な売り手市場ではあったが、五代目永吉の良心的な酒造りの姿勢と酒質で、「天寿」の銘柄に対する評価は高まり、売り上げは年ごとに順調に伸びを示し、昭和三十七年には生産数量約千七百石、販売数量約二千五百石を見るに至り、ここでやっと戦前の販売量を超えることが出来たのだった。

しかし当時は、製造数量が戦時統制時の「基本石数」によって制限されていて思うに任せず、止むを得ず一部を未納税酒の買い入れ(桶買)で補完せざるを得なかった。入社早々桶買を担当させられた私は当然経験も無く、「天寿」としての品質維持、またブレンドできる酒質を探すこと、買い入れ量をまとめることなどでいろいろ苦労したが、酒質の見極めや取引の交渉など後の経営にとっていい経験になったと思っている。

四十年代に入り製造数量が三千石にも近づいたので、従来の家業的経営から脱皮し、企業としての酒造業を目指して経営の合理化を図るべく、個人経営の大井酒造店から法人組織に改め、昭和四十三年八月一日、天寿酒造株式会社を設立した。代表取締役社長に五代目永吉、専務には私が就任した。

当時販売先のほとんどが本荘由利の市場に限られていたが、その壁を破り県都秋田に進出したのもこの時期からである。時代の進展に伴い秋田市との経済交流、転勤等人の交流も活発になり、本荘、由利で「天寿」の味を覚えた人々が秋田で愛飲、購買して下さり、その口コミと、TV・CMをはじめネオン看板など積極的な宣伝も効果を挙げて、秋田市場のみで千石をこえ、昭和四十五年には販売数量1、290キロリットル(七千百七十石)。四十八年には販売数量1、454キロリットル(八千百石)と八千石台に乗る大きな躍進の中で、昭和四十九年創業百周年を迎えたのである。

感動
2004-09-01

感動

代表取締役社長 大井建史

アテネオリンピック。皆さんもテレビの中継に夢中になった事だろうと思いますがいかがでしたか?日の丸・君が代がこんなに感動的な時はありません。子供達が祖国日本を最初に実感し誇りとするのは、こんな時なのかもしれません。

水泳・女子柔道・体操・女子マラソン等々すごかったですね。沢山の名勝負に私の血は騒ぎ、思わず目頭の熱くなる感動シーンを見ながら、ふと思った事があります。自分の子供の時代は「熱血漢」は「良い人」だったよな!と…。熱血・気合・感動・感涙・全力・積極果敢・突撃…!と最後は違うような気もしますが、なんだか最近身の回りではあまり聞かなくなった言葉であることに、とても寂しい思いがしました。

私共も、及ばずながらお酒でお客様に「感動して頂けるものを醸し上げたい」と何時も考えています。

この九月十日が131回目の創業記念日です。私が社長に就任してから、この冬が六回目の酒造りとなります。酒造計画ももちろんですが、その一本・一本にどのような目標を持たせるのかこれが大きな課題なのです。「熱血」と「気合」を込めて、「積極果敢」に「感動」の酒質を求めて「成せば成る」事を信じてがんばります。

これまでも、目標を定め、一つ一つ課題を越えて来たつもりではありますが、頂上到達には、まだまだ道のりは遥かな様です。

水源探索トレッキング

9月4・5日は水源探索イベントを実施致しました。ご参加頂きました皆様誠にありがとうございました。今回はほとんどが女性で東京からのご参加が多かったのですが、天候に恵まれ絶好のトレッキング日和でした。

最高齢は80歳の女性を先頭に、70代の方も3名いらっしゃいました。ゆっくり2時間のトレッキングコースですがコース整備されているとはいえ舗装はされておりません。石や木の根など沢山あり、上り下りももちろん有りますのでスタッフは心配しておりましたが、全員最後まで歩かれ、夜の天寿を楽しむ会でもしっかり楽しんでおられました。

私共はひたすら感心し、シルバー世代の実力を見せ付けられた思いが致しました。まさに「天寿」の百歳まで幸せに生きる意を体現されているのだと感動させられました。

秋田県は台風で、日本海沿岸部がかなりひどい塩害が出ました。山の広葉樹も茶色に成り田んぼの惨状には目を覆うばかりですが、幸い矢島町は内陸で、天寿酒米研究会のメンバーには被害がありません。今年の米には大変期待しているところです。

さて、秋の味覚の季節がやってきました。秋風や月の美しさが、お酒や料理のうまさを益々引き立てます。

天寿 ぬる燗 旨いですよ!

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー3

五代目永吉の飛躍その三

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

五代目は原料統制・生産制限の時代にも酒質の維持改良に力を尽くしたが、近代酒造の技術的進歩は花岡正庸先生に負うところが大変多い。先生は秋田県醸造試験場退官後、昭和十八年から二十八年までの十年間ほとんど隔月に来社して醸造指導に当たられたが、二十八年二月十二日、天寿工場で指導中病に斃れ、不帰の客となられたのである。

「酒の秋田」と謳われるまで、わが県を全国有数の名醸地に育て上げられた花岡先生の偉大な功績は広く世人の知るところだが、五代目が如何に先生を敬慕していたか、秋田県酒造組合が二十九年に刊行した「花岡先生を偲ぶ」に登載された五代目の手記から伺い知られるので、その一部を抜粋する。

「先生は、ただに偉大なる技術者に止まらず、実に天分豊かな高度の文化人で、政治、経済、芸術、あらゆる方面に深い造詣と広い識見をお持ちで、私は醸造のご指導の外に社会各般のことをお聞かせいただくことをこよなく楽しみとし、常に先生のご光来を鶴首してお待ちしておったのであります。…

酒造については、毎秋、本年の醸造は斯く斯くの方針と一つのプランを立て、その方針に基づいて実に詳しく教えてゆかれたのであります。…

先生は、真に醸造界の巨匠でありました。打てば響くていの、この巨匠の胸の敲きかた如何によってわれわれの成否が分かれるので、此方の敲き方が拙いと、結局良い教えをうけられないという結果が生まれ、敲き方によっては如何なる難問も解決されたのでありまして、今更ながら先生の偉大さを感ずるしだいであります。…拙店の屋上の大看板(銘酒天寿醸造元青陽山人書)を仰ぐとき、ことさらに強く先生を想い、わが工場に立てば、在りし日の先生の面影がまざまざと浮かび、お教えの数々が思い出されるのであります。先生の尊霊が永久にわが工場に鎮まっている気が致すのであります。わたくしは勿論蔵人一同、尊霊を汚さぬよう一層努め励み、年毎に良い酒をつくって先生の御霊に供える覚悟でございます。…」

私はその時期学生だったので残念ながら警咳に接する機会はなかったが、父から間接的に先生についての話を聞いて、結果的に父による巨匠の胸の敲き方の真剣さ、上手さが天寿の酒質を向上させたのだと推測している。

実に因縁浅からぬ先生の教えは直伝として今に受け継がれ酒質に生かされているのである。

そして創業以来代々品質向上に真摯にとり組んできた姿勢は伝統となり、現在の「品質に誇りを、顧客に感謝を」の社是となっている。

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