一笑懸命
代表取締役社長 大井建史
連続金賞受賞
東北の麗峰鳥海山の麓矢島の里も梅雨に入り、蒸し暑い日が続いております。
創業百三十年目も後半に差し掛かりました。五月の末に全国新酒鑑評会金賞受賞のニュースが入り、一同大変喜びました。お祝いの言葉をお寄せ頂いた皆様、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。
品質向上の計画から実行に移行したこの二年間でしたが、その結果が随所に現れご評価を頂く機会が増え本当に嬉しい限りです。ご協力頂いた皆様に心から感謝申し上げます。杜氏との今年の改善計画にも力が入ります。
地元販売比率が90%を超える弊社と致しましては、県内の焼酎ブームが本格化し、残念ながら地元での売上維持が厳しく、全体的にはマイナスの為手放しに喜べる状態ではございませんが、世界に通用する名醸蔵になる事を目標に、益々真剣に取り組んで参りたいと思います。
天寿酒蔵寄席
六月十二日には創業百三十年を記念して、三遊亭鳳楽師匠をお迎えし「落語と天寿を楽しむ会」を行いました。開催に際しましては、日本の酒と食の文化を守る会の村田会長やプロデュース役の花梨工房の井田さん等色々な方にご助力頂き、いつもとは一味違った、笑いの中にも落ち着いた雰囲気のあるイベントとする事が出来ました。百名近いお客様にご来場頂きましたが、師匠の落語はもちろんですが、日本の食文化を標榜しているのだからと、地元の旬の素材にこだわりお出しした手料理を、お客様にご評価頂けホッと胸を撫で下ろした次第です。
上海清酒事情
ここ数年香港のシティ・スーパーやボルドーのヴィネクスポ等、輸出の活動も続けて参りましたが、実績的には全くこれからと言う状態です。弊社も日本酒輸出機構(SEA)のメンバーですが、一番市場のアメリカには行った事がありません。今、世界中で日本食のレストランが急激に増えており、外国人のヘビィーユーザーも激増しているそうです。ワインがフランス料理と一緒に世界に広まった様に、日本酒も正しい知識・評価と共に和食と一緒に広まって欲しいという思いは、日本の酒蔵共通のものだと思います。海外通の日本人がワインの薀蓄を語られる事は良くありますが、この方達の中で日本の美味しい文化として日本酒を語る事の出来る方の少なさに、非常に悲しい思いを致します。
さて、初めての中国訪問、それも三千万商圏の上海でしたが、そのエネルギーに圧倒される思いでした。現地の日本の方は「中国が資本主義、日本は社会主義」と口をそろえておっしゃいます。中心部のビルのデザインに、私の共産国のイメージはあえなく壊れるかと思いましたが、ベットタウンの地平線まで続く同じ形の団地に、「アーやっぱり」とは思いつつ、昔初めて見た高島平の団地など比較する事も出来ない物量に、やはり恐怖に近い感覚を持ってしまいました。中国の食料輸入国化をすぐに思い出し、自分の子供たちの時代の食料事情を(自分も含まるかな?)ただただ心配してしまいました。
和食レストランは、定額食べ放題・飲み放題が主流との事で、中国現地法人産や日本国内大手メーカーのお酒が、断然多く見うけられました。
食の充実と消費の成熟・安定にはまだどうかなとは思いましたが、ごく少数とは言われながらも極端な富裕層があり、その食事情には触れられる機会はありませんでしたが、誰もがその巨大さに将来性を高く評価されているようです。
さて、わが社はどうするか?厳しい舵取りが続きそうです。鳳楽師匠の色紙にあります「一笑懸命」にがんばって参ります。
130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー2
五代目永吉の飛躍その二
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
創業のころは造石数わずかに八十石にすぎない蔵だったが、大正初期には三百五十石と日飛躍的な伸びを示している。販売先のほとんどは矢島を中心に由利郡内と限られていたが、昭和十五・六年ころには生産石数千八百石、販売石数では二千石を突破するまでになった。この発展は東京の醸造試験所での研鑚を基礎に、その後も熱心に県内外の先進の蔵元を訪ね研究するなど、酒質の改良に力を注ぐとともに、本荘の支店に力を入れるなど販売に努力した五代目の手腕によるものである。
そうした事業発展途上での太平洋戦争勃発であった。加えて昭和十八年の戦時企業整備の嵐はすべての希望を奪い去るに充分だった。食糧難から原料米は極端に制限され、すべての醸造場は操業中止、そして統制で生まれた由利酒類製造株式会社の矢島第一工場としてかろうじて操業を続けることになった。糠を原料とする合成酒の製造、こうりゃんを原料とする焼酎の製造等そうした事業発展途上での太平洋戦争勃発であった。加えて昭和十八年の戦時企業整備の嵐はすべての希望を奪い去るに充分だった。食糧難から原料米は極端に制限され、すべての醸造場は操業中止、そして統制で生まれた由利酒類製造株式会社の矢島第一工場としてかろうじて操業を続けることになった。糠を原料とする合成酒の製造、こうりゃんを原料とする焼酎の製造等
五代目には大正十一年生まれの長男、私の兄である泰蔵がいた。旧制秋田中学、広島高等工業醸造科を卒業後西条にあった広島県醸造試験所に一年間技手として勤め、まさにこれから家業に就けるという時期が不運にも軍隊に現役で入隊の時と一致したのであった。泰蔵は弘前の十九連隊戦車隊に入隊し渡満、ソ満国境警備に就いたが、幹部候補生となり現地で戦車学校を卒業フィリピンに渡って少尉に任官後間もなく、昭和二十年の一月に壮烈な戦死をとげた。(特進で中尉・従七位勲六等)
中学一年から下宿で家を離れ広島、西条と学校の長期休暇以外は家に帰ることなく、やっとこれからという時の期待の跡取りの死は、戦死とはいえ五代目にとっては大きな人生の番狂わせであり、痛恨事だったと思う。その時十歳年下のまだ中学二年の私にとっても、天寿酒造の将来を背負う運命になろうとは考えてもいないことだった。
戦争による苛烈な運命は日本中いたるところに圧しつけられたが、五代目にとってもこの頃が一番つらい時期だったと思う。戦後も原料米事情は食糧難のため極端に悪化、当然精米歩合も制限された。止むをえない結果として酒質劣化を来たしたが(「金魚酒」と言われ金魚が泳げるほど薄い酒が出回ったのもこの頃である)、五代目はこれをできるだけ防ぐために、夜具布団等と物々交換で原料米を買い入れ酒質を維持、良心的な酒の醸出に努めた・このことが後に「天寿」の名声を高め、販売躍進の大きな要因となったのである。