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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

一笑懸命
2004-07-01

一笑懸命

代表取締役社長 大井建史

連続金賞受賞

東北の麗峰鳥海山の麓矢島の里も梅雨に入り、蒸し暑い日が続いております。

創業百三十年目も後半に差し掛かりました。五月の末に全国新酒鑑評会金賞受賞のニュースが入り、一同大変喜びました。お祝いの言葉をお寄せ頂いた皆様、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

品質向上の計画から実行に移行したこの二年間でしたが、その結果が随所に現れご評価を頂く機会が増え本当に嬉しい限りです。ご協力頂いた皆様に心から感謝申し上げます。杜氏との今年の改善計画にも力が入ります。

地元販売比率が90%を超える弊社と致しましては、県内の焼酎ブームが本格化し、残念ながら地元での売上維持が厳しく、全体的にはマイナスの為手放しに喜べる状態ではございませんが、世界に通用する名醸蔵になる事を目標に、益々真剣に取り組んで参りたいと思います。

天寿酒蔵寄席

六月十二日には創業百三十年を記念して、三遊亭鳳楽師匠をお迎えし「落語と天寿を楽しむ会」を行いました。開催に際しましては、日本の酒と食の文化を守る会の村田会長やプロデュース役の花梨工房の井田さん等色々な方にご助力頂き、いつもとは一味違った、笑いの中にも落ち着いた雰囲気のあるイベントとする事が出来ました。百名近いお客様にご来場頂きましたが、師匠の落語はもちろんですが、日本の食文化を標榜しているのだからと、地元の旬の素材にこだわりお出しした手料理を、お客様にご評価頂けホッと胸を撫で下ろした次第です。

上海清酒事情

ここ数年香港のシティ・スーパーやボルドーのヴィネクスポ等、輸出の活動も続けて参りましたが、実績的には全くこれからと言う状態です。弊社も日本酒輸出機構(SEA)のメンバーですが、一番市場のアメリカには行った事がありません。今、世界中で日本食のレストランが急激に増えており、外国人のヘビィーユーザーも激増しているそうです。ワインがフランス料理と一緒に世界に広まった様に、日本酒も正しい知識・評価と共に和食と一緒に広まって欲しいという思いは、日本の酒蔵共通のものだと思います。海外通の日本人がワインの薀蓄を語られる事は良くありますが、この方達の中で日本の美味しい文化として日本酒を語る事の出来る方の少なさに、非常に悲しい思いを致します。

さて、初めての中国訪問、それも三千万商圏の上海でしたが、そのエネルギーに圧倒される思いでした。現地の日本の方は「中国が資本主義、日本は社会主義」と口をそろえておっしゃいます。中心部のビルのデザインに、私の共産国のイメージはあえなく壊れるかと思いましたが、ベットタウンの地平線まで続く同じ形の団地に、「アーやっぱり」とは思いつつ、昔初めて見た高島平の団地など比較する事も出来ない物量に、やはり恐怖に近い感覚を持ってしまいました。中国の食料輸入国化をすぐに思い出し、自分の子供たちの時代の食料事情を(自分も含まるかな?)ただただ心配してしまいました。

和食レストランは、定額食べ放題・飲み放題が主流との事で、中国現地法人産や日本国内大手メーカーのお酒が、断然多く見うけられました。

食の充実と消費の成熟・安定にはまだどうかなとは思いましたが、ごく少数とは言われながらも極端な富裕層があり、その食事情には触れられる機会はありませんでしたが、誰もがその巨大さに将来性を高く評価されているようです。

さて、わが社はどうするか?厳しい舵取りが続きそうです。鳳楽師匠の色紙にあります「一笑懸命」にがんばって参ります。

130周年を迎える 天寿の歴史(四)ー2

五代目永吉の飛躍その二

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

創業のころは造石数わずかに八十石にすぎない蔵だったが、大正初期には三百五十石と日飛躍的な伸びを示している。販売先のほとんどは矢島を中心に由利郡内と限られていたが、昭和十五・六年ころには生産石数千八百石、販売石数では二千石を突破するまでになった。この発展は東京の醸造試験所での研鑚を基礎に、その後も熱心に県内外の先進の蔵元を訪ね研究するなど、酒質の改良に力を注ぐとともに、本荘の支店に力を入れるなど販売に努力した五代目の手腕によるものである。

そうした事業発展途上での太平洋戦争勃発であった。加えて昭和十八年の戦時企業整備の嵐はすべての希望を奪い去るに充分だった。食糧難から原料米は極端に制限され、すべての醸造場は操業中止、そして統制で生まれた由利酒類製造株式会社の矢島第一工場としてかろうじて操業を続けることになった。糠を原料とする合成酒の製造、こうりゃんを原料とする焼酎の製造等そうした事業発展途上での太平洋戦争勃発であった。加えて昭和十八年の戦時企業整備の嵐はすべての希望を奪い去るに充分だった。食糧難から原料米は極端に制限され、すべての醸造場は操業中止、そして統制で生まれた由利酒類製造株式会社の矢島第一工場としてかろうじて操業を続けることになった。糠を原料とする合成酒の製造、こうりゃんを原料とする焼酎の製造等

五代目には大正十一年生まれの長男、私の兄である泰蔵がいた。旧制秋田中学、広島高等工業醸造科を卒業後西条にあった広島県醸造試験所に一年間技手として勤め、まさにこれから家業に就けるという時期が不運にも軍隊に現役で入隊の時と一致したのであった。泰蔵は弘前の十九連隊戦車隊に入隊し渡満、ソ満国境警備に就いたが、幹部候補生となり現地で戦車学校を卒業フィリピンに渡って少尉に任官後間もなく、昭和二十年の一月に壮烈な戦死をとげた。(特進で中尉・従七位勲六等)

中学一年から下宿で家を離れ広島、西条と学校の長期休暇以外は家に帰ることなく、やっとこれからという時の期待の跡取りの死は、戦死とはいえ五代目にとっては大きな人生の番狂わせであり、痛恨事だったと思う。その時十歳年下のまだ中学二年の私にとっても、天寿酒造の将来を背負う運命になろうとは考えてもいないことだった。

戦争による苛烈な運命は日本中いたるところに圧しつけられたが、五代目にとってもこの頃が一番つらい時期だったと思う。戦後も原料米事情は食糧難のため極端に悪化、当然精米歩合も制限された。止むをえない結果として酒質劣化を来たしたが(「金魚酒」と言われ金魚が泳げるほど薄い酒が出回ったのもこの頃である)、五代目はこれをできるだけ防ぐために、夜具布団等と物々交換で原料米を買い入れ酒質を維持、良心的な酒の醸出に努めた・このことが後に「天寿」の名声を高め、販売躍進の大きな要因となったのである。

積善家必有餘慶
2004-05-01

積善家必有餘慶

代表取締役社長 大井建史

矢島の里は、今桜が満開です。蔵人はそれぞれの自宅に帰り、田植えの準備に勤しんでいる頃でしょう。蔵の中は片付け掃除が終わり、 静寂の中で熟成を待つ体制となりました。冷蔵倉庫の中は、壜貯蔵されたお酒で満杯状況です。

私共の蔵は、 私が大学一年の時の壜詰め工場火災と、蔵内を流れる千砂利川の改修工事で創業以来の建物は本宅だけとなっております。その築百七十年を超える仏間の仏壇横の柱に、「積善家必有餘慶」と書かれた木の札が掛かっております。くすんで文字も分からない様な状態ですが、三代目与四郎の書いた物だそうです。初めてそれに気付いて父に聞いたのは、私が家業に入って直ぐの二十年近く前の事ですが、妙に心に残りました。

先日、 七十代後半の創業社長と知り合い、 戦前のエピソードを聞く機会が有りました。 その方がかなり小さい頃、 ご祖父が弊社に来られて土下座をしてお願いしていたのを覚えていると言われました。 土下座と聞いて大変驚きました。しかし、良く内容を聞いて見ると、 その方はその時受け入れられた事への感謝を伝えたかったのでした。 この様名私の知らないエピソードがどれほど有るのか想像もつきません。

五代目と六代目は地元の為に、町議会議長や大部落 (財産区に近いもの)の総代等、様々な役を勤めてきました。 私も青年会議所や商工会青年部 ・ 消防団等、自分成りに一生懸命やって来てはおりますが・・・。

善とは何を指すのでしょう。人間の価値観はその人間が経験してきた人生の中で形成された物差し(価値観)でしか計る事は出来ません。自分の物差しの長さでしか物事は計れず、その長さは必ずしも年齢には比例しないと思います。

近年の経済状況等の厳しさの中で、ゆとりと言う言葉は遥か遠い目標のような気がしてしまう今日この頃ですが、今の自分が出来る「善を積む」とはどんな事なのか?酒造りをしながら出来る事はどんな事なのか?天寿酒造の社長として出来る事はどんなことなのか?自分の短い物差しで「積善家必有餘慶」と書かれた書に向かって考えてしまいました。

静寂を迎えた蔵で桜咲く中、ささやかな自省の時を持つ事が出来ましたが、文字にすると赤面するばかりです。

今後とも精進して参りますので、ご支援の程よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える天寿の歴史

五代目永吉の飛躍その一

代表取締役会長 大井 永吉

五代目は明治二十六年一月一日に生まれ幼名を昌助といった。旧制本荘中学在学中は、特待生として授業料を免除される文武に優れた生徒だった。

若くして (十五歳) 四代目と死別し苦労したが、 免除された授業料を貯めておいて妹の嫁入りの餞にコートを贈るなど家族思いの人でもあったと、 贈られた叔母本人から聞いたことがある。

大正元年東京滝の川醸造試験所に長期講習生として酒造技術を研鑽、矢部偵造、江田鎌治郎、鹿又親など科学的近代清酒製造技術の先覚、偉大な先生方の教えを受け、 当時の最新技術を身につけて帰郷、 その後酒質は飛躍的に進歩向上しり上げ増進の原因となった。

創業当時の小規模な製造場では間に合わなくなり、 隣地を買収して増改築、また昭和三年に従来の銘柄、 「玉の井」 「稲の花」 「大井川」「天寿」 の中から上等酒に付けていた 「天寿」 一本にしぼって世に問うた。 この酒名が愛飲家に喜ばれ、 「天寿」 の名が酒質の良さと相俟って広く知れ渡った。

ここで代表銘柄 「天寿」 の由来について述べてみる。

人生わずか五十年といった時代の七十才といえば、まさに「古来稀なり」であったと思われる。今でも「古希の祝」として祝福する。七十七歳は「喜寿」、八十八歳は「米寿」その上になると「白寿」である。白寿とは九十九歳のこと、百から上部の一画をとると白になる。百から一をとって九十九、即ち「白寿」と洒落たわけだろう。この白寿以上の齢を即ち「天寿」という。

五代目永吉の祖母ノブの喜寿のお祝いのとき、当時中国の青島にいた甥の遠藤文哉氏から喜寿を祝福して六枚の拓本を贈られた。一枚の大きさが一尺余、その中の「天」であえい「寿」であった。その二枚を「天寿」に組み扁額にして居間にかけてあったが、良い新種ができ新しい銘柄を考えていて、ハタと膝を打ち「これだ・・・」といったという。

この拓本は中国の山東省にある泰山の頂上に近い磨崖に、古く後魏の時代に刻まれたといわれる千余文字の金剛経の中の二字なのである。

「泰山の安きに...。」といわれるように天下第一を誇る中国の名山で地質学上、古生代、寒武利亜紀の片麻岩といわれ、地球最古の岩の山とされている。

治乱興亡幾万年、 西は黄河の流れる広漠たる大平原、 東は雲海斗置く旭日を迎える大自然の中に、泰山はそそり立っており、 有史この方泰の始皇帝の時代から数々の名跡を残されている。この文字も二千年の昔を物語る目出度い「天寿」なのである。

顧客の百の齢まで幸せに生きることを願い、歳月だけが刻む込むことのできる風格を込めて酒名に戴いたものである。

「和醸良酒」
2004-03-01

「和醸良酒」

代表取締役社長 大井建史

それにしても今年は異様に雪の少ない冬でした。雪室貯蔵の雪室作りにも困るような状態です。「大雪に不作なし」と言う言葉は有りますが、その反対の場合はどうなるのだろうと心配になるこの頃です。今期の米価の値上がりに付いては深刻で、酒造り終盤の今でも酒造組合では米価の交渉中です。県内の酒造好適米については、極端な不作ではなかったにもかかわらず、減収以上の大きな値上がりになりそうです。

2月14日の蔵開放には1500名もの皆様にご来場頂き、心から感謝申し上げます。お客様に天寿の姿勢と心意気を感じていただこうと、現在の形式としてから5回目のイベントでした。ご来場者数増加に伴うスタッフ不足の問題に、弊社のOBや親しい方々が、ボランティアスタッフとして力を貸してくださり、共にこのイベントを作り上げました。この様な方々のご協力があればこそ出来得た事で、この紙面を借りて重ねて御礼申し上げます。

昨年からはせっかくご来場頂く皆様に、更に楽しんで頂きながら矢島町のイメージアップも図ろうと、青団連(矢島町青年団体連絡協議会)が冬祭りを同時に行うようになり、より賑わいを見せるようになりました。天寿のイベントが町の活性化の一助に成れましたのも皆様のご参加のお陰であり、弊社と致しましても欣快とするところであります。

3月5日に甑倒し(蒸米作業が終わる事)となりました。弊社にとっての百三十回目、佐藤杜氏の二回目の甑倒しです。もちろん全ての作業が終わる皆造までにはまだ日数はありますが、蔵の中では大きな節目です。この日は、私と杜氏がそれぞれ最近見学させて頂いた酒蔵の報告と、仕込み作業の反省会も行いました。色々な改善提案とその結果を議論致しました。その後の懇親会では、今年受け入れの多かったインターンシップ(計8名)や仕込み体験申込者の話題となりました。中々良い酒のつまみに成りましたので、突然クシャミが出始めた人もいる筈です。

この人達が天寿の蔵で感じた共通の反応は、

①蔵人が自分の仕事に責任を持ち、誇りをもっている事。

②蔵人が自分の仕事を良く理解し、全体を眺め不足のところに自分の判断で助力に行く流れがスムーズな事。

③杜氏の酒造り(姿勢)の話に納得するし、蔵人が杜氏の姿勢に共感を持っている事。

④社長と杜氏の話が一致している事。

感動しました。杜氏と蔵人のお陰です。私の理想とする全社一丸体制のスタートに立てた気がします。

新種の花酵母3種を仕込みました。今年は全部で5種類です。お馴染みの撫子と日々草の他に、マリーゴールド・しゃくなげ・アベリアの3種です。マリーゴールドは協会酵母よりリンゴ酸の生成が多くさわやかな酸味が特徴です。しゃくなげは9号酵母のような酢酸イソアミル系の香り・アベリアは撫子と同じカプロン酸系ですが、より品の良い香りの酵母でした。

前にもご説明しましたが、花酵母は本来分離法を開発した東京農大短期大学部の中田久保教授の名を頂き、中田酵母と呼ぶべきだと私は考えたのですが、先生がその名を許さないので花酵母と呼ぶことになったのです。自然界に酵母の好む糖分が有る所は限られており、経験上蜜の有る花から清酒酵母が沢山分離される事からその名になりました。この名から花の香りがするだろうと誤解される方がいらっしゃいますが、清酒酵母ですので吟醸香はすれども、その花の香りは致しません。(敢えて説明させていただきました)

一つの花から沢山の酵母が分離されるのですが、純粋分離されたその中から、多くの実験を重ね、醸造特性の特に良い清酒酵母が花酵母と呼ばれるのです。これは、歴史上初めて、清酒もろみ以外の自然界から清酒酵母が分離された画期的な事なのです。新酵母なので花酵母研究会メンバーもその良さを最大限に引き出す努力をしており、年々質的向上が図られております。今後も是非ご期待下さい。

130周年を迎える 天寿の歴史(三)ー2

四代目永吉の巻その二

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

四代目の妻トミエは夫亡き後も長生きした三代目永吉夫妻によく仕えた。経理面に優れ金庫番でもあった。当時は店頭の一斗ほど入る焼き物の容器へ蔵から試桶で酒をはこび、枡で量り売りをしていたので小売の日銭が入ったが、毎日の現金残高を数えるために硬貨を掌に重ねて握り、親指で弾くようにさっと畳の上に十枚ずつ並べていく手際は正に熟練の技で、幼い私にはまるで手品のように見えたものだった。

創業のころはわずか八十石に過ぎなかった造石数が、大正期には三百五十石に伸びを示している。

酒造原料米は主として地元米穀商から買い受けたが品種は「亀の尾」が主であった。ただし品評会に備えて備前米の「雄町」なども使用していたようである。又、大正二、三年のころ米酒交換の事実もあったようだ。

明治から大正初期の小売の容器はほとんどが樽で一升樽・二升樽があり、今の瓶集めの様に樽を集める人を樽拾いと言っていた様だ。量り売りには徳利を持って買いに来たものであった。小売店(曳き酒屋と言った)への直卸、本荘支店への輸送は二斗樽や四斗樽で荷馬車便に頼っている。

酒の価格は由利酒造組合が決定したころは、一升二十五銭から三十五銭台を上げ下げしていたようだが、大正時代になると一石六十円から九十円と高騰している。

トミエは長男の五代目が中学校(旧制)を出、東京の醸造試験所で研修して帰るまでの間、大福帳の記帳など経理はもとより経営全般を支え、若い五代目永吉をよく補佐し事業の発展に大きな内助の功を積んで九十二歳で天寿をまっとうした。

天寿賛歌

汲みあげて 永き齢を保つべし

名も天寿てふ酒のいずみを

よろづよも いや栄えませ天寿てふ

ささの杯重ねかさねて

つるかめのよはひも君やしのくらん

名も天寿なるうまし酒にて

四代目の弟国治(本荘支店経営者)が、母のぶの米寿を祝い歌の道の知友から寄せていただいた七百首を越える祝歌、祝句を編集した冊子(昭和十三年刊)

「温故創新」
2004-01-01

「温故創新」

代表取締役社長 大井建史

皆様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

お蔭様で、天寿は昨年九月から創業130年目に入りました。社長業も五年目となり、この間、社内体制や製品の方向性とそれに伴う設備の改善等一生懸命に改革を行ってまいりました。しかし、市況は大変厳しく、本格焼酎のブームもまた日本酒の売上不振に追い討ちをかけているのが現状です。大手清酒メーカーの大容量や価格訴求のコマーシャルが流れるたびに、日本酒の価値が消えて行く気がする今日この頃です。

しかし、節目を迎えた年で有るからこそ、人・水・米にこだわり続ける伝統を守りながらも、更なる理想の酒造りを追い求めたい。酒造工程それぞれの理想型を模索し、「仕方が無い」を排除し、その理想型を一つひとつ実現すべく努めながら、全てを一歩ずつ高める事により、新しい物にと創り上げて行きたい。

「温故創新」の言葉の中にその思いを込め、それを実現すべく挑戦し続け、皆様に「これこそ」のお酒と選んで頂きたい。それが天寿130年目の心意気です。

昨年末に、ある方から新年の方針を問われました。そして以上が私どもの答えです。ある意味毎年変わらぬ事ではあるかもしれません。しかし、あえて今、この事にこだわりたいのです。新酒造好適米「秋田酒こまち」・新清酒酵母「農大花酵母」・天寿酒米研究会・冷蔵壜貯蔵・新精米機・新白米タンク・洗米ノズルと分離機の改善・放冷機の改善等、これら全てが「温故創新」の基本の上で発想され、実行されて来た事です。

国酒と言われる日本酒ですが、お客様の平均年齢が40歳以下の飲食店では飲まれる姿を見る事が難しく成ってきた昨今です。日本酒の今後の消費量予測等も全く以って情けないものがあります。しかし、少なくともこの通信をお読み頂いている皆様は、日本酒を、そして「天寿」を応援して下さっていると言う事の有り難さを噛締めて、今年も挑戦して参ります。

今も酒蔵の中では、静かに酒が醗酵を続けております。その一本一本に「思い」を込めて、それを感じて頂ける様、精進いたします。

「温故創新」本年もご愛顧の程よろしくお願いいたします。

130周年を迎える 天寿の歴史(三)ー1

四代目永吉の虎の巻

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

四代目は明治四年生まれ幼名を亀太郎といった。鶴は千年、亀は万年と長寿の代名詞にも使われることから、三代目永吉は長男に健康と長寿を願ってつけた亀太郎であったろう。

若いときから技術の研鑽を積んだ亀太郎は十七才の頃から当時酒造りの先進地であった羽前大山村(現鶴岡市)の羽根田与次兵衛(銘酒志ら梅)、羽根田喜右エ門(銘酒梅川)、羽根田与平太(銘酒あら玉)の三つの蔵に修行に行っている。志ら梅の蔵元とは後年、六代目(建徳)の妻イクの姉が羽根田家に嫁いでいたことから親戚関係になったが、何か目に見えない縁の不思議を感じるものである。

四代目永吉は几帳面な性格で、修行の記録を生紙を綴じた手製の帳面に「改良実施酒造秘書」「秘書」などとして明治二十一年から二十四年に書き残している。各酒造場で会得した、いわゆる「醸造秘法」である。内容は「麹米洗方・麹米蒸シ方・麹製造法・もと立ノ方法・仕込ノ方法」など初心者の手を取って教える風に書きしるし「梅川様ヨリ内伝を秘聞セリ必ズ他人ニ聞カシムベカラズ」大亀謹白・・・と結んでいる。技術が公開されず、人から人へ相伝の時代の様子が伺えて面白い。

明治二十年秋田県が酒質の向上を図り、兵庫県に杜氏推薦の申し出をした際、その選をうけ県内各地で技術指導をした鷲尾久八という「秋田県酒造史」に残る人物がいるが、屋嶋酒造組合でも明治二十三年より指導を受けている。酒造史によれば、「氏は灘の技術を導入し、また後継者の教育育成に努めた。その結果各醸造元の酒質の向上は目覚しく、特に長年酒造に当たった矢島町では、酒造家による改良組合を設けて旧来の醸造法を捨てて同氏の醸造法をとり入れた。その結果矢島酒の名声は著しく高揚し、〈中略〉矢島酒の確固たる基礎が築かれた」とあり、これをひも解くとき銘醸地矢島の名を高めた先輩達の結束と心意気が偲ばれ、胸の熱くなるのを覚えるのである。

「夫レ酒造ノ技タル米素水質ハ論ヲ俟タス天ノ時地ノ利人ノ和等皆宜キヲ得テ至極至妙ノ間ニ自然機能ヲ媒シ以テ発酵成熟セシムルモノニシテ口以テ言ウヘカラズ指以テ示スカラズ所謂以心伝心ナルモノ先進後進相接シテ・・・余多年司醸中傍ニ在リテ業ヲ受ケ斯道ノ順序ヲ解セシモノヲ挙クレバ左ノ如シ」

矢島町 明治二十四年 大井亀太郎。以心伝心とまだ相伝の考えは変わらないが、亀太郎は卒業免状を貰い、初めて科学的製造技術が進められた明治末期以前において、灘の技法を導入実施したのである。

四代目亀太郎は明治二十三年に矢島酒造組合の蔵元(銘柄・玉泉)武田源吉の妹トミエと結婚、体力気力共に充実していた時代と思われるが、自分の蔵は勿論のこと妻の実家である武田の蔵と、弟吉松の婿養子先、矢島町大井平三郎の蔵(銘柄・富士川)も指導しながら手伝っていたという。五代目(昌助)の話で、父亀太郎が武田の麹室で仕事中、当時は室温を上げるのに炭火を使っていたが、不完全燃焼のため炭酸ガス中毒で蔵の麹師と共に倒れ、亀太郎は若かったために息を吹き返したが麹師は遂に助からず、悲しむ家族の様子が、駆けつけた幼い昌助の脳裏に焼きついているとのことだった。

四代目は夜中の仕事が多かった当時の酒造りで、酒蔵に寝具を持ち込むほど真剣な人だったが、その真面目さ故か他の蔵まで見なければならない無理が重なったためか、蓄積した技術を十分伝える間も無く、また長寿を願って付けられた名前の甲斐も無く五代目(昌助)が十五歳の時に病気でこの世を去っている。(以下次号)

百三十回目の酒造り
2003-11-01

百三十回目の酒造り

代表取締役社長 大井建史

お蔭様で天寿は創業百三十年を迎えました。ここに改めて、日頃のご愛顧に心より感謝申し上げます。130回目となる酒造りは、10月20日に蔵人も全員入蔵し、25日から蒸しを行い、12月16日にはしぼりたて生酒を発売できる予定です。

今年の設備の改造は、限定吸水洗米の改善・洗米分離機の交換・蒸米放冷機の改造・精米設備の改善等々を設備の保全と共に行いました。張り切ってその効果を試したいところですが、春に立てた計画が業者の都合で遅れに遅れ、蔵人と業者が入り乱れ、てんやわんやの状態です。

心配されていた原料米ですが、東北の中では秋田県が一番良好で、天寿酒米研究会の美山錦は1割収量が減りましたが米の状態はかなり良いので、胸をなでおろしております。また、期待の新酒造好適米「秋田酒こまち」もやや胴割れがあるものの良好な状態ですのでご期待ください。

清酒の不振は何時まで?

皆様もご存知のように、現在空前の本格焼酎ブームです。居酒屋でもメニューの順番が清酒の前に書かれるようになりました。私が社会人になった22年前に第一次の焼酎(チューハイ)ブームが始まり、ヨーロッパやアメリカで空前のホワイトレボリューション(ホワイトリカー革命)真最中で、醸造酒の時代は終わったと言われた頃でした。確かに本格焼酎の蒸留器の進歩は目覚しく、品質の向上が図られ、清酒より小さい手造り蔵から大企業までハズレが少ないと思います。もちろん醸造酒のようにエキス分がないので二日酔いの可能性は少し低いと思いますが、報道での「体に良い…」は少し過剰反応だと思うのですが…

その後、ワインブームが有りましたように、必ず振り子は反対に振れる時が来ます。その時に我々清酒が、どれだけキチンと対応できるか、それまでどれだけの事をして置けるかだと思います。

もっと判りやすく 今流行りのダイニング系居酒屋チェーンを含め、かなりのお酒をそろえてあるお店が増えました。見事に食のトレンド雑誌に載っているものばかりでは有りますが、結構な事だと思います。しかし、メニューが我々の年代以上の人間が昔見せられ、恥をかきそうで当惑したワインメニューの様に見えるのですが…清酒に対しては、まだまだ判りやすい説明や解説の無い所が多いですね。

美味しく飲める様に 前にも書かせて頂きましたが、お酒の味わいは温度や器によって大きく変わります。お料理やその器には随分気を使いながら、お酒になると無頓着な人やお店の多いことに驚くと共に、我々酒蔵の責任を痛感いたします。又「我家は冷蔵庫に入れてます」だけで十分な事だとお考えの方が実に多いのです。凍えてしまっていたり、熱を出してしまったような可哀想なお酒を是非救ってやって頂きたいと思います。一本の酒ですが、美味しさ探しをしてやり、本当に美味しく飲んでやってこそ、そのお酒も本望だと思います。

かっこよく飲みましょう グラスを枡や受皿に載せこぼす注ぎ方をするお店がよくあります。若い人たちには珍しいのみ方なのかもしれません。しかし、ご存知の方も多いと思いますが、昔の立ち飲み屋さんの注ぎ方ですよね(零した分はサービスで)。立派な客単価のお店でも、口を持っていき啜りながら受皿からグラスに酒を戻し…。是非ご検討頂きたい事だと思います。酒は正一合で出すのが当たり前なのでしょうか?私などは飲み比べる場合一合は多過ぎます。80 ml位の少量で安い方が有り難いのですが…。それなりのお店では、それなりの酒があり、それなりの器で、粋にやりたいですね。

書き始めると切りが無いのですが、日本酒が「当たり前」の物から「これこそ」の酒に成る様に、節目となるこの年、変わらぬ心意気に新たな気持ちを込め、これからも挑戦し続けて参ります。

130周年を迎える 天寿の歴史(弐)

与四郎 三代目相続

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

西南戦争も一段落を遂げ世の中も落ち着きを見せてきた頃、明治十一年二月、矢島町の酒造業者達が、当時としては画期的な組織、今日で言う酒造組合に当る「酒造稼年行事組合」を設立している。矢島には当時六軒の蔵元があり、年行事(組合長)は武田佐喜蔵、後に四代目に嫁を貰うことになる蔵元の当主だった。

この年は「製酒醸造増石願」や、「酒価相場書上げ」など売り上げ増や値上げにつながる書類の申請が多く見られる。因みに五月の「上酒売出石代届」によると小売平均一石代金五円二十五銭三厘、製造見込みは百三十石に増えている。“矢島酒” “永吉酒”として評判も良く(当時の銘柄は玉の井であった。)八月には「酒類行商御鑑札御下付願」を申請、積極的に近隣の村々にも売り込みに乗り出している。そして二代目が清酒創業五年間に投入した新時代の酒造経営の基盤を受けて、明治十二年八月長男与四郎は三代目を相続した。時に二十六歳、既に二男一女の親であった。

与四郎は二代目永吉にも増して酒造業に専念した。女房のノブは岩城藩の城下町亀田の士族松村家に生まれ、若くして最初の妻を失った与四郎の二度目の妻となった人。夫唱婦随、夫が製造した糀を糀箱に詰め込んで、それを担いで隣村にまで行商に出たという。糀を升で量り売りするときの量り方がうまく“おまけ”が多いように見えてお客さんに人気があったという。気丈で負けず嫌いでもあったか、「お客さんのほっぺたを殴っても売れるものを造れ」と言っていたことは、技術と自信に裏づけされたポリシーであり、天寿に今も語り伝えられている。先妻の子も含め四男二女を育てながら家業に尽くした内助の功は、我が家の歴史に特筆されるものである。

企業としての発展の歴史の中で大書すべきは、本荘市(当時は本荘町)に販売の支店を開設したことだろう。残念ながら年月の記録は無いが、明治十五年生まれの弟国冶が責任者として赴き一家を構えている事から、開設は明治三十年代後半と思量される。国冶は大変信仰心篤く仏教の信者で寺社への寄進や、いろいろな集まりの世話役、公共の事に熱心な人だった。又、歌俳諧を能くし、座配(行儀作法)の道にも通じていた人で、人脈も広く商売のほうもその繋がりで広がっていった。天寿が現在でも本荘市を一番の市場としているのは、当時の伸展が基盤となっているからで、三代目の卓見と、国冶の功績はまことに偉大であった。(大井家に保存されている古文書を参考資料とした)

創業百三十年にあたり
2003-09-01

創業百三十年にあたり

代表取締役社長 大井建史

明治七年九月十日創業の弊社は、お蔭様で今年百三十年目を迎えました。

ここに改めて、永年のご愛顧に心から感謝申し上げます。

相変わらず現況は大変厳しく、私も社長就任以来色々な改革を行って参りましたが、まだまだ世の中の激変を追い越すほどの変革には、残念ながら至っておりません。

しかし、考えてみますと、創業は戊辰戦争後早々であり、矢島は戦争で焼かれ大変な状況だったはずですし、その後の世界恐慌や第二次世界大戦等を経ても、たくましく生き延びて来た訳です。私の聞く所によると、六代目永吉の兄は大変優秀な人だった様ですが、召集された戦車隊で少尉となり、最初の赴任地のフィリピンで戦死。同年の次代番頭と言われた人も海軍に召集され戦艦大和と共に沈んだそうです。社員にも満州で毒ガスにやられた近衛軍曹や、抑留後にやっと帰り着いたら妻が弟に嫁ぎ居場所の無くなってしまった人等、様々な苦難を乗り越えてきた人たちに支えられて来たからこそ、今現在がある訳です。

そんな世代の人たちに昔話を尋ねると、猫汁を作って食べようとしたら五代目が入って来て、真相を告げられず冷汗をかきながら食べさせた話や、釜場の排水場所での鴨釣り?、天寿が一番にならないと終わらない利き酒等、意外にも腹を抱えてしまうような笑い話が多いのです。

ですから、今を引き継いだ我々も、厳しい現状の中で一生懸命頑張りながらも、その大変さを笑い飛ばしながら、又、楽しみながら、皆様と共に歩んで行きたいと強く思います。

この所の設備の改善や更新は、大変厳しい現況のもと、さらにこの夏も洗米・放冷等の改善を行い、これでほぼ当初の目標をクリアできるものになりました。

さあ、百三十回目の酒造りが十月から始まります。東北の米の状態は大変心配されますが、秋田県南部はまずまずの様です。気持ちも新たに節目の年にふさわしい、定番商品の革新になるような酒造りを、はりきって行なって参ります。

皆様のご声援を、よろしくお願い申し上げます。

130周年を迎える 天寿の歴史

創成期―初代・ニ代

代表取締役会長

六代目 大井 永吉

文政十三年(天保一年、1830年 )初代永吉は、本家五代目大井直之助光曙時代に分家され、羽後国由利郡城内村八森下に居を構えて以来、天保時代には糀や濁酒製造を生業としていた。本家は矢島藩(生駒家)御用達の酒屋であったが、自分も清酒製造業をとの意欲を持っていた様である。

初代には娘はいたが、家業を継ぐ男子が無く、世継ぎとして羽後国雄勝郡西馬音内村の佐藤平治の三男正助を婿養子に迎えた。正助は文政十一年(1827年)三月七日の生まれ、大井家に婿入りしたときは二十二歳(嘉永二年、1849年)だった。正助はなかなかの交際家で矢島藩の家老格の佐藤三平に出入りを許され、八森城のお堀から水を直接蔵へ引いて米洗いに使用する等、政治的にも手腕のある人だった。

この入れ水は大きな水槽(キチといった)に引かれ、その後も水のきれいな冬季だけ雑用水として使われたが、水質の悪化と水道の普及で廃止される昭和三十年頃まで役立っていたのである。

下田沖に黒船が来航し国中が尊皇攘夷で涌きかえったころ、正助は二代目永吉を襲名し静かに時の至るのを待ち受けていた。そして明治のご維新を迎え、世の中の諸制度が新政府によって新しく生まれ変わった。

二代目永吉はここで清酒業に打ち込む決心を固め、明治七年八月十三日、時の秋田県権令国司仙吉宛「清酒醸造願」を申請したのである。これが直ちに聞き届けられ、九月十日、秋田県権令代理秋田県参事加藤祖一から、鑑札を下げ渡すから免許料金十円也を上納せよとの通達を受けている。これが九月十日を我が社の創業記念日としている所以である。

二代目は新事業を興した人だけに仕事に卒がなく、清酒醸造願を出すと同時に「濁酒醸造廃業願」を提出し、その認可が九月十二日となっている。

最初の年の造りは、清酒醸造元石御届書(今日の生産計画書)によれば三十石そして仕込んだ桶は四本、「醸造調べ」の届けでは、此生酒弐拾六石六斗六合だった。

その後売れ行きが順調で事業もどうやら軌道にのったと見えて、明治八年の実績は八十石となり、十一年には酒類行商鑑札を請けて売り上げを伸ばしていった。

二代目は初代の清酒製造創業の夢を実現し、大きく家運を挙げ大井家の基礎を築いた偉大な先祖であった。

明治十二年に長男与四郎に三代目を継がせ隠居、七十二歳で没した。

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