百三十回目の酒造り
代表取締役社長 大井建史
お蔭様で天寿は創業百三十年を迎えました。ここに改めて、日頃のご愛顧に心より感謝申し上げます。130回目となる酒造りは、10月20日に蔵人も全員入蔵し、25日から蒸しを行い、12月16日にはしぼりたて生酒を発売できる予定です。
今年の設備の改造は、限定吸水洗米の改善・洗米分離機の交換・蒸米放冷機の改造・精米設備の改善等々を設備の保全と共に行いました。張り切ってその効果を試したいところですが、春に立てた計画が業者の都合で遅れに遅れ、蔵人と業者が入り乱れ、てんやわんやの状態です。
心配されていた原料米ですが、東北の中では秋田県が一番良好で、天寿酒米研究会の美山錦は1割収量が減りましたが米の状態はかなり良いので、胸をなでおろしております。また、期待の新酒造好適米「秋田酒こまち」もやや胴割れがあるものの良好な状態ですのでご期待ください。
清酒の不振は何時まで?
皆様もご存知のように、現在空前の本格焼酎ブームです。居酒屋でもメニューの順番が清酒の前に書かれるようになりました。私が社会人になった22年前に第一次の焼酎(チューハイ)ブームが始まり、ヨーロッパやアメリカで空前のホワイトレボリューション(ホワイトリカー革命)真最中で、醸造酒の時代は終わったと言われた頃でした。確かに本格焼酎の蒸留器の進歩は目覚しく、品質の向上が図られ、清酒より小さい手造り蔵から大企業までハズレが少ないと思います。もちろん醸造酒のようにエキス分がないので二日酔いの可能性は少し低いと思いますが、報道での「体に良い…」は少し過剰反応だと思うのですが…
その後、ワインブームが有りましたように、必ず振り子は反対に振れる時が来ます。その時に我々清酒が、どれだけキチンと対応できるか、それまでどれだけの事をして置けるかだと思います。
もっと判りやすく 今流行りのダイニング系居酒屋チェーンを含め、かなりのお酒をそろえてあるお店が増えました。見事に食のトレンド雑誌に載っているものばかりでは有りますが、結構な事だと思います。しかし、メニューが我々の年代以上の人間が昔見せられ、恥をかきそうで当惑したワインメニューの様に見えるのですが…清酒に対しては、まだまだ判りやすい説明や解説の無い所が多いですね。
美味しく飲める様に 前にも書かせて頂きましたが、お酒の味わいは温度や器によって大きく変わります。お料理やその器には随分気を使いながら、お酒になると無頓着な人やお店の多いことに驚くと共に、我々酒蔵の責任を痛感いたします。又「我家は冷蔵庫に入れてます」だけで十分な事だとお考えの方が実に多いのです。凍えてしまっていたり、熱を出してしまったような可哀想なお酒を是非救ってやって頂きたいと思います。一本の酒ですが、美味しさ探しをしてやり、本当に美味しく飲んでやってこそ、そのお酒も本望だと思います。
かっこよく飲みましょう グラスを枡や受皿に載せこぼす注ぎ方をするお店がよくあります。若い人たちには珍しいのみ方なのかもしれません。しかし、ご存知の方も多いと思いますが、昔の立ち飲み屋さんの注ぎ方ですよね(零した分はサービスで)。立派な客単価のお店でも、口を持っていき啜りながら受皿からグラスに酒を戻し…。是非ご検討頂きたい事だと思います。酒は正一合で出すのが当たり前なのでしょうか?私などは飲み比べる場合一合は多過ぎます。80 ml位の少量で安い方が有り難いのですが…。それなりのお店では、それなりの酒があり、それなりの器で、粋にやりたいですね。
書き始めると切りが無いのですが、日本酒が「当たり前」の物から「これこそ」の酒に成る様に、節目となるこの年、変わらぬ心意気に新たな気持ちを込め、これからも挑戦し続けて参ります。
130周年を迎える 天寿の歴史(弐)
与四郎 三代目相続
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
西南戦争も一段落を遂げ世の中も落ち着きを見せてきた頃、明治十一年二月、矢島町の酒造業者達が、当時としては画期的な組織、今日で言う酒造組合に当る「酒造稼年行事組合」を設立している。矢島には当時六軒の蔵元があり、年行事(組合長)は武田佐喜蔵、後に四代目に嫁を貰うことになる蔵元の当主だった。
この年は「製酒醸造増石願」や、「酒価相場書上げ」など売り上げ増や値上げにつながる書類の申請が多く見られる。因みに五月の「上酒売出石代届」によると小売平均一石代金五円二十五銭三厘、製造見込みは百三十石に増えている。“矢島酒” “永吉酒”として評判も良く(当時の銘柄は玉の井であった。)八月には「酒類行商御鑑札御下付願」を申請、積極的に近隣の村々にも売り込みに乗り出している。そして二代目が清酒創業五年間に投入した新時代の酒造経営の基盤を受けて、明治十二年八月長男与四郎は三代目を相続した。時に二十六歳、既に二男一女の親であった。
与四郎は二代目永吉にも増して酒造業に専念した。女房のノブは岩城藩の城下町亀田の士族松村家に生まれ、若くして最初の妻を失った与四郎の二度目の妻となった人。夫唱婦随、夫が製造した糀を糀箱に詰め込んで、それを担いで隣村にまで行商に出たという。糀を升で量り売りするときの量り方がうまく“おまけ”が多いように見えてお客さんに人気があったという。気丈で負けず嫌いでもあったか、「お客さんのほっぺたを殴っても売れるものを造れ」と言っていたことは、技術と自信に裏づけされたポリシーであり、天寿に今も語り伝えられている。先妻の子も含め四男二女を育てながら家業に尽くした内助の功は、我が家の歴史に特筆されるものである。
企業としての発展の歴史の中で大書すべきは、本荘市(当時は本荘町)に販売の支店を開設したことだろう。残念ながら年月の記録は無いが、明治十五年生まれの弟国冶が責任者として赴き一家を構えている事から、開設は明治三十年代後半と思量される。国冶は大変信仰心篤く仏教の信者で寺社への寄進や、いろいろな集まりの世話役、公共の事に熱心な人だった。又、歌俳諧を能くし、座配(行儀作法)の道にも通じていた人で、人脈も広く商売のほうもその繋がりで広がっていった。天寿が現在でも本荘市を一番の市場としているのは、当時の伸展が基盤となっているからで、三代目の卓見と、国冶の功績はまことに偉大であった。(大井家に保存されている古文書を参考資料とした)