「温故創新」
代表取締役社長 大井建史
皆様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
お蔭様で、天寿は昨年九月から創業130年目に入りました。社長業も五年目となり、この間、社内体制や製品の方向性とそれに伴う設備の改善等一生懸命に改革を行ってまいりました。しかし、市況は大変厳しく、本格焼酎のブームもまた日本酒の売上不振に追い討ちをかけているのが現状です。大手清酒メーカーの大容量や価格訴求のコマーシャルが流れるたびに、日本酒の価値が消えて行く気がする今日この頃です。
しかし、節目を迎えた年で有るからこそ、人・水・米にこだわり続ける伝統を守りながらも、更なる理想の酒造りを追い求めたい。酒造工程それぞれの理想型を模索し、「仕方が無い」を排除し、その理想型を一つひとつ実現すべく努めながら、全てを一歩ずつ高める事により、新しい物にと創り上げて行きたい。
「温故創新」の言葉の中にその思いを込め、それを実現すべく挑戦し続け、皆様に「これこそ」のお酒と選んで頂きたい。それが天寿130年目の心意気です。
昨年末に、ある方から新年の方針を問われました。そして以上が私どもの答えです。ある意味毎年変わらぬ事ではあるかもしれません。しかし、あえて今、この事にこだわりたいのです。新酒造好適米「秋田酒こまち」・新清酒酵母「農大花酵母」・天寿酒米研究会・冷蔵壜貯蔵・新精米機・新白米タンク・洗米ノズルと分離機の改善・放冷機の改善等、これら全てが「温故創新」の基本の上で発想され、実行されて来た事です。
国酒と言われる日本酒ですが、お客様の平均年齢が40歳以下の飲食店では飲まれる姿を見る事が難しく成ってきた昨今です。日本酒の今後の消費量予測等も全く以って情けないものがあります。しかし、少なくともこの通信をお読み頂いている皆様は、日本酒を、そして「天寿」を応援して下さっていると言う事の有り難さを噛締めて、今年も挑戦して参ります。
今も酒蔵の中では、静かに酒が醗酵を続けております。その一本一本に「思い」を込めて、それを感じて頂ける様、精進いたします。
「温故創新」本年もご愛顧の程よろしくお願いいたします。
130周年を迎える 天寿の歴史(三)ー1
四代目永吉の虎の巻
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
四代目は明治四年生まれ幼名を亀太郎といった。鶴は千年、亀は万年と長寿の代名詞にも使われることから、三代目永吉は長男に健康と長寿を願ってつけた亀太郎であったろう。
若いときから技術の研鑽を積んだ亀太郎は十七才の頃から当時酒造りの先進地であった羽前大山村(現鶴岡市)の羽根田与次兵衛(銘酒志ら梅)、羽根田喜右エ門(銘酒梅川)、羽根田与平太(銘酒あら玉)の三つの蔵に修行に行っている。志ら梅の蔵元とは後年、六代目(建徳)の妻イクの姉が羽根田家に嫁いでいたことから親戚関係になったが、何か目に見えない縁の不思議を感じるものである。
四代目永吉は几帳面な性格で、修行の記録を生紙を綴じた手製の帳面に「改良実施酒造秘書」「秘書」などとして明治二十一年から二十四年に書き残している。各酒造場で会得した、いわゆる「醸造秘法」である。内容は「麹米洗方・麹米蒸シ方・麹製造法・もと立ノ方法・仕込ノ方法」など初心者の手を取って教える風に書きしるし「梅川様ヨリ内伝を秘聞セリ必ズ他人ニ聞カシムベカラズ」大亀謹白・・・と結んでいる。技術が公開されず、人から人へ相伝の時代の様子が伺えて面白い。
明治二十年秋田県が酒質の向上を図り、兵庫県に杜氏推薦の申し出をした際、その選をうけ県内各地で技術指導をした鷲尾久八という「秋田県酒造史」に残る人物がいるが、屋嶋酒造組合でも明治二十三年より指導を受けている。酒造史によれば、「氏は灘の技術を導入し、また後継者の教育育成に努めた。その結果各醸造元の酒質の向上は目覚しく、特に長年酒造に当たった矢島町では、酒造家による改良組合を設けて旧来の醸造法を捨てて同氏の醸造法をとり入れた。その結果矢島酒の名声は著しく高揚し、〈中略〉矢島酒の確固たる基礎が築かれた」とあり、これをひも解くとき銘醸地矢島の名を高めた先輩達の結束と心意気が偲ばれ、胸の熱くなるのを覚えるのである。
「夫レ酒造ノ技タル米素水質ハ論ヲ俟タス天ノ時地ノ利人ノ和等皆宜キヲ得テ至極至妙ノ間ニ自然機能ヲ媒シ以テ発酵成熟セシムルモノニシテ口以テ言ウヘカラズ指以テ示スカラズ所謂以心伝心ナルモノ先進後進相接シテ・・・余多年司醸中傍ニ在リテ業ヲ受ケ斯道ノ順序ヲ解セシモノヲ挙クレバ左ノ如シ」
矢島町 明治二十四年 大井亀太郎。以心伝心とまだ相伝の考えは変わらないが、亀太郎は卒業免状を貰い、初めて科学的製造技術が進められた明治末期以前において、灘の技法を導入実施したのである。
四代目亀太郎は明治二十三年に矢島酒造組合の蔵元(銘柄・玉泉)武田源吉の妹トミエと結婚、体力気力共に充実していた時代と思われるが、自分の蔵は勿論のこと妻の実家である武田の蔵と、弟吉松の婿養子先、矢島町大井平三郎の蔵(銘柄・富士川)も指導しながら手伝っていたという。五代目(昌助)の話で、父亀太郎が武田の麹室で仕事中、当時は室温を上げるのに炭火を使っていたが、不完全燃焼のため炭酸ガス中毒で蔵の麹師と共に倒れ、亀太郎は若かったために息を吹き返したが麹師は遂に助からず、悲しむ家族の様子が、駆けつけた幼い昌助の脳裏に焼きついているとのことだった。
四代目は夜中の仕事が多かった当時の酒造りで、酒蔵に寝具を持ち込むほど真剣な人だったが、その真面目さ故か他の蔵まで見なければならない無理が重なったためか、蓄積した技術を十分伝える間も無く、また長寿を願って付けられた名前の甲斐も無く五代目(昌助)が十五歳の時に病気でこの世を去っている。(以下次号)





