創業百三十年にあたり
代表取締役社長 大井建史
明治七年九月十日創業の弊社は、お蔭様で今年百三十年目を迎えました。
ここに改めて、永年のご愛顧に心から感謝申し上げます。
相変わらず現況は大変厳しく、私も社長就任以来色々な改革を行って参りましたが、まだまだ世の中の激変を追い越すほどの変革には、残念ながら至っておりません。
しかし、考えてみますと、創業は戊辰戦争後早々であり、矢島は戦争で焼かれ大変な状況だったはずですし、その後の世界恐慌や第二次世界大戦等を経ても、たくましく生き延びて来た訳です。私の聞く所によると、六代目永吉の兄は大変優秀な人だった様ですが、召集された戦車隊で少尉となり、最初の赴任地のフィリピンで戦死。同年の次代番頭と言われた人も海軍に召集され戦艦大和と共に沈んだそうです。社員にも満州で毒ガスにやられた近衛軍曹や、抑留後にやっと帰り着いたら妻が弟に嫁ぎ居場所の無くなってしまった人等、様々な苦難を乗り越えてきた人たちに支えられて来たからこそ、今現在がある訳です。
そんな世代の人たちに昔話を尋ねると、猫汁を作って食べようとしたら五代目が入って来て、真相を告げられず冷汗をかきながら食べさせた話や、釜場の排水場所での鴨釣り?、天寿が一番にならないと終わらない利き酒等、意外にも腹を抱えてしまうような笑い話が多いのです。
ですから、今を引き継いだ我々も、厳しい現状の中で一生懸命頑張りながらも、その大変さを笑い飛ばしながら、又、楽しみながら、皆様と共に歩んで行きたいと強く思います。
この所の設備の改善や更新は、大変厳しい現況のもと、さらにこの夏も洗米・放冷等の改善を行い、これでほぼ当初の目標をクリアできるものになりました。
さあ、百三十回目の酒造りが十月から始まります。東北の米の状態は大変心配されますが、秋田県南部はまずまずの様です。気持ちも新たに節目の年にふさわしい、定番商品の革新になるような酒造りを、はりきって行なって参ります。
皆様のご声援を、よろしくお願い申し上げます。
130周年を迎える 天寿の歴史
創成期―初代・ニ代
代表取締役会長
六代目 大井 永吉
文政十三年(天保一年、1830年 )初代永吉は、本家五代目大井直之助光曙時代に分家され、羽後国由利郡城内村八森下に居を構えて以来、天保時代には糀や濁酒製造を生業としていた。本家は矢島藩(生駒家)御用達の酒屋であったが、自分も清酒製造業をとの意欲を持っていた様である。
初代には娘はいたが、家業を継ぐ男子が無く、世継ぎとして羽後国雄勝郡西馬音内村の佐藤平治の三男正助を婿養子に迎えた。正助は文政十一年(1827年)三月七日の生まれ、大井家に婿入りしたときは二十二歳(嘉永二年、1849年)だった。正助はなかなかの交際家で矢島藩の家老格の佐藤三平に出入りを許され、八森城のお堀から水を直接蔵へ引いて米洗いに使用する等、政治的にも手腕のある人だった。
この入れ水は大きな水槽(キチといった)に引かれ、その後も水のきれいな冬季だけ雑用水として使われたが、水質の悪化と水道の普及で廃止される昭和三十年頃まで役立っていたのである。
下田沖に黒船が来航し国中が尊皇攘夷で涌きかえったころ、正助は二代目永吉を襲名し静かに時の至るのを待ち受けていた。そして明治のご維新を迎え、世の中の諸制度が新政府によって新しく生まれ変わった。
二代目永吉はここで清酒業に打ち込む決心を固め、明治七年八月十三日、時の秋田県権令国司仙吉宛「清酒醸造願」を申請したのである。これが直ちに聞き届けられ、九月十日、秋田県権令代理秋田県参事加藤祖一から、鑑札を下げ渡すから免許料金十円也を上納せよとの通達を受けている。これが九月十日を我が社の創業記念日としている所以である。
二代目は新事業を興した人だけに仕事に卒がなく、清酒醸造願を出すと同時に「濁酒醸造廃業願」を提出し、その認可が九月十二日となっている。
最初の年の造りは、清酒醸造元石御届書(今日の生産計画書)によれば三十石そして仕込んだ桶は四本、「醸造調べ」の届けでは、此生酒弐拾六石六斗六合だった。
その後売れ行きが順調で事業もどうやら軌道にのったと見えて、明治八年の実績は八十石となり、十一年には酒類行商鑑札を請けて売り上げを伸ばしていった。
二代目は初代の清酒製造創業の夢を実現し、大きく家運を挙げ大井家の基礎を築いた偉大な先祖であった。
明治十二年に長男与四郎に三代目を継がせ隠居、七十二歳で没した。