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蔵元通信

日頃お世話になっている皆様に、私ども天寿酒造が何を考え・守り・求め・挑戦しているのか、その思いをお伝えしご理解いただくために、「蔵元通信」を発行しています。
お酒はどのような狙いで造られたものなのか、季節や旬の食べ物に合うお酒、また飲み方、そして鳥海山の登山口であるこの矢島町の様子などをお届けいたします。

秋田酒米事情
2019-11-05

秋田酒米事情

代表取締役社長 大井建史

初めに、この度の台風で被災された皆様に心からお見舞い申し上げますと共に、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

今年は各地で天災による大変な被害が出ておりますが、幸いにも秋田の米の作柄は104%でやや良と言われております。稲の成長を例年と比べますと、春は日照不足により一週間遅れましたが、八月に入ってからの熱波でお盆には一週間進んでいる程の違いが出ました。

私が秋田県酒造協同組合の原料米対策委員長を拝命してからなんと13年目に成りました。異例の長さではありますが、その間酒造組合が買い取る米を全て契約栽培と致しました。

最初は県産の酒造好適米が正式な契約栽培に成っていなかった為、生産調整の権限が酒造組合に無かったり、県と酒造組合が十年かけて開発した酒造好適米の種子が県外に流れそうになっていたりと、契約栽培の基本が曖昧な状態でした。問題提起したところ、いつの間にやら委員長に指名され現在に至ります。

最初の仕事は「秋田酒こまち」の種子が勝手に売買されない様に県条例にしてもらった事。基本的に酒造好適米は食用米に適さないので、売買契約のある農家にのみ種子を販売し、過剰生産に成らない様にしました。

次に酒蔵への契約栽培のルールの説明と理解を図りました。農家と酒蔵の関係はお互いに良くなければ持続しません。持続可能な契約とは何かをしっかり認識し、将来の安定も確保した関係を構築しようと努力しました。

精撰等の仕込みによく使われる当時四千トン以上あった食用一般うるち米も、加工用米として購入すると国の補助金が入り、酒蔵にも有り難いリーズナブルな購入価格となりますが、産地や品種の指定が基本的に出来ません。しかし地域流通米制度が出来てすぐに秋田県酒造組合として取り組み、全国に先駆け、加工米の補助金を取り入れたまま県内農協と生産エリア・品種の指定も可能な仕組みを構築し、県外酒蔵から羨望されております。

また、秋田県で新開発した酒造に適した米「ぎんさん」を敢えて酒造好適米登録しない事で、地域流通米等にも作付け可能にし、普通酒の原料米からの品質向上に貢献いたしました。

更に9年前から、日本で初めて秋田県酒造組合として団体で山田錦の村米制度に参入しました。秋田県での使用量は比率的には少ないのですが、全国新酒鑑評会出品酒用に兵庫県の山田錦が使用されています。(この優良酒造好適米「山田錦」を超える事を目指し十年間の研究を経て開発された「秋田酒こまち」は、良質ながら軟質米系となり、山田錦とはタイプの違うものになりました。)現在は3000俵を超える契約栽培となっており、結果弊社の使用原料米は天寿酒米研究会産とあわせて、全て契約栽培米です。

九月十四日、晴れ。

杜氏 一関 陽介

鳥海山に登ることにした。人生で初めての本格的な登山である。社員少数精鋭ではあったが、「鳥海山」という酒を醸す者として、一度も登った事がないのは如何なものかと思ったのがきっかけである。

山は雄大な美しさだけでなく、それ以上に怖さを持つ。登山経験者から聞いた話によれば、苦労はするだろうという覚悟はできていたわけだが、いつも目の前にそびえ立つ鳥海山に私は親近感を持っているせいか、「どうにか登れるだろう」と少し簡単に思っていた。結果は山頂まで残り三百メートルのところで断念し、登頂はできなかったわけだが、本当に行って良かったと振り返る。ここで私が登頂できなかった話はひとまずおいておく。

登山の少し前の話である。私は基本新しい事を始める時は物から入るタイプで、登山靴・ストック等をしっかり揃えることにしスポーツ用品店へ足を運んだ。当然登山経験の無い私は店員さんへとりあえずお任せすることにした。店員さんは自身も登山が大好きだそうで、鳥海山の麓に住む私を羨ましそうにしていた顔が今でも印象に残っている。そして初心者である私に装備だけでなく、いろいろなアドバイスをしてくれる等、丁寧に対応してくださった。また、私が勝手に感じた事ではあるが、接客の姿勢は登山が大好きだからこそ、初めての登山を楽しいものにして欲しいという気持ちがこちら側に伝わってくるようであった。だから私はこの人から買おうと思った。

会計を済ませた時にはすっかり頂上まで無事に行って帰って来る場面を想像できるほどであった。結局登頂断念はしたものの、おかげで楽しい登山になった事を、次に登山をする準備の時にでも、店員さんに報告できればと思う。

さて、登頂を断念した私の話である。九合目を過ぎ、頂上がすぐそこに見えているのに足が進まなかった。完全に日頃の運動不足と根性の無さが原因である。ただ、無理をして登り、下山できないなどということにならず本当に良かった。今回の登山で目標達成はならなかったが得たものは沢山あった。その中でも山に登るという一つの目的達成の為に、お互いが気遣い、助け合う気持ちを共有できたことで、同行した社員のチームワーク力は上がったのではないだろうか。

そして、肌で感じた大自然の驚異、雲の上から見た美しい景色など自分の五感で感じた風土をどうにか表現できないかと考えているところだが、令和最初仕込みも既に始まっている。セールストークも大事だろうが、「あなたのお酒を買いたい」と言われるような酒質を目指し、私は自分の仕事にこれからも邁進する。

銘酒鳥海山誕生秘話
2019-09-09

銘酒鳥海山誕生秘話

代表取締役社長 大井建史

令和元年、弊社は鳥海山の登山口の町矢島に創業以来百九十年目を迎えた。江戸の藩政時代から矢島酒と称され、第二次世界大戦前には七件の造り酒屋があった。母なる鳥海山の清冽な伏流水を仕込水に地元の米を原料米とし、一九八三年に設立した契約栽培グループ「天寿酒米研究会」等のこだわりの中、この土地で出来る最高の酒を目指して代を重ねてきた。

私が社長を継いだのは一九九九年であったが、当時は焼酎ブームやワインブームで、日本酒の需要が手の打ちようも無い程の激減期であったが、色々思い惑いながらも造り酒屋とは何か?代を継ぐとは何か?を考え基本に戻る事が出来たと思う。

長い年月造り酒屋を続けてこられたのは、美味いと言って頂ける品質の酒を造り続け、さらにその時代・時代に合った革新を重ねる事が出来たからだと考える。

社長になる二年前から始めたのが今の純米大吟醸鳥海山の開発である。当時の大吟醸は一升瓶で五千円~一万円であったが、「一升瓶で三千円以下でどこまで良い酒を造れるか」と言う命題を掲げ、昔から良いとされる工程一つ一つを検証し、真に良い事であれば現代の技術や設備を用い更に前へ進めるという考え方で試行錯誤を繰り返した。予算には爪を立て設備投資には脂汗であったが、細やかに数多くの試験を重ね原料処理から瓶火入れ冷蔵貯蔵まで二十年以上に渡る技術と努力の積み重ねで出来た酒である。

最初にこだわったのは原料処理だ。私の言う原料処理とは、天寿酒米研究会での原料米育成・精米・洗米・浸漬・蒸米をして麹や醪部門に渡すまでを言う。洗米や蒸し上がりの目標水分とのブレは0.001%。これが絶対の基準であるため、ここが崩れると他の改善の良否があやふやになる。酒造りの全工程において改善出来るのは一つだけが前提で、きちんと検証しながら進めないと無駄な時間となってしまう。全工程の一か所でもぶれると比較する意味がなくなる。だからこそ、一つ一つ技術改善や精度を上げる事で酒質の向上が生まれる。

また、改善を進めていくと瓶火入れと冷蔵貯蔵が吟醸酒にはいかに大きな影響を与えるかがわかる。船舶コンテナ冷凍冷蔵庫一基から始まった冷蔵貯蔵庫は、コンテナ十一基大型の冷蔵倉庫が六棟、中型プレハブ冷蔵庫が三個と現在の天寿はさながら冷蔵倉庫会社の様相である。

農大花酵母との出会いも弊社の酒造りに大きな影響を与えた。農大醸造学科の恩師中田教授からお声をかけて頂いて花酵母の試験醸造に参加したが、明治の頃まではそれぞれの酒蔵の蔵付き酵母で醸されており、香りと酸の種類を司るのが酵母の為、当時は味・香りの幅が大きかった事が想像される。しかし、大正から昭和の初めに酒を腐造させる野生酵母が流行し、現在の協会7・9・10号酵母三種類を全国で使用するように成った為、味や香りの幅が極端に狭まった。その味わいの幅を広げるためにも、米の品種や精米歩合だけでなく、大変大きい影響のある清酒酵母の種類が増える事は大いに意義がある事だ。

私は農大花酵母研究会の初代会長を務めさせて頂いたこともあり、新酵母と相まって清酒を飲んだ事が無くても親しみやすい吟醸香を持ち、食事をしながら飲みやすくワイングラスでも味わいの広がる酸味ある純米吟醸酒を醸し上げる事が出来た。

お陰様で、開催の増えた日本酒コンテストでは、高級酒ひしめく純米大吟醸クラスの中で精米歩合五十%、価格も千五百円とコストパフォーマンスの良さを実現しながら、数々の賞を受賞する事が出来た。

今では弊社の基幹商品となった鳥海山シリーズ。これからも一歩ずつ、昨年より今年の味をと言える様不断の改善を続けて参ります。

夏の終わり

杜氏 一関 陽介

冬は酒造りに集中する私にとって、夏を如何に楽しむかというのが毎年の課題である。和太鼓が好きな私には、夏祭りのお囃子の音色や街の賑やかさに心を躍る時期でもある。

そんな夏も終わりに近づき、この時期の風物詩といえばやはり花火だろう。夜空を彩る華やかさと一瞬で消えてしまう儚さが何とも言えない切なさを演出する。限られた色の中で大きさや形に工夫を凝らし、演技構成で人々を魅了する。花火師の方々の気持ちを勝手に推察するに、想いを込めた一発が見る人にどのように映るのか。また職人として自分の技術を発揮する場面でもあるだけに、掲げてみないと分からない緊張感は想像を絶する。

一方、私達観客が花火大会前に気にする事といえば「誰と行くのか」「雨天中止にならなければ良いな」「酒とつまみは何にしよう」「場所取り」くらいではないだろうか。

何万人もの集客を誇る花火大会であれば、観客のシチュエーションはそれこそ千差万別である。その万人の期待に応えようと危険と隣り合わせでもある花火師の苦労は計り知れないが、観客に感動を届けられた時の達成感は限りない喜びであろうと推測する。

終わった後は「綺麗だったね」

「また来ようね」そんな言葉が聞こえてくる。最高の誉め言葉ではないだろうか。

自分の仕事に納得できる・できないはあるにしても、人の感動を呼ぶ事ができる職業は本当に素敵だと思う。夜空の花火を見ながら、私には何ができるのかと考えさせられたという話である。

変遷
2019-06-27

変遷

代表取締役社長 大井建史

令和元年全国新酒鑑評会ではお陰様で昨年に続き、金賞をいただいた。金賞の総数では今年も福島県が最多受賞だったが、受賞率では秋田県が全国一位となり、皆で達成を喜んでいる。

毎年、全国の酒蔵がこの全国新酒鑑評会の金賞を目指して挑戦している。蔵人の先頭に立つのは杜氏であるが、大ベテランも、新人も等しく同じ土俵に上がり、これまでに培った知識や経験・チームワーク・体力・誇り、持てる全てを注ぎ込んで出品酒を創り上げる。

審査の基準や、時代の求める味わいの変化は常にある。それに合わせて行くのか、独自の信条を貫くのかは蔵ごとの考えだが、どの道を行こうと真剣に一丸となってその年の酒造り最大の山場へ挑むことは、杜氏、蔵人、ひいては蔵そのもののレベルの向上に繋がると私は信じている。

毎年もう一歩先のレベルへ挑戦する事を続けて行くこと・学んで行くことによって、酒蔵の各工程の精度や基準が確立され、部署ごと・蔵としてのプライドは確かなものとして磨かれて行くのだ。

六月二十二日に開催された日本酒造組合中央会主催『新酒鑑評会入賞酒一般公開・日本酒フェア』は、最も多くの酒蔵が全国から集まるイベントだ。私も弊社出品酒と他の入賞酒の傾向を確認するために唎酒をしてきたが、来場者が多く二時間半を費やしても全ては周りきれないほどだった。その中でも一時期より受賞酒のタイプの幅が広がっていることは強く感じられた。香りがありながらグルコース値の高い甘口の酒が多い中、辛口タイプや評価から弾かれる事の多かった酸のあるタイプも散見された。

今年、弊社が『令和』と題して記念発売した酒は、平成元年の金賞受賞酒を三十年冷蔵熟成した雫どり大吟醸だ。これは日本酒度+5度・酸度一.二のキレの良いやや淡麗な酒質。長期熟成により糖分がキレ良く変化したが、当時の評価基準と考えるとその違いが大変面白い。

平成元年の杜氏は四代前の中野恭一氏。山内杜氏の中でも高く評価された方で、大きな声は出さず淡々と指示を出し、自分も常に現場に入る率先垂範の人だった。帰ったばかりの若造の跡取り息子をもきちんとたて、話を真剣に聞いてくれる杜氏だった。

私の記憶では平成元年秋田県の金賞受賞はわずかに三社。山田錦も産地などは選べず、一または二等を僅かに確保。酵母は熊本九号が全盛で、秋田はAK-1が出る前の通常の協会九号酵母での挑戦だった。『中野おやじ』と呼ばれ「えじ、えじせ」(「あれ、あれしろ」)で何を指示されたか判らないと己の未熟さを恥じなければいけなかった。そんな蔵人たちのなぞなぞの様な連携が面白くて、いつまでも見ていた事が思い出される。

その時代からの最後の蔵人が、この造りで引退を迎えられた。急速に蔵人の年齢層が若返る中、天寿の蔵人気質をよく伝承してきてくださったと感謝している。引き留めたい気持ちもひとしおだが無理はいけない…。

新しい時代を切り開くには若い力が必須である。未だ秋田県最年少杜氏の一関も七造りを終えて安定感が出てきた。伝承されるものと挑戦して行くもの。『一関杜氏の育てたチーム』が形作られて行くのはこれからである。私共々、変化を成長に繋げて行きたいものである。

定番

杜氏 一関 陽介

定番という言葉は、元々ファッション業界で使用される用語で、長く商品番号が一定であることに由来するそうだ。流行や情勢に関わらず安定した売り上げを確保できる商品の事で、いつもそこにある「お決まりのもの」と言ったところか。今自分達の商品でそれにあたるものは当然すぐに頭に浮かぶ。

昔の話になるが、今から約四十年前、昭和五十年代前半が弊社出荷量のピークで全出荷数量の約九割が二級酒(現:普通酒)だった。紛れもなくそれが当時の看板商品。そしてその頃から徐々に普通酒の出荷量が減り始めていったようだ。

そして私が入社した約十五年前でも普通酒の売り上げが今の三倍で全出荷数量の七割を占めていた。だが、平成二十年代に入ると、一気に特定名称酒の台頭と商品の多様化が勢いを増した。普通酒を追い抜く勢いで純米吟醸・純米酒の定番化が一気に進んだように思える。

その原因をすべて時代の流れ(ブーム)と言ってしまえば簡単なのであるが、食文化や生活スタイルの変化が要因ではないかと私は思う。職場や友人との宴会が少なくなり、飲みニケーションは希薄になる反面、酒歴を見ながら利き酒したり、料理に合わせるなど今日飲むお酒を考えて選ぶ事を個々で楽しむようになった。そして前号でも触れたように、欲しい情報はすぐ手に入る時代になり、通販はもとより商品が手に入るとなれば、お客様自ら酒蔵へ足を運んで購入されるようになっている。弊社にも蔵見学を希望される方や商品を求めて全国からお客様がいらっしゃるようにもなった。また試飲会や日本酒イベント等にも足を運んでいただけるようにもなった。とてもありがたいことである。

時代はお客様に求められる時代へ突入したのだ。飲み手側が変われば造り手側も変わらなければいけない。

昭和から平成にかけて弊社では原料米は天寿酒米研究会を中心として全量契約栽培米にこだわり続け、農大花酵母の使用や生酛造りの復活まで様々な技術革新があった。そして最新の醸造機器の導入と先輩杜氏・蔵人が研鑽を積み、努力があったからこそ、現在の酒質と商品構成があることを忘れてはいけない。

さて、ここで「定番」を考える。

昔から受け継がれる蔵の伝統が詰まる商品や製造技術の向上で躍進してきた商品など、会社の核となる商品は「天寿の定番」として守り続けなければならない。

しかし、四十年前とは違い、「お客様の求める定番」が分散化し「お決まりのもの」を定めるのは少々困難な時代になったと感じる。七年前、私が杜氏に就任した際に定番商品の品質を安定・向上させる事を自分の目標とした。これからもその目標に変更はないが、「天寿」をお客様の定番にしていただけるような品質を目指すのが今後の目標である。

令和へ
2019-04-01

令和へ

代表取締役社長 大井建史

いよいよ令和と言う新時代を迎える。昭和三十四年に生まれた私は昭和・平成・令和の時代を生きることとなった。私の祖父の五代目が明治・大正・昭和と生き抜いて、私などからは「明治生まれか~!」と感嘆符が付く位お年寄りに思っていたが、正に当事者となった今、私は突然老人になった気持ちはさらさらない。

平成のこの三十年は私の人生の丁度半分であり、結婚・子育て・社会人としての仕事・JC・会社役員としての試練等々最も濃い時間を過ごした時代でもあった。

平成元年は秋田県酒造組合青年部である醸友会で企画した「酒ライブ」の実行委員長で、柳ジョージとレイニーウッドをゲストに迎えてのイベントを行うはずだったが、寸前で「大喪の礼」となり一瞬茫然としたが、思った程の混乱もなく返金が終了しホッとした記憶がある。(翌年リベンジで実行し大盛況でした)

また、この年は父六代目と同い年の故中野恭一杜氏の最後の金賞受賞年でもあった。この頃はYK35の真っ盛りで協会十号九号酵母の併用から九号一本に絞ったばかりの頃だ。今では考えられないがその年は全国の金賞は秋田では三社のみ、しかし、天寿ではこの年は成績抜群で全国新酒鑑評会金賞・東北清酒鑑評会金賞・秋田県清酒鑑評会金賞知事賞の三冠を達成した。図らずも丁度この年次女が生まれたので、紹興酒の華彫酒と同様に健やかな成長を願い、その年の出品酒は冷蔵庫に取って置く事にしたのだった。

この度の生前譲位と言うご英断のお陰で、同じ学年である新天皇陛下がご即位され、ご慶事が執り行われることは誠におめでたい事と存じます。

このご慶事を記念して、貯蔵していた平成元年の出品酒七二〇㎖ 百本を限定で発売する事ととした。

出品酒とは、全国新酒鑑評会に蔵元の名誉をかけ、その品質を世に問う大吟醸酒のこと。吊り下げた酒袋から滴り落ちる雫一滴一滴を集めた鑑評会出品酒は、厳選した酒造好適米を極限まで磨き上げ、麗峰鳥海山の万年雪を精とする清冽な仕込み水を用い、伝承の技を受け継ぐ杜氏と蔵人が、そのもてるすべてをかけて醸し上げた入魂の逸品。低温では軽快で辛口のシェリー酒の様な香味に感じるが、少し手でグラスを温めると甘みは少ないが、三十年の低温熟成によるレーズンの様な香りと上品なまろやかさが広がって来る。

新天皇の御即位にあたり、平成の時がもたらした上質で円熟した深い味わいを、次代へ想いを寄せるこの時に、是非ご体感いただきたいと願っている。

新時代へ

杜氏 一関 陽介

約三十年前、小渕恵三官房長官(当時)が平成の文字の入った額を持ってブラウン管に映っていたのをハッキリと覚えている。

当時私は父親が転勤族であった為、仙台市に住んでおり小学一年生。子供目線で言えば、「ゲームボーイ・テトリス、魔女の宅急便」などが流行った年である。

あれから三十年。様々な物が進化を遂げ、生活は著しく便利になった。ファーストフード・コンビニは二十四時間営業、スマホがあれば、ワンクリックで欲しい商品が届き、また映画や音楽は配信で事足り、支払いまでできる。そして、SNS等による巨大な情報に埋もれて生きている自分がいる。このような時代になる事を想像できた人はどれくらいいるのだろう。

そして私自身が「今ここにいること」を想像していただろうか。

そもそも酒造りに携わる事も間違いなく想像もしていなかっただろう。とはいえ、小学生の頃、近所のスーパーの搬入口においてあた日本酒や焼酎の空瓶についていたキャップをお店からいただいて集めていたことがあった。今と変わらず色鮮やかで社名やロゴが入っているのが好きで集めていた。駒のように廻すのが好きで、廻すとさらにキレイなのである。ハッキリ言って酒造りとは関係ないが今思えば興味があったのかもしれない。

キャプテン翼が好きだから「サッカー選手」になりたいとか、音楽が得意で和太鼓を習っていたので音大に行って「打楽器奏者」になりたいとかいろんな夢を持ったものだが、現在は「杜氏」である。夢は思い続ければ叶うとは良く言うが、夢が叶う人は思うのと同時に「今できる事」に一生懸命に生きてきた人なのだろう。だから「なりたい」という願望だけでは何にもなれないのだろう。

最初に戻るが、こんなに便利な時代になったのは、そういう時代にするという強い思いで尽力してきた方々が必ずいるのである。そして誰かの為に役に立つと信じて行動した結果なのだと思う。

私の幼い頃の夢は叶わなかったが、お世話になった方や一緒にいてくれる家族や仲間がいること、そして天寿の日本酒を待っていてくれるお客様がいるからこそ、今ここにいることを選択し、酒造りができていることを忘れてはいけない。そして、「今自分にしかできないことを誰かの為にひたすらやる」、それが私の令和時代の目標である。

厳しい環境の中で
2019-03-11

厳しい環境の中で

代表取締役社長 大井建史

二月九日に開催された「天寿蔵開放」には、今年も二千名を超えるお客様のご来場を頂き、心から感謝申し上げます。私共の思いを直接お客様にお伝えする機会を作ろうと平成十二年に始めたイベントも二十回目。今年も沢山のボランティアの方々に応援を賜り、極寒の一日は何とか盛況に終える事が出来た。

異常気象が身近となって久しいが、この三・四年の秋田の冬は特にその感を強めている。一・二月に田んぼの土が出ている事など考えられなかったが、今年は土が出ているだけでなく二月に入ると雪がどんどん消えて、季節が一ヶ月先にずれてしまったような陽気となり、かなり緊張感を強いられる醸造環境である。加えて夏場の水不足や虫の発生等も懸念される。私が入社間もない頃四代前の杜氏が前年に金賞を受賞した翌年、今年もいけると思った春先に急に気温が上がり出品酒に苦みが出て非常に残念な思いをしたり、槽場の臭いに酸臭が混じり始めたりと、清掃を頑張っても環境が整っていないと細かな所で大切なお酒が汚染される可能性が高くなる。

そんなときの為にこれまで一生懸命整えてきた冷蔵設備が活躍する。酒母室・槽場・釜場・壱号蔵等々が醸造環境の保全に力を発揮するのだ。

現在の主力商品「純米大吟醸 鳥海山」を始め弊社の吟醸は全て瓶火入れ冷蔵貯蔵の為、製造工程は精米から瓶詰・瓶火入れ・冷蔵貯蔵までとなる。瓶火入れもここまでの量となると大変な重労働であり、製造計画として盛り込まなくては全く追い付かなくなる。瓶詰の担当社員は瓶火入れが終わる五月連休前まで休日も返上しての多忙な日々が続く。

酒蔵の仕事は原料米の植え付けからお酒になるまでだけではなく、商品企画(品質・スペック・デザインなど)販売企画(販売場所・価格・ルート他)・営業(卸・小売り・飲食店・消費者)と少人数ですべてを行う必要がある。

その為に品質をいかに向上させるかと言う事はもちろんだが、今どのようなシーンで日本酒は又は弊社商品が飲まれているのか?がとても大切な情報となる。様々な場を見て回っているつもりではあるが、皆様からのご意見が何よりも勉強に成る。百九十回目の酒造りも後半に入ったが、より充実した面白い酒にする為にこれからもご指導ご鞭撻を、何卒宜しくお願い申し上げます。

松尾大社参拝

杜氏 一関 陽介

昨秋、「そうだ、松尾大社参拝へ行こう」と思い立ち京都・嵐山へ向かった。松尾大社といえば醸造祖神として有名で、数多くの醸造関係者の方々が毎年参拝されていると聞くが、私は日本酒業界に入って十五年目で初めての参拝であった。敷地内には、お酒の資料館があり、また境内の脇には全国各地の酒蔵の酒樽が納められており、日本第一酒造神と仰がれる所以が感じられる場所であった。

話は一気に蔵内に変わるが、弊社のもろみ蔵には神棚がある。松尾大社守護を祀り、会社の繁栄と働く私達の安全をお守りいただいている。昨年までは古酒の貯蔵に使用していた弊社で一番古い蔵に祀られていたのだが、蔵の改修によってもろみ蔵に移動することとなった。場所を理由にしてはいけないが、今まで醸造期間中(十月~翌年三月)にお参りするのは年末年始くらいのものだった気がする。秋に松尾大社に参拝したことと、毎日の作業場所へ神棚が移動してきたことで親近感が湧いたと言ったら大変失礼だろうが、私の中で身近な存在になっている。

冒頭に戻るが、自分の中で京都へ参拝に行こうと思ったきっかけがある。まずは全国新酒鑑評会の金賞が初めて獲れた事。そして杜氏としてこれから進むべき何かを感じとれるのではないかと思った事。何より一緒に酒造りをする仲間が健康で安全に仕事ができるようにお願いする事である。

そのおかげか、今年度も製成されるお酒は良質で、ケガを負ったり、この冬にインフルエンザを患った蔵人もいない。

酒造りはその会社の蔵人の実力勝負であり、神様にお願いして質が良くなるものではないが、自分の気持ちを落ち着かせたり、安全や災除を祈願することは大切であると思う。

一日の最後に蔵内を一周するのが私の日課だが、神棚に向かい「今日も一日無事に終われました」と報告して終わるのである。

謹賀新年
2019-01-11

謹賀新年

代表取締役社長 大井建史

新年おめでとうございます。

酒蔵では正月も休みなく発酵が続き、新酒が生み出されている。

私は今年、天寿の酒蔵に入って三十四年、社長になって二十年目、そして八月十五日には六十歳の還暦を迎える。六代目が発見した古文書によると翌日の八月十六日には文政十三年分家として創業した天寿酒造は百九十年目に突入する。

三十数年前の第一次焼酎ブームをきっかけに大変動が起き、日本酒の消費量が急速に落ち始めた。日本酒業界は変わらなければならず、何をどうすれば良いか判らないまま業界も迷走した時代。自分が必要とする変化の有り様も手探りであり、凡庸な私は目の前にある危機にもがきながら、愚直に自分の信じる品質の改善の為、技術的・設備的・資金的に挑戦を続けてきた。

「温故創新」を掲げ、蔵人たちと共に酒造りの工程を一つ一つ吟味し、精米工程の改善と設備更新。洗米・浸漬工程では、今では当たり前になった洗米の自動計量・全量笊洗いの方法を創造し、原料米水分のブレを0・00一%にまで精度を向上させた。釜場の改築・設備の改善・更新により、蒸米に使用する蒸気は全て水を沸かした間接蒸気とし、更に乾燥蒸気と熱風の使用で非常にさばけの良い蒸米を生み出している。また吟醸酒は、全てビン貯蔵・冷蔵熟成をしており、社屋の景観は冷蔵倉庫業の様に成りつつある。

「酒造りは米作りから」と地元で昭和五十八年に設立した酒造好適米契約栽培グループの「天寿酒米研究会」はやや高齢化が進んでいるものの、まだまだ元気に頑張ってくれている。秋田県酒造組合原料米対策委員長となり十三年目の現在では、組合取り扱いの酒造原料米は兵庫県秋田村の山田錦から県産酒造好適米・地域流通米の一般米まで全て契約栽培として確保できるようになった。

五年前に和食が世界遺産になって以来、日本酒の輸出も注目されてきた。弊社は輸出を始めて二十年が過ぎ、アメリカ・香港・台湾・中国・韓国等売り上げ全体の一割近くが輸出となった。

現在も日本酒業界の動きは活発で、SNS等を駆使すれば、我々世代が十年かかった情報発信も一年で出来てしまう。良いか悪いか難しい面もあるが、それだけ大きな変化が起こりやすくなったのだろう。

言いたくはないが自分が古くなった感はある。経験で物を言う様な所が多々出てきている。自覚症状というのだろう。体と一緒で、それとどう付き合うかを考えながら、まだしばらくは全力疾走をしてゆきます。

今年もご愛顧の程、宜しくお願い申し上げます。

いつも通り

杜氏 一関 陽介

今回は少し恥ずかしい話を書き記したい。

十月一日、私にとって十五回目の酒造りが始まった。平年より三週間早く始まった今期の酒造りは気温が異常に高く、麹やもろみなどの微生物管理に悩まされるところから始まった。

「いつもと違うことをする時は慎重に始めよう」と心掛けてはいるが、自然や生物相手では、そう簡単にはいかなかった。

「いつもと同じ事をしているのに、いつものようにいかない・・・。」

自分はいつも通りのつもりでも、相手(麹菌・酵母菌)にとっては違う。ただそれだけの事だが、重大な問題である。私が一番悔しかったのは自分にとっても環境が変化していたことに一早く気付けなかった事だ。

簡単に言えば、人間の体温が三十六度で保たれていたとしても、冬の五度の時と夏の三十五度の時では違うはずだ。裸の状態とコートを着ての三十六度は違う。これは当たり前である。

人間がそうであるように微生物にとってもそうだろう。操作的にいつも通り、数字的にいつも通り・・・などということは周りの環境が常に一定であって初めて使える言葉なのだ。微生物にとってより良い環境を作ってあげることができていなかった気がする。

くれぐれも誤解のないように明記しておくが「私の思い通りではなかった」=「お酒が美味しくない」ではない事だけは知っておいて頂きたい。発売中のしぼりたて生酒を是非飲んでいただき、皆様に私の(この反省の)気持ちが伝わってくれるのならば、それも良しと思っている。

最初に戻るが、三週間早く酒造りを始めた理由は、鳥海山スパークリング生酒の製造が主な理由である。そして、いつも冬期のみ酒造りを共にしている蔵人メンバー不在で造るチャレンジでもあった。少人数での仕込み作業の大変さを体感し、前出のような想いの中で搾った鳥海山スパークリングは、あっという間に完売。新商品が出る度に連絡をくれる友人達からの「美味い」の一言はまさに涙物であった。

十二月に入っても、気温が十五度を超えるなど、異常気象ではあるが、中旬から最低気温も氷点下になり積雪も増え始め、いつも通りの矢島の風景に変わりつつある。

そう、この「いつも通り」には要注意。何気なく使うこの言葉だが、嫌いになりそうである。

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20歳未満のアルコール類の購入や飲酒は法律で禁止されています。